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母は不安定な人だった。
二歳のわたしを灰皿で殴り付けて殺そうとしたとき、あの人はなにを考えていたのだろう。わたしを殺して自分も死のうとした、それだけはけしてないと言える。
『安定した生活ができると思ったの』
飲み屋街でふらふらと働くだけだった母は、確かに美しい人だった。顔と運で父の愛人らしき位置に収まって、肉親のいなかった母は将来の約束が欲しかったのだと言う。生活に困らないお金。たっぷりそそがれる愛情。けれど束縛されない自由。
だけど母は出会ってしまった。
父ではない、運命の恋人に。
なんて。
今は辿って自分で補うしかない答えのない想像。すべては当たっているかもしれないし、まったくの見当違いかもしれない。母の愛した男はただの高校生だった。今のわたしと同じ十七歳だった、吉村彰人。興信所にでも依頼していたのか、母の部屋からは何年分にも及ぶ吉村先生の写真と、家族構成、大学、就職先、普段の生活内容などの報告書が出てきた。
『あんたのお父さんと結婚したのはお金のため。でもあんなに欲しかったお金も、手に入っちゃえばどうしてそんなに欲しかったのか分からなくなるのよね』
父の三番目の妻となったのは、単に母がわたしを産んだからだった。血の繋がった子供がいる。ふたり目の妻が亡くなったときに、父はすんなりと母を選んだ。あれはわたしが小学校五年生の夏。母と吉村先生は、すでに関係を終えていたようだった。それなのにこっそりと、母は彼を追い続けたのだ。
どうして?
執着することが恋なのか。恋をしたことのないわたしには理解できない。
昨年の夏、その母は家を出たきりいなくなった。
いい大人なのだからと父は特に行方を捜しているふうでもない。わたしの目に、そう映るだけかもしれない。二十二でわたしを産んだ母はまだ三十九歳だ。どこかで人生をやり直したいと思っていても不思議ではないし、それが可能な年齢でもあり。
わたしは母からの愛情を感じたことがない。母親らしいことをしてもらったことがない前に、人間として対等に接した記憶がない。あの人はずっと空気のようだった。そこに存在するだけ。目があったときでさえ、遠くを見ているようだった。
『好きとか嫌いとか愛だとか恋だとか、そんなのに浮かれるのはひと時のことよ』
そんな母が唯一執着した人。
吉村先生と母は、付き合っていたのだろうか。それとも、母の片想いだったのだろうか。聞いてみようにも片方はどこに行ってしまったのか分からない。先生に聞いたら、教えてくれるだろうか。母の片想いで終わってしまっただけだったとしたなら、誰のことだか分からないかもしれない、でも吉村先生はわたしを昔の彼女に似ている、と言った。あれが冗談でなかったとしたら。
わたしの母に愛された、その感想を聞いてみたい。母に愛された心地を。わたしは母に愛された記憶が、ないから。
あんなにまでして聞きだした南條先輩の病院に、小坂はお見舞いに行く様子を見せなかった。
高校の購買部は食道の隣にある。昼休みになると、パンやジュースの他にゼリーやプリンを売る業者が入った。
「コーヒー牛乳久しぶりに買えたー」
三角の茶色い紙パックにストローをさして、小坂が嬉しそうに笑う。昼休みは校外へ出なければ、基本的にどこで昼食を取ってもいいことになっている。
「安藤さんっていつもお茶飲んでるよね。家が厳しい?」
「どうしてお茶飲んでると家が厳しいことになるのよ」
「ご飯時にジュース飲んじゃいけませんって言われない?」
「お米とジュースとか、麺類と炭酸飲料とか、単に合わなくない?」
「結局胃の中ではみんなごっちゃだよ」
「胃の中では味覚関係ないけど、口の中は味覚関係あるじゃないの」
「でも、美味しいものと美味しいもので足したら、もっと素敵にならない?」
「象とキリンが好きだからって、かけあわせたら恐ろしい怪物が生まれない?」
ぶふ、と飲んでいたコーヒー牛乳にむせて、小坂が降参ですと笑う。
「そういう理論でくるか」
「理論もなにもないじゃない……」
四月のベランダはまだ風が冷たい。日向でコンクリートはぽかぽかにあたためられていても、日陰になっている鉄柵の裏はひんやりと冷えていたりする。小坂とふたりで壁に背を預けて座った。足を投げ出すと、コンクリートに直接触れる肌がほんのり熱を感じる。吹いてきた風に茶色と深緑のチェックのスカートがめくられた。なびいた髪を押さえる。お弁当の中にどこからか桜の花びらがひとつ入る。作ってくれているのはお手伝いの米窪さんで、わたしは母から一度もお弁当を作ってもらったことがない。
「ご飯の時はお茶が一番美味しいよ」
「ああ、誰かさんもそんなこと言うんだった」
「え……?」
お弁当用の箸は軽いプラスチックで、普段使いのものより短いから食べにくい。
「そういえば、せっかく病院聞きだしたのに」
「え?」
「ええと、南條先輩だったっけ? 小坂さん、お見舞い行かないの?」
「あー、えーと。うん。まあ」
「あんなに必死で聞きだしたのに?」
「吉村先生だっけ、結構格好良かったよね」
言ってみただけの興味もなさそうな口調で格好良かったと言われても、吉村先生だって困るだろう。くしゃみをしているかもしれない。
「どこが?」
「え……ネクタイゆるめてたとことか?」
先生らしくないとことか? 尻上がりで小坂が言う。確かに。生徒の前で煙草は吸おうとするし、目付きが悪いし、教師らしくない細身のスーツは着ているし、キャラメルは持っているし、存在がなんとなく失礼だし。
母の、好きだった人だし。
「って、吉村先生はどうでもいいよ。先輩、家も近いんでしょ? お見舞いいいの?」
「……家、本当は近くない」
小坂の手が乱暴にかじっていたパンをビニール袋にそのまま突っ込んだ。あ、と思って彼女を見ると、さっさと立ち上がったところだった。スカートの尻を叩いて、戻る、とだけ言う。
「あっ、ごめ、ん……」
とっさに謝ったけれど、聞こえなかったのか小坂は行ってしまった。病院を聞きだすのにわたしを利用して、あんなに必死だったからこっちだって協力したのに、聞きだしたら聞きだしたでどうするでもないとか。
「……何考えてるのよっ」
思わず乱暴な独り言がこぼれて、訳分かんない、と続ける。
小坂が片付け忘れたコーヒー牛乳が置きっぱなしになっていて、無視するには存在感がありすぎた。まだ半分以上残っている。持ってみて重さでそう知れたけれど、彼女に渡してあげる気にはならなかった。半分も食べ終えていないお弁当にふたをして、ナフキンで包む。教室ですぐ小坂と顔を合わせるのが嫌で、ベランダから非常階段の方へ歩いた。昼休みは校内をぐるりとまわって戻れば、時間が潰せるだろう。
紙パックのコーヒー牛乳はそっと、ベランダの日の当たるところへ置いた。子供じみた嫌がらせとして。
人の感情のスイッチが、もっと分かりやすいところに見えるよう設置してあればいいのに。
ここは触れないで下さいとか。
このまま話し続けて下さいとか。
突っ込まれたくないところなら最初から隠しておけばいいのに。人の好奇心をあおっておいて、実のところは内緒です、なんてそれはあんまりだ。なんて、本当はそう他人の話に首を突っ込みたいとは思わないのだけど。
「でもいきなり態度豹変させられると意味不明で腹が……」
「豹の腹がなんだって?」
教室に置いておけなかったお弁当箱を右手に、ぶらぶらと階段を降りてきたところで後ろから声をかけられた。驚いて一段踏み外しそうになる。
「よっ、」
「『よっ』? フレンドリーすぎる挨拶だな、おい」
「吉村先生っ! いきなり声とか、後ろからかけないでくださいっ」
「前に回りこんでわざわざ声かけるのかよ、そんな面倒な」
「踏み外しそうになったじゃないですかっ」
「おお、怪我したら保健室にまた運んでやる」
なんとなく並んで歩く形になりながら、吉村先生が行くのに合わせる。
ところで弁当食ってないの、と右手の包みを指差された。首をふるふると横に振ると、俺はまだなんだ、と唇をへの字に曲げた。
「野暮用で生徒の相談に乗ってたりなんかしたら、購買全滅」
「……外のコンビニとか」
「いちいち車出すの面倒だ」
「キャラメルとか、あったじゃないですか」
「そんなもん、女子供じゃないんだから甘いもんで腹が満たされるかよ」
思わず吹き出してしまったわたしを見て先生が微笑んだ。
「なんだよ」
「だって、外に出るのは面倒だとか甘いものじゃ駄目だとか、子供みたい」
「悪かったな、パンが売り切れてるのが悪いんだよ」
一方的にわたしが高校からのこの人を写真で知っているからだろうか。近所のお兄ちゃんのような感じがする。
「飯抜きで放課後までか、煙草で誤魔化すかな」
そんな不健康な、と言いかけて、自分のお弁当が半分以上残っているのを思い出す。おにぎりはひとつ手をつけただけだし、おかずもほとんど手をつけていないし。だけどそんな、生徒の食べかけなんて。
「どうしたんだよ、急に黙って」
「え、あ……あの、わたしのお弁当……半分残ってるんですけど、いや、なんでもないです、そんな、友達同士とかならまだしも、ねぇ」
「え、もらう」
「ええっ、食べるんですか!」
なんだよお前そういうことなら早く言えよ、研究室来いよコーヒー入れてやるから、と嬉しそうな声になった先生が回れ右をしてさっさと歩き出す。慌ててついて行きながら、こんなに嬉しそうな声ということはよほどお腹が空いていたのか、と可哀想に思った。
降りてきた階段をまた上がり、お弁当箱を抱えながら先生の後に続く。数学研究室は三年生の教室と同じ階にあるので、廊下を歩くとちらりちらりと視線を投げかけられた。
突き当たりの数学研究室に、吉村先生が適当なノックをしてドアを開ける。
「知ってる? ノック二回はトイレノック、って」
「なんですか、それ?」
「『入ってますかー? コンコン』ってすんのがトイレノック」
「……はぁ? あっ、」
口を押さえたのは、誰もいないと思っていた部屋の中にひとり、白髪の先生がいたからだった。長い白衣を着て、煙草を吸っている。
「し、失礼します」
「なんだよお前今更。コーヒー入れてやるからそこら辺座れ。あ、横沢先生、コーヒー入れますけど先生もいります?」
僕はいいです、ともそもそした返事がきて、砂糖みっつ入れてくださいね、と続けられた。飲むの、飲まないの、と混乱しているのはわたしだけで、吉村先生はミルクはふたつですよね、とインスタントコーヒーをマグカップに目分量で入れている。
「安藤は?」
「えっ、はい?」
「砂糖とミルク」
「あ、いらない、です」
「なんだそれ、大人だな」
「なんですかそれ、馬鹿にしないでくださいよ」
横沢先生をちらりと横目で見たけれど、もくもくと煙に包まれて何かを読んでいるようだった。
奥の先生達の机はいろいろなものが乱雑に積み上がっていて、果たしてここできちんと仕事をしているのか、それともただの荷物置き場になっているのか判断に苦しむ。手前に長机とパイプ椅子が置いてある。煙草くさい部屋。
「はいよ」
差し出されたマグカップは、キャラクターもののうさぎとコンビニのロゴマークが入っていた。たたんであるパイプ椅子を運んで、吉村先生が向かいに座る。俺もブラック、と得意そうに言うので笑えた。
「んじゃ、ちょうだい」
「はい? ああ、お弁当。食べ残しなんですけど、むしろ本当にいいんですか?」
「女子高生の食べ残しなら問題ない」
「どういう判断基準なんですか」
スーツの腕が伸びて、ひょいと身を乗り出して、先生がわたしの手からお弁当箱を奪う。すんなりとた指は長くて、手は大きかった。白いシャツから覗いた、銀色のアナログ時計。
「腹が減ってればなんでも食べられるって話」
結んでいたナフキンをさらりとほどいて、お弁当箱の脇についている箸箱から箸を取り出した。
「ちょっと、先生、割り箸使ってくださいよ!」
「なんで? そんなエコじゃないこと」
ふたを開けて、ほとんど手付かずじゃんか、と先生が驚いた声を上げる。
「そのお箸、わたしが使ったままで、」
「お前、ダイエットか? ちゃんと食べないとダメだって」
「ダイエットなんかしてませんっ。そのお箸、そのまま使わないでくださいよ! ああっ!」
「ダイエットなんてしなくていい身体してんのになー」
卵焼きに箸をさして、先生は口に運んでしまった。美味い、なんてのんびりした声が届く。
机に置かれたコーヒーのゆげがゆらゆらと、白く立ち昇って空気に溶ける。他の人がわたしの箸を使おうとしていたら、怒って取り返しているだろう自分が容易に想像できた。なのに。どうして。
わたしの頬はこんなに熱を帯びているのだろう。
「ポテトサラダ美味いな、これ、安藤が作ったのか?」
「……お手伝いの米窪さんです」
「お手伝い! うーん、住む世界が違いそうな発言」
「五十過ぎくらいのおばさんですよ」
「いやいや、お手伝いさんの話じゃなくてさ。あ、お手伝いさんの話か」
とろろ昆布のおむすびとかって、と先生が顔をほころばせる。おにぎり、じゃなくて、おむすび、なんだ。
「んあ。もしかして、間接キス?」
「なっ……!」
「今日はどうした、あの少年女は?」
「少年女ってなんですか?」
「名前忘れた。病院聞きにきてた安藤の友達」
小坂、か。
「彼女のおかげで先生はわたしのお弁当の残りにありつけたんです、感謝しておいてください」
「なんか言い方に棘が。ケンカでもしたのか」
「ケンカにもなってないです、勝手に向こうが怒ってるだけで。なんで怒られてるのかちっとも分からないから、対処のしようもないし」
「そういうの俺も昔あったなー。どうして相手が機嫌損ねてんのか分からなくて、どうしようもなくてこっちも機嫌悪くして、お互いぶすーっとしてたりしてな」
「……そういうときってどうすればいいんですか、」
おにぎりは軽く指でつままれて、ひとくちで目の前から消えた。口いっぱい、リスのように膨らませてもごもごとしている。少なくともわたしのさん口分が、彼のひとくち。
「放っといて、時間に任せる」
「……そんな消極的な方法?」
「無理に動くと地雷踏んだりするしなぁ。謝ると、『何怒ってるのか分からないまま謝れば済むと思ってるんでしょう!』ってますます怒られたりしてな」
遠くを見る目になったのは何かを思い出しているからなのか。わたしは入れてもらったコーヒーのカップを手にすると、息を吹きかけて冷ましながら口をつけた。酸っぱくて苦い。
「……不味い」
「ほらみろ、お子様は砂糖が必要だろうが」
「ち、違いますよ、安いのなんじゃないですか?」
「当たり前だ、苦くてコーヒーの匂いがすりゃいいもん」
お嬢様の口には合いませんでしたか、と目を細められて、ついぼうっと見つめてしまう。がつがつっとお弁当の残りを平らげてしまうと、コーヒーを流し込んで、先生は息を長く吐いた。まだちょっと足りない、とお腹をさすっている。でも贅沢は言わない、と続けてつぶやく。
「吉村先生って、先生っぽくないですよね」
「失礼な、ちゃんと免許持ってるぞ」
「褒めてるんです」
「そうか。美味しかったです、ごちそう様。米窪さんだっけ、美味しかったって言っといて。でも俺は唐揚げが好き。あと、トンカツ」
「それ、伝えて明日から先生の分もお弁当作ってもらえばいいんですか」
「……いいな、それ。いやいや、そんなのは冗談だから。あ、好きな物は冗談じゃないぞ。なんなら安藤が作ってくれてもいい」
「高いですよ」
「その前にお前料理できるのかよ」
失礼なことを言って、先生は二杯目のコーヒーを自分で入れた。席を立ったついでなのか、自分の机から何かを持ってくる。戻ってくるとわたしに手を伸ばした。
「なんですか」
「ほれ」
「またキャラメル?」
またで悪かったな、とてのひらに落とされた四角い茶色の甘い物。ふたつあって、ひとつ返そうとすると先生が笑う。
「ひとつは少年女に。それで仲直りしろ。な」
胸のポケットから煙草を取り出して、ライターを捜しているのかそこら中のポケットをひっくり返した。横沢先生が気付いたようで、吉村先生、と青色のライターを向こうから放った。コントロールが悪くて、変な方向へそれは飛んで落ちる。
「……変なあだな付けると、怒られますよ」
ありがとうございます、と素直に言えなくて憎まれ口をきいた。まったく気にしない様子で、先生は拾ったライターで煙草に火をつけている。洗いもしないでごめんな、と洗う気はないのだろう、ナフキンで適当にお弁当箱を包むとにっこりしてわたしに返した。細長い煙草の、先端から真っ直ぐに伸びる煙。
コーヒーありがとうございます、キャラメルも、と早口に言って、吉村先生が頷いたのを見てから研究室を出る。ちょうど予鈴が鳴った。苦くて全部は飲めなかったコーヒーを、それでも我慢して飲んだ方が良かったのかなと思ったのは、教室に入って小坂の反省したような困ったような怒ったような、複雑な表情のまま笑顔も作ってみようとしました、というようなおかしな顔を見たときだった。




