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病院に行ってきた、と言った小坂の顔は、何日も眠っていない人のように見えた。
「……先輩?」
「うん」
「大丈夫、そうだった?」
「……包帯でぐるぐるだった。脚はボルトで固定。目を合わせてくれなかった」
臨時行事のお花見になるので本日の昼食は校庭に集合、と担任はホームルームで報告事項を伝えた。なんだそれはと思ったけれど、毎年恒例の行事らしい。
「大丈夫?」
「命に別状はないって」
「そうじゃなくて、小坂さんが」
「……分かんない、寝たい」
「寝不足?」
「なんか、毎晩眠りが浅いかも」
全校花見なんてかったるい、と小坂が言うので、保健室でサボろうか、と提案してみる。少し驚いた顔をして、彼女はわたしを見た。
「そういうこと、言うんだ」
「なにが?」
「サボろうとかって」
「それぐらいで驚かないでよ、金出せとか喫煙しに行くから付き合えって言ってるわけじゃないんだし」
「すごい、そのたとえも」
「ちょっと寝たほうがよさそうな顔してるよ」
あんまり寝てないから、と微笑んだ顔の、目が落ち窪んでいた。短い髪がいつもにまして乱れている。
「本当に大丈夫?」
「なんで?」
「顔が疲れてる」
臙脂色のリボンタイもなんだか曲がっている。小坂のスカートはウェストを折り込んでいるのかわたしのそれより少し短い。
「顔にまで疲れが出たらダメだよね」
「ダメってことはないだろうけど、どうしたの? って、聞いていいもの?」
「……ごめん」
「え、なに、」
「それ、この前私が理由も言わないで怒ったからだよね、聞いていいかって聞いてくれるの」
うん、だとか、ううん、だとか曖昧につぶやいていると、小坂が大きなあくびをした。それはとても長く口をぽかんと開けていて、目尻に涙がたまりすぎるほどだった。
「……眠い」
そう言って、小坂はわたしを手招きする。どこへ行くとも知れずついて行き、教室を出て廊下を進み、B棟へと向かった。小坂の細いうなじが、ついて行くための目印のようにくっきりと目に入る。お弁当は教室に置いてきてしまっていた。花見行事のときは、昼休みの後の五時限がつぶれるらしい。迷ってから諦めた。続きのように吉村先生を思い出す。同じ箸で残りもののお弁当をきれいに食べてしまった人。あのときの、間接キス。
間接キスなんて、その名の通り間接的に触れ合っただけで結局なんの意味があるのか考えれば分からなくなるものなのに、どうしてなんとなく恥ずかしく、くすぐったいような気持ちになってしまうのだろう。
「ねぇ、どこに行くの?」
「うん、秘密の場所」
階段を上がって三階へ向かう。移動教室しかない建物は、人気がなくて静まり返っている。遠くからやわらかな喧騒が聞える。窓の向こうに見える肯定に、たくさんの茶色いブレザーが色とりどりの小袋を手にして集まっていた。先生達もちらほらと混じっている。
「みんな真面目だよね、お花見ですよーって言われたら素直に花見してさ」
「……小坂さん、なんか言葉にトゲがある感じ」
「うん、猫被ってないだけ」
音楽室の前を通ったとき、彼女はちらりと窓に目を向けた。心なしか少し足を速めて。
「猫、」
「え、どこ?」
「違うよ、今、小坂さんが猫被ってるって」
「ああ、うん。女子高だし。お嬢様多いし。でも疲れる。深呼吸できない感じ」
もしかして彼女は、友達がいなかったのではなくて、面倒臭くてひとりだったのだろうか。転入生のわたしに気を遣って、わざわざ懐きにきてくれたのだろうか。
疑問をそのままにしておけなくて、口にした。小坂が振り返る。目を丸くして、そして笑った。
「私、そんなに友達のいない人だった?」
「ううん、えっと、そういうのじゃなくて」
「まあ、そんなに誰かと一緒にいたいとかって言うんじゃないし。安藤さんは美人だから」
「……後半が良く分からない」
「お友達とか特にいらないけど、綺麗なものは傍に置いておきたいというか」
「わたしは観葉植物の類?」
再び歩きだした小坂は、スカートのポケットから何かを取り出した。音楽室を通り過ぎて、音楽研究室も通り過ぎる。その先なんて非常口しか、と思ったけれど、違った。もうひとつ、ひっそりと灰色の扉があった。ポケットの中身を、小坂がその鍵穴に差し込む。
「楽器庫」
ぽかんとしているわたしに、小坂が言った。こちらが口を開く前に、南條が、と続ける。
「吹奏楽部の部長で、鍵持ってるの。今はほとんどみんな自前の楽器だし、ここに入ってるのはほとんど使わないから、ほぼ誰も来ないし」
「……南條、先輩?」
「うん。この前の転落事故の」
促されて中に入る。ティンパニーやマリンバなどの大型楽器が、透明のビニールを被せられておいてある。鉄製の棚に、黒い大小さまざまな箱がずらりと並べられていた。
「そこら辺がトランペット。こっちがアルトホルンとホルン。そっちにトロンボーン。あっちがユーフォニュームとチューバあとコルネットが少し。で、むこうにフルートとか、ピッコロとか」
「えっと、えっと、トランペットとフルートくらいしか分かんない……」
「金管楽器。弦楽器って置いてないよね」
「っていうか、どうして南條先輩が持っている鍵を小坂さんが……」
「知りたい?」
うっすらと積もった埃が、黒いカーテンの隙間から入る陽の光にきらきらと踊る。手招かれて棚の向こう側に入れることを知った。大きな楽器の通せんぼをよけて、奥に入る。奥の窓はカーテンがしまわれていた。ぽっかりと明るい空間にも、楽器の箱が置いてある。その箱達に囲まれて、小さな空間があった。毛布がひとつ。玩具みたいに真っ赤な冷温庫がひとつ。
「――秘密基地みたい」
「うん、そうなの」
「小坂さんの、秘密?」
「私と、南條の秘密」
理解しなくていいし、拒否されたらそれはそれで仕方ないと思うし、気持ち悪いと思われるかもしれないけれど。彼女はそう言葉を繋いだ。
「南條は、私の恋人」
「――え、」
恋人? 恋人ってなんだっけ、と一瞬頭が真っ白になる。言葉を失くしてぽかんとしているわたしを、小坂がやわらかく目を細めて見ていた。
「引いた?」
「引いて、ない」
「いいよ、みんなに言って気持ち悪がってくれても。なんかもう疲れちゃった」
小坂が冷温庫からコーラの缶を取り出す。扉を開けると、ウィィィィィン、とモーターの音がした。
「気持ち悪いとは思わないし」
自分からわざと傷付きそうなことを言っておいてバリアを張るのは好きではない。
「みんなって、誰のことだか分からないし」
「……怒ってるの?」
「なんで?」
「口調が。なんか怖い感じ」
「小坂さんがつまんないこと言うから」
「女が女と付き合うって、変に思わない?」
「個人の自由だし」
正論だけど本当のところはどう思ってるか分からない回答、と彼女は笑った。
「どうして、って聞いてもいいもの?」
大きな楽器の箱に腰掛けた小坂が、わたしにも座るように促す。首を横に振って、立ったままでいた。
「なにに対する『どうして』だろう、私が疲れてる理由? 南條と付き合ったきっかけ? みんなに言ってもいいって言ったのはどうしてかとか? 小坂奈緒は本当にレズなのかって疑問?」
「ええっと、全部」
「安藤さんって意外と知りたがり?」
「そうでもないけど」
「大丈夫、安藤さんは美人だけど好みじゃないから」
そう言われてしまうとなんとなく傷付くのはどうしてだろう。思わず唇を尖らせたら、小坂は驚いた顔になったけれど、すぐに微笑んだ。
「どうしたの」
「好みじゃないとか言われると、なんか振られた気分で」
「好かれたい?」
「嫌われるよりは」
「キスしたいって言われたら、させてくれるの?」
う、と言葉に詰まったわたしを笑って、小坂はコーラのプルトップを引いた。炭酸の抜ける音が、少しの泡とともに溢れる。飲む、と聞かれて首を横に振る。炭酸は苦手だった。母が、好んでよく飲んでいたから。
神様に祈ったことはない。それは姿も形も知らないものだから。
母はわたしに興味を持たなかった。
一度だけ、殺そうとしたことがあるだけで、そのときが一番わたしに関心を払っていたのかもしれない。二歳の記憶。欠片すら残っていない出来事。真実であるということは、頭の傷でだけ残っている、それ。
小さな頃のわたしは、いつも泣いていた。
誰かの腕を望んでいる。わたしを抱きしめる、二本の腕。泣き止まないわたしの髪をやさしく撫でる手。欲しいのはそれだけ。他に何も望まないから。
わたしの存在を静かに無視し続けた母を、それでも求めているとしたら、それはどれだけ切ない片想いなのだろう。今からでは間に合わないことばかり。抱きしめられることも、甘やかされることも、すべてが。それでも。
小さなままのわたしが、ずっと泣いている。
胸の奥で。
心の底で。
誰かに気付いてもらいたいのか、知られずに隠しておきたいのか、それすら分からなくなるほど、ただずっと泣いている。切ない声を上げて。
本当の父親が、と耳にしたような気がしたので、思わず聞き返した。
「うん、今の父親は、お母さんの再婚相手」
お金持ちつかまえちゃって、私までお嬢様高校とか入れてラッキー、と小坂はおどけてみせる。
「本当の父親が、まあ今で言う幼児虐待のすごい人で。違うな、家庭内暴力のすごい人、か。お母さんとかもよく殴られてて。私もしょっちゅうだったみたい、記憶なんてほとんどないんだけどね」
「……え、」
お花見行事は盛り上がっているのだろうか。終末は雨になるといっていたので、今のうちが今年最後の桜だろう。
「私も結構苦労した幼児期を送っているのよ、なんてね。男の人が怖くなっちゃったのは父親のせいだと思う。って、自己分析。でも正しいよね、多分間違ってない」
「小坂さん……」
彼女は自分の短い髪をつまんでみせる。人差し指と親指と。ねじるように。
「私、ずっと長い髪の毛だったんだって。でも、小学校上がる前かな。なんかで機嫌悪かった父親に、長い髪がうっとおしいって火をつけられたんだよね」
「……え?」
「向こうは軽い気持ちでも、こっちは生死かかってるじゃない。必死だよね。男だって大嫌いになるよ、そりゃ」
あっけらかんと話されるので、こちらは目を丸くしているしかない。
「もう怖くて髪は伸ばせない。知ってる? 髪の毛って結構なスピードであっという間に燃えるんだよ。慌てて消しにきたお母さんは殴られて壁まで吹っ飛んでるし、私の幼少時代最悪過ぎ」
なんと言っていいものなのか、言葉を選んでいるつもりの頭は真っ白で働いていなかった。冗談でしょう、と言ったら、きっと小坂は冗談にしてくれただろう。微笑んで。さすがに騙されないか、なんて言って。そんな気がした。
世界が女の人だけでできていればいいのに、と彼女は目を細める。
「……でも、学校の先生とかは平気、なの?」
「んー、まあ今では。昔はやっぱり男ってだけで怖かったけど、怖がってても拒否しても嫌がっても人類の半分は男だしね。なーんて、今でも怖いし男の人の前だと緊張するしあんまりひどいと吐き気がするし。ずっとカウンセリング受けてた。今も、だけど。でもそれでお母さんはそこの先生と再婚したんだよ、お医者さん。私の担当の先生じゃないけど。世の中、どこがどう繋がるか分かんないよね」
それでずっと私は男の人が怖いんだけど、お母さん以外の誰かに死ぬほど愛してもらいたくて、女の人を好きになったりするんだけどこれが。小坂はそう言って笑う。どんな顔をしていいのか分からず、発する言葉を見つけられないままのわたしとは対照的に、人にいうことなどなかったのだろう過去を吐き出してどんどん表情が軽くなっていく感じがした。
「それで今の恋人が三年の南條なんだけど。これがまた手のかかる女で。一緒にいてくれないと嫌だの、自分以外の女と喋るなだの、お揃いの服を買えだの、一日何回以上メールしろだの電話しろだの、本当にうるさいの」
「……でも、好き、なんだ」
「うん? まあ、うん、それは。うん、まあねぇ」
「照れてる」
「そりゃ、照れる……やだ、安藤さんってなんか、もっとドン引きとかしないんだ。ま、しないでくれるかなって思って話したんだけど」
「うん、びっくりしてるけどドン引きとかは……でもどうしてわたしに話してくれたの?」
「安藤さんの知らないところで、悪いことしちゃったから」
「ええっと?」
「刺されたらごめんね。南條にさ、仲の良い友達ができたって話たら怒っちゃってさ。実はその話をした次の日だったんだよね、南條が飛んだの」
飛んだ。
音楽室のある三階から。
「って、え、わたしのせい? わたしの存在が悪かったの?」
なにげなく口にしてから胸のところが差し込むように痛くなった。一瞬息が止まる。あれ、なんて頭のどこかでは暢気に不思議がっているのに。わたしの存在が。ここでも邪魔だったりしたら。
わたしはどこに存在すればいいんだろう。
「やだ、全然違うよ、南條の嫉妬なんだから。私がさ、安藤さんのことをすっごい美人で頭も良くて、とかって自慢しちゃったんだよね。ほら、今までそこまで仲良くしてた友達とか、作らなかったし」
「そんなにわたし、美人とか頭良いとかじゃないよ、どうしてそんなこと言っちゃうわけ?」
「南條がどんどん嫉妬していくんだもん、なんか……嫉妬されればされるほど、ああ私のこと好きなんだ、って嬉しくなっちゃって、調子に乗っちゃって……」
調子に乗っただけ、でわたしが刺されたらどうするというのだ。
怒ってみるのが正しいのか、困惑してみるのが正しいのか、泣いてみるのが正しいのか、分からなくなって小坂と見つめあってしまった。空気をゆるめたのはこちらからで。
「やだ、なんかすっごい話なのに、小坂さんってば軽く話すんだもん」
「重いこと重く話したって空気が悪くなるだけじゃん。話したからって明日からなんかが劇的に変わるわけじゃないし、今日の続きで時間が流れるなら、そんなに落ち込んじゃうようなことばっか言ってられないと、思って」
コーラの赤い缶。埃くさいようなカビくさいような楽器庫は、静かにひんやりしている。
「……安藤さんって笑わないよね」
「え?」
「なんかあんまり笑わないよね。馬鹿笑いとかだけじゃなくて、だからって人を見下したようにも笑ったりしないし」
「あー……」
上手く笑えない理由を、彼女に話した方が良いのだろうか。小坂が、わたしに秘密を教えてくれたように。けれど、どこから。
「だから私は安心して秘密を話したの。そういう人って、信用できるがして」
彼女はわたしに秘密があるとは思ってもいないか、あるだろうけど知りたくもないのか、自分の話だけ続けた。コーラを飲み干して、立ち上がる。
「帰ろうか」
「どこへ?」
どこへ、と小坂はわたしの言葉を繰り返して、にっこりと笑った。
「どこに帰りたい? 教室じゃなくて、家?」
「家……別に……帰ってもすることないし」
「安藤さんのそういうところ好き」
「……好かれる要素が分かんない」
「そんなもんじゃない? 人なんて、嫌いになるときは理由がはっきり言えるけど、好きになるときの理由なんて明確なのがばしっとあるわけじゃないでしょ」
たとえば、ひとつの箸を使ったとして、間接キスだと自覚して照れくさくなったけど嫌な気分ではなかったとかそういうのは。
「嫌じゃないっていうのは、どういうことだろう?」
「好きってことじゃない? え、好きな人がいるの?」
「好き……?」
「自覚はないの?」
「恋愛とか、よく分からなくて」
それはどのような状態で日常に紛れ込むのだろう。恋はいつの間に人をさらうのだろう。人の心をいつの間に侵食してしまうのだろう。
分からない。少しも。
「相手のこと考えてると、胸がきゅーんっと痛くなったりしない?」
「別に……きゅーん?」
「甘酸っぱい気持ちになったりしない? 顔を思い浮かべるとなにはなくとも幸せになっちゃうような」
「幸せ……?」
吉村先生の顔を思い浮かべる。すぐさま続いて連想されるのはキャラメルで、思わず、甘い、と言葉がこぼれる。
「甘い! ほら、それが恋だって!」
キャラメルが甘いのは恋ではないと思うけれど、弁解する隙も与えず彼女は興奮したように声を大きくする。どうしてこんなにも女子は恋の話題が好きなのだろう。
安藤さんの恋の相手って、と嬉しそうにしゃべり続ける小坂の声に重なり、予鈴が響いた。昼休みの終わりを告げている。顔を見合わせて、帰ろうか、と今度はわたしがつぶやいた。教室へ。
「サボるって手も……」
「次、現国だよ」
「それはサボれない……」
現代国語の授業は、担任が受け持ちだ。
楽器庫を後にして、小坂がきっちりと鍵をかけるのを後ろから眺める。廊下を早足で行くうちに、どちらからともなく走り出した。小阪の唇から、笑い声がこぼれはじめる。
好きってなんだろう。
ここに吉村先生が現れて、廊下を走るな、とか言ってみたりして、その顔をまじまじと見つめたりしたら分かるかも知れない。分からないかもしれない。わたしの唇からは唸り声がこぼれた。母と関係があった人なのに? 好き?
教室に戻った後、五時限目はお花見の続きだったことをふたり同時に思い出した。再度顔を見合わせて、教室で食べ損ねていたお弁当を広げる。プラスチックの軽い箸が、さっき小坂に話したせいかなんだか変に存在感を増していた。吉村先生との間接キス。先生に、母とどういう関係だったのかを聞かなくちゃいけない。聞きたい。
「どうしたの、難しい顔して。嫌いなおかずでも入ってた?」
食べてあげるよ、と小坂が言うのが微笑ましい。だけど好き嫌いはない。だからあげるものはなにもない、と言うと、笑われる。
「好きなものくれてもいいんだよ」
「どうして? どうして好きなものをあげちゃうの?」
「自分が好きなものを、食べさせてあげたい人って好きな人じゃない?」
「そういうものなの?」
「私は、そういうものだと思う」
好きなもの、と考えたけれど、なにも思い浮かばなかった。そういえばわたしの好きなものはなんだろう。吉村先生にも食べさせたい好きなもの、と考えている自分に驚く。




