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合コンの類は意味が分からない。一目惚れをしたことがないからかもしれないし、高校生のときに恋した女性がずっと引っかかっているからかもしれないし、ただ単に一度会っただけの女性の、何が分かって自分と付き合えるのかを見極めるというのかが理解できないからかもしれない。だからといって、合コンで恋人を見つけたいと意気込む人を馬鹿にすることはないし、本当に恋人を作ろうと頑張る人は応援したいとも思う。多少は。
だけれど。
「ボク、彼女ができたらこういう店に行ってみようと心に決めていたんです」
だからといって、合コンの会場しっぽりとデートを楽しむような間接照明の薄暗い、カウンターしかない店で、やるというのはどうなんだろう。横一列に並んでどうやって自己紹介をしようというのだ。
「座席のすべてが個別のソファなんですよ」
伊藤ははしゃいだ声を上げている。彼が連れてきた友人というのが、また冴えない年齢不詳の男ふたりだった。ひとりは明らかに自分で切っていると思われる髪を一本で後ろにくくっているような貧相な男で、もうひとりは小太りの笑い慣れていないような奴で、ひきつるような顔で唇だけを懸命に持ち上げようとしている。
面倒くさがってスーツできたから、他の男メンバーが目立てばいいと思っていたのに、俺以外がそろってチェック柄のシャツで、パンツインなのはどうすればいいのだろう。少なくとも合コンにリュックで来てしまうのは、どうフォローすればいいのか。
「……席とか、どうしようって考えてました?」
「席? 座り心地良さそうですよね、個人用ソファうちにも欲しいなぁ」
「ええと、そうでなくて。合コンって、分かってます?」
「異性の出会いの場所ですよね!」
それはごもっともなのですが。
待ち合わせで俺達を見て若干引き気味だった女子大生達は、さすがに若くて可愛い格好をきちんとしてきていた。見覚えのある女の子が、吉村先生だ、とはしゃいだ声を上げてくれて、多分彼女がうちの高校の卒業生なのだろう。白いワンピースに薄桃色のカーディガンを着ている。
「寒くない?」
「あ、平気です。吉村先生ってば、スーツ着てきちゃって。結構はりきってます?」
「いや、面倒だから仕事着で来ただけ」
「やだ、面倒だからとか言ってる、ムカツクけどなんか許されちゃう!」
つたの絡まるレンガ造りの建物、その二階。なんだか入り辛い雰囲気もあって躊躇している参加者を、伊藤だけがなにも分かっていないように急かす。
「つーか、どうして伊藤に合コンしてやるなんて言っちゃったんだよ、お前」
思い出せない名前を思い出そうとする努力は放棄したまま、こそっと卒業生にささやいた。
「友達を紹介してくれって泣きつかれたんですよ、市民美術館で偶然会っちゃったんですけど。紹介だと一応付き合うこと前提じゃないですか。さすがに紹介した友達に殺されますよ。だから、お茶を濁すつもりで苦し紛れに合コンって……」
「おー、お前も大変だったんだなー」
「まあ、友達には死んでも期待しないで、ボランティアだと思ってって言っといたからいいんですけど。でも先生がメンバー混じってたのはすっごくラッキー!」
「可愛いこというじゃないの」
「吉村先生、恰好いいもん」
とりあえず入りますか、と結局俺が促して女子を店内に入れる。男達はきょろきょろしながら後をついてきて、さて、俺が仕切るのはとてもおかしいのでできれば美味しく飲んだら帰って寝てしまいたいものなのだけれど。
オレンジの匂いがする。
形良く尖らせた爪を硬そうな皮に突き立てて、むしり取るように剥いている。キャミソールからすんなりと伸びた白い腕が、寒そうに見えた。フローリングの床に、細かくオレンジ色の破片が散らばっている。
転がされているうちに眠ってしまったらしい。目隠しは取られていた。ほどかれても起きなかったということは、と考える。そういえば昨日は夜更かしをしてしまい、それなのに今日は居眠りのできない授業ばかりでずっとぼんやりしていたのだった。
「あ、起きた」
半分も剥かないうちに嫌になったらしい女が、皮のないところにそのままかじりつく。途端に、オレンジの香りが濃くなった。唇からこぼれた果汁が手首を伝って肘に流れる。それを女は舌で舐め取った。今日は香を焚いていない。
「ええと、すみません」
「途中から気持ち良さそうな寝息になったから、放って置いてあげたの。やさしいでしょう?」
縛られたままの腕は、右側に体重がかかっていたせいかしびれたようになっている。布団くらいかけてくれたら、やさしいと思ってみてもいいかもしれない。床の上にいたので、身体が痛い。
「お腹が空いたんだけど、冷蔵庫に何もなかったの。ひどいでしょう?」
「……それ、全部剥かないんですか」
「皮が硬くて。あなた剥いて」
「……手が使えません」
「ほどいて欲しい?」
まつげのばさばさと長い目を細め、口角をきゅっと持ち上げて妖艶に微笑む。悪魔というのが存在するのなら、きっとこういう顔で笑うのだろうと思わせるような。
「お腹空いた。どうしよう、ピザでも取ったらあなた食べる?」
珍しくよく喋る女は、本気で腹を空かせているようだった。食べます、と言うと、嬉しそうな顔になる。
「どこかにチラシがあるはずなのよね、いらないときには郵便受けにごちゃごちゃ詰め込んで行くくせに、どこだったっけな」
腕をほどいてはくれないのか。
いつの間にか持ち上げていた首を落とす。床にぶつかった頭が、ごん、と音を立てる。脳に響く、振動。
「お腹が空いてると頭が働かないわ、どこにやったのあのピザの、」
チラシ。歌うように言って、ホットパンツから伸びる白い脚を俺に見せつける。細い足首。足首がきゅっとしまっている女はアソコの締まりもいい女、なんて。学校で誰かが馬鹿話をしていた。童貞ばかりの耳年増、知識だけの頭でっかち。目を閉じる。ここで縛られて転がされている俺を、この女以外の誰も知らない。日常から隔離された空間。マンションの入り口は確かに自分のよく知る道の続きなのに。
「あったあった、さて、どれがいい? なにが食べたい?」
「……なんでもいいです」
「好き嫌いはないの? ピーマンも? ニンジンも? パイナップルも?」
「パイナップル? 甘いピザはちょっと……。でもあればなんでも食べます、結局はパイナップルでも」
床の上に転がされたオレンジは、俺のようには縛られていない分自由で、だけど齧りつかれている分負傷している。爽やかに甘く香る果実、そういえばミカンの類など最近食べた覚えはない。眺めているとなんだか喉が乾いてきた。
「チーズもクラッカーもパンもない、ナッツもコーンフレークもない、トマトもない、ないない尽くしの家だわ」
「そこのオレンジ、」
「それ、最後のひとつ。ねぇ、もしも今日が世界の終わりの日だったら、ふたりでお腹空かせたまま惨めに死ななきゃならないわよ」
「今日は世界の終わりじゃないですし、空腹で惨めに死ぬ前に外に食べに行きます」
「世界が終わる日に、やってる飲食店なんかあるのかしら」
どうだろう。どこにも逃げるところがないのなら、最後の日も普段どおりに過ごそうと考える人がいてもおかしくないのだし、普通に街は機能していそうな気もする。
「オレンジ、食べたい?」
「はい」
「好きなの?」
「いや、特に好きでも嫌いでもないです」
ふうん、と女はつぶやいて、ピザ屋に電話しようとしていた電話の子機を置き、俺の傍にやってくる。オレンジを拾って、硬い皮の方に再び爪を立てた。オレンジの果汁を時々飛び散らせ、ちまちまと皮を剥く。不恰好にぐずぐずになった中身を、そっとつまんで俺の前に差し出した。
「ほら、口開けて」
開ければぐっと押し込まれる。少しむせると女は楽しそうに笑った。べたべたの指で何度もオレンジをむしって俺の口に入れる。何度も繰り返しては笑う。
「甘い……」
「そう? そんなに甘くないわよこれ」
オレンジではなくて、女の行動が。オレンジにまみれた指でそっと俺の唇に触れる。なぞる。そのまま頬に触って、いきなり髪に手を突っ込んだ。ぐしゃぐしゃと頭を撫でられて、犬にでもなった気分にさせられる。
「そんなベタベタの手で髪撫でないでくださいよ、オレンジくさい頭で帰れないじゃないですか」
「シャワー浴びていけば?」
「え……、」
ここですぐに想像してしまうのはもちろん、健全な一般的男子高生なら誰でも考えつくだろうようなことで。けれど女は頭を洗う以外の意味など少しも含めていなかったようだった。
「下着、貸そうか」
「……男物があるんですか」
「ない。買う?」
「……知らないパンツはいて帰ったら、母ちゃんが驚くんでいいです」
いつもより子供じみた横顔で、女は笑った。
どうしてこの人は俺を縛りつけて動けなくさせて、転がしておくだけなんだろう。なにが楽しいのだろう。不思議に思うのは自分に対しても同じで、どうして俺はこの人に目隠しをされると分かっていて、ここにきてしまうのだろう。いつか、なにかがあると信じているわけではない。期待してないとは言い切れないけれど、年上女性と甘いひとときがあるのだと鼻息を荒くして通っているわけではない。
女の、深い水の底で淋しそうに見つけてくれる人を待っているだけのような、そのくせ他人には感心も興味も持たないような目が気になる。格好を付けて言ってみれば、それだけのことで。
「まだお母さんが下着とか買ってくるの?」
「うっ。……まあ、その、勝手にというか、」
つい素直に格好悪いことを言ってしまったことを激しく後悔したけれど、女は笑ったりしなかった。そういうの仲が良くていいわね、と微笑んだだけだった。
「……子供って、産めばみんな可愛いものなのかしら」
「……はい? いや、赤ん坊とかは可愛いんでしょうけど、俺らみたいにでっかくなったら小生意気でうるさいだけじゃないですかね」
「でもあなたは可愛がられてると思う」
うちの母親も知らないのになにを、と思ったけれど、女の顔を見ていたらそういうことではないのだと知れた。だから黙っていた。
べたべたと甘いオレンジの香りが漂う。それは床から、女から、俺の髪から。唇に甘い果実が乾きかけてぺたぺたと張りついた。舌を伸ばして舐めてみる。いつもの香より弱いのに、なぜか鼻に残るその香りが。
「吉村先生、飲んでますー?」
向こうの方から声がする。ぼんやりしていた焦点がふと合って、目の前のグラスで氷が溶け、揺れるのが視界に入った。
伊藤が指定したバーはやはり確実にカップル向きで、一列にしか並べないというのにさっさと入った順に座ろうとする伊藤を制して、多少嫌がっている風の女の子達に席替えをするからという約束もして、男女交互に座らせた。
メニューはそれなりに豊富だった。好きに注文してもらい、ノンアルコールカクテルも充実して入るということで、飲みはじめたら女子大生達もそれなりに楽しそうになってきた。が、男達は話かけるわけでもなくむしろお互いがバラバラにされておろおろしているだけのようで、女の子達はそんな奴らを無視してひとつ向こうの席の友達同士で話しては盛り上がっている。
「酒、久しぶりなんでのんびりやってるよ」
カウンターに身を乗り出して、一番奥にいる卒業生に返事をする。
「先生なんですか?」
隣に座っていた、ショートカットの女の子が話し掛けてきた。最近はワンピースが流行りなのだろうか、この子も胸のところにフリルのついた小花柄のものを着ている。胸のない子の服だよな、と失礼なことを思った。胸の大きな子が着ると、強調されて膨張するだけだ。
「先生なんです、女子高の」
「わ、なんかちょっといやらしい感じ」
「え、俺? いやらしい顔してる?」
「やらしい顔じゃないけど、女子校ってだけでやらしい感じ!」
名乗られたけど耳に残らなかった。数学教師の吉村です、と笑って言っておく。今日の女の子達より安藤のが可愛い。そんな失礼なことを思った。
「こんな格好良い先生が数学教えてくれたら、絶対数学好きになってたと思う!」
「薄暗いから格好良く見えるかもしれないけど、外で見たらただの冴えないおっさんですよ」
なに飲んでるの、と聞けば、ベリーニ、と答えてくれる。
「ベリーニ?」
「桃とシャンパンのカクテルです。ちょっと飲んでみます?」
甘いですけど、と渡された背の高いグラスを傾ける。口つけちゃうよ、と言ったら何故か笑われた。間接キスだ、と思って、また安藤を思い出す。あの生徒は本当に、あの女によく似ている気がする。もう眼差しばかりが思い出されるだけの女性。
「十五年も経つんだもんなぁ」
「はい? やっぱり苦手でした?」
「あ、いや、大丈夫。俺、甘いもん好きよ? キャラメルとか黒飴とか」
胸のポケットから煙草を取り出す。ふちを叩いて出てきた一本を咥え、いいかな、と聞いてみたものの相手の返事は待たずに火をつけた。
「意外! お酒とか煙草とか辛いものとか好きそうな顔してるのに」
どんな顔だ。
「や、酒も煙草も好きだけどさ」
そっちばっかずるい、あたしも吉村先生の隣がいい、と向こうから卒業生の声がする。ベリーニのグラスを返しながら顔を向けると、反対側の端に座っていた卒業生は自分のグラスを持って移動してくる。彼女の隣に座っていたはずの伊藤を慌てて見るけれど、彼もその連れも酒を飲んでひとりで楽しめているようで、まったく合コンの形を必要としない時間のすごし方をしているようだった。
誰のための何の集まりなのか、正直頭痛がしてくる。
「先生のとーなりっ」
卒業生は自分のグラスを持って勝手にひとり席替えをしてきた。なにか言うのも面倒なので黙っている。柑橘系の匂いがした。それであの女を思い出す。べたついた、オレンジの果汁。あれほど甘いものを、もう俺は他に知らない。
「なに飲んでるんですか」
「え、ウィスキー」
「ウィスキー好きなんですか?」
「いや、別に。味とかよく分からないけど、酒と名がつけば」
やだそれおかしい、と卒業生とその友達が俺をはさんで笑い転げる。なにを言っても楽しいのだろう、付き合いで一緒に笑った。
女に不自由したことはない。
特定の枠はすでに埋まっているけれど他にも目移りする、という女は多い。誰かの恋人になりたいわけじゃない。そのときが楽しければ問題はない。遊びで近付いてきて長く続く女もいれば、数回寝た後で結婚が決まったと嬉しそうに言ってくる奴もいる。訳ありだから本気にならないでくれといえば、女は聞き訳がいい。自分だけは特別、なんて思い込みそうなのは最初から選ばない。俺のことをセックスつきの男友達だと言っていた奴もいれば、眠れない夜の抱き枕だと思ってくれていた奴もいる。そんな程度でいい。
「で、どうする、この合コン」
卒業生に小声で囁いた。盛り上がらなさ過ぎて収集がつかないのではないだろうか。というよりも、来てくれている女の子達に悪い。俺の両隣にいる娘達はどうにかフォローできるにしても、他のふたりをどうしよう。なんて、俺ならなんとかしてやれると思うのはただの自惚れなのか。この店の雰囲気では騒ぐのもはばかられる。
「あー、じゃあせっかく一列に並んでるんだし、伝言ゲームでもしません?」
「それはナイスアイディア、なのか分からんけど、やるか。少しは男女の距離感も縮むかも」
「あー、縮めたくないかも!」
「それを言うなよ」
きゃははと笑う声が耳に軽い。安藤なら、とまた俺は彼女のことを思っている。自覚はないが酔ったのだろうか。
「よし、じゃあお前あっちで伊藤先生にゲーム説明してこい。で、文章考えて耳打ちしてこっちまで回せって言ってこい」
「あたし、お遣い係ですか! なんかお駄賃くれます?」
「キスしてやろうか」
セクハラだと騒がれるかと思ったのに、喜ばれた。
「本当ですか!」
「あ、嘘」
「ちょっと先生ー、ひどいー」
「いいから回してこいって、ほら、な?」
ノリがいいだけなのか多少本気なのか分からないままにしておく。
伝言ゲームは伊藤の想像する合コンの内容と合致したらしい。嬉々として、やります、の返事がきた。文章は勝手に考えてくれるだろう。向こうからこそこそと伝言が回ってくる。それなりに顔を寄せて、親密度が増すかどうかはこの男メンバーだと不安だが、何も話さないで終るよりマシだろう。隣のショートカットの女の子が、伝言まわってきました、と微笑んで顔を寄せてきた。危ないので煙草を灰皿に押し付けて消す。それから顔を彼女の口元に寄せた。煙草の匂い、とやわらかく笑う声が耳をくすぐる。
「ええと、『今日はありがとうございました』ですね」
「……は?」
「それだけみたいです、きょうはありがとうございました、って」
「……それって、ゲームじゃなくて本気の伝言なんじゃ――、」
「伝言ゲームって、途中で文章がめちゃくちゃになっちゃうのを楽しむっていう趣旨だったと思うんですけど、」
「俺もそう思います……」
悪い奴ではない。悪い奴ではないけれど、どうも生きている次元が違うような気がする。伊藤は本気で恋人を欲しいと思っているのか、どうして彼女ができないのは自分に問題がありそうだと考えないのか、直接それを本人に伝えていいものなのか、思わず頭を抱えた。だけどもしかしたら途中の誰かが伝言をすり替えたのかもしれない。伊藤の連れてきた男のどちらかが、女の子の耳に顔を寄せるのでどきどきしすぎて、ついお礼を口走ってしまったのを勘違いしてそのまま回しているだけだとか。
「なになに、そんなに面白い伝言だったんですか?」
別隣の卒業生がはしゃいだ声を上げるので、苦笑しつつ伝言を回す。
「『今日はありがとうございました』」
「……で?」
「それで終了」
「……えっと、」
「いや、お前の気持ちは分かる。ごめんな、なんか。って、俺が伊藤呼んだんじゃなくて、あっちが俺をこの合コンに誘ってくれたんだけど」
「伊藤先生がしてくれた唯一いいことって、吉村先生を今日連れてきてくれたことだけですよ」
そうは言いつつも、彼女はすくっと立ち上がると、怒鳴るわけでもないのによく通る声で、「『今日はありがとうございました』ってので合ってますか?」と伊藤達の方を向いて言う。男達からは拍手が上がり、女の子達からは苦笑交じりのため息が漏れた。やはり元々の伝言がそれだったらしい。
「伊藤先生ー、簡単すぎるのダメですよ! じゃあ次はこっちから回しますね!」
耳貸してくださいよ、と卒業生が言うから、素直に顔を寄せた。小さな甘い声が耳にとろりと流れ込む。
「『このあと、ふたりでどっか抜けちゃいませんか?』」
「……ん?」
「回すのは先生の自由です、どうぞ!」
どうぞ、と言われても。
灰皿でもみ消した煙草が、まだ微かに煙を昇らせていた。消し方が不充分だっただろうか。グラスを手に取り、喉を湿らせる。さて、この伝言をどう解釈すればいいのだろう。
後腐れのない女ばかり選ぶとか言って、本当は結局誰からも一番にはしてもらえないだけなんじゃないの。
傷付くのが怖いんでしょう?
誰かを好きになって、突然捨てられて、目の前が真っ暗になって息苦しくなるのが嫌なだけなんでしょう。
抑揚のない冷たい声。大きくもなく小さくもなく、響くのは自分の頭の中で。恋をするのが怖い? まさか。肉体なら差し出せば相手だって受け入れてくれる。それ以上の関係は求めないだけだ。
あのとき、女の部屋には彼女と自分以外のもうひとりがいた。小さな影。最後の日。邪魔なの、とつぶやいた女の、言葉が意味するのは自分のことだと思っていた。誰も吸わない煙草なのに、あのガラスの灰皿はどうして置かれていたのだろう。女の細い腕が振り上げた似つかわしくない重たいそれは、小さな影の頭部に振り下ろされた。
泣き声さえ発せられないまま、倒れた影からは血が流れた。あの、鮮やかな赤い色。静かだった。陰惨な景色の中で、誰も何も言わなかった。目だけが、沈黙の中ビデオカメラのようにすべてを追い続けていた。
フローリングに広がる真っ赤な血は、無音映画のワンシーンのようで。作りものの世界です、と言われた方が、素直に納得できそうだった。
――このままにしておけば死んじゃうかしらね。
ぽつりとつぶやかれた女の言葉に、頭より先に身体が反応していた。救急車と警察と、番号なんて天気予報も時報も電話番号案内もみんなごちゃごちゃに混じって、俺は飛びついた電話で指先をしばらく迷わせていた。住所も分からず、どうにか思い出したマンションの名前を口にして。だけどその記憶は後で自分が勝手に作りだしたものなのかもしれない。女はただ倒れる小さな影を上から見下ろしているだけだった。泣きも喚きもしなかった。いつの間にか床に転がっていた凶器は、ついさっきまで煙草の灰を受けるための使命しか持ち合わせていたなかったのに、と、自分を呪っているかのように沈黙していた。
「――助け、」
て、なのか、なきゃ、なのか。
覚醒までに時間がかかった。そう飲んでいないはずの頭はぼんやりと霞んでいて、どんよりと重たかった。見慣れた天井。次の瞬間意識がしっかりとして、俺は飛び起きる。自分の部屋、自分のベッド。服は、昨日のワイシャツのまま。慌てて見回す。自分以外の影は、ない。
「あー、」
昨日の合コンは最悪だった。そう、あれは昨日。なんの発展もなく終了した。卒業生はあとで抜け出そうと提案してきたが、結局ひとりの女の子が具合を悪くしてしまい、送って帰らなくてはならないということで解散になったのだ。
変な疲れが出たのか、責められる夢を見た。嫌な思い出と混ざった。
土曜日なので学校は休みだが、片付けないといけない仕事はある。いつもの時間で登校しなくてはならないわけではないので、昼からでもいいのだがシャワーを浴びることにした。服のままで寝てしまうなんて、いつ振りだろう。口の中が粘つく。飲んでいるだけでろくに食べなかったせいで、腹は減っていた。
「起きないといけない、っと」
ぼんやりとした頭を左右に振る。シャワー、着替え、職場に行く前にコンビニ。洗濯は溜まっているのでとりあえず洗濯機に放り込んでおいて。順序だてて考えていると、少しずつ覚醒してくる。昨日、あのまま卒業生と一緒に抜け出すことになっていたら、今朝は人肌で目覚めたんだろうか、などという考えまで浮かんできてしまったので、それは脳内から削除した。




