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三年二組の南條茜がB棟の三階から落ちた、というので学校は大騒ぎになっていた。すぐに救急車が呼ばれて病院に運ばれたが、右大腿部の骨折と左手の小指の骨折と、全身の打撲で命に別状はないらしい。落ちたのが植え込みの上だったのも幸いした。朝からふらふらしていて、三時限目の授業中に保健室へ行くと言って教室を出たら、廊下の窓から転落したという。具合が余計に悪くなってとっさに手をつこうとしたところが開いた窓だったのでは、という話だった。元々この学校の窓は普通の規格の窓よりも一回り半ほど大きいものになっている。
「運が悪かったんですよね」
受験で悩んでいたわけでもないし、いじめがあったわけでもないし、家庭環境に問題もなく、今回は運の悪い事故だったと。それでも命が助かったのは良かったし、本人は鎮痛剤と睡眠薬で眠っているので詳しい話は聞けていないが、クラスメイト達は自殺ではないだろうと話しているので、学校側としても一安心のようだった。
「でも三階から落ちて命に別状がなかったなんて、良かったですよ実際」
ボク授業中だったんですけど、生徒が急に叫ぶんでびっくりしました、と伊藤が職員室でせっせと話しかけてくる。あまり大騒ぎしないほうがいい事柄だと認識しているのか、小声で話しているものの、段々と興奮してきて声が大きくなる。
放課後の学校は吹奏楽部のさまざまな楽器の音と、合唱部のやわらかな歌声と、演劇部の発声練習の声で彩られている。お嬢様学校だからか、運動は全体的にそう得意ではない上に、バスケットボール部とバレーボール部は体育館、卓球部は体育館の二階キャラリー、校庭はテニス部と陸上部がそれぞれ少しずつ使うだけなので存在感があまりない。
三時限目以降は、学校全体がなんだかざわついたまま進んでいた。先ほど終わったばかりの職員会議では、事故の報告とスクールカウンセラーを配置することの決定が校長代理の教頭から話された。しばらくは生徒達、特に三年生が動揺して不安定になるだろうから、気を付けて見守ってくださいと言われる。
「それで吉村先生、今度の金曜日って予定があったりします?」
なにがそれでなのか分からないが、伊藤が急に話を変えてきた。金曜日。そういわれてもぱっと頭に浮かばない。
「特に今のところは……授業終ってからですよね?」
「もちろん! あの、もしよろしかったら、合コン、なんて参加したりしませんか?」
「……は?」
合コン。今まで転落事故の話をしていて、どこに話が飛んでしまったのか。事故の生徒が直接自分には関わらないということで、問題視していないのか。南條茜の担任と校長は、今日一日病院やら南條家やらとで飛びまわっていて大騒ぎだというのに。
「いや、それが相手は女子大生なんですよ、ええ」
「女子大生、ですか」
呆れた声を出したのに、伊藤は嬉しそうに話出す。悪い人ではないのだけれど、というフォローの言葉が文字のまま頭の中をぐるぐる回る。
「そうなんです! うちの卒業生の子とこの前たまたま街で会いましてね。あの、別に繁華街とかじゃないですよ、たまたま会ったんです。それで、先生まだ独身? なんて話になりまして。大学の子と出会いの機会を作りましょうか、なんて!」
「……在校生と恋愛して卒業と同時に結婚、が夢だったんじゃなかったでしたっけ」
「夢は夢です、今ももちろん抱き続けていますよ! しかしまあ、そう収穫があるものではないし、たまには外に目を向けてみるのも悪くはないかなぁと」
女子大生とだといっても、どれだけの年齢差か自覚しているのか。そもそも、高校生、大学生に好かれるだけの魅力が自分にあると思っているのか。もっと年相応の女性と付き合ってみようとか、そういう発想はないのだろうか。呆れるのも通り越して、伊藤のポジティブさに感心すら覚える。
「でも俺はあんまり若すぎるのには興味がないんで、」
自分の中で、恋愛はひとつの終結の形を持ってしまい込まれている。あの高校時代の奇妙な恋愛関係、あれを恋愛と呼んでいいのか分からないけれど、あの年も名前もあやふやな女性が心のどこかにいつでも存在し続けていて、他の誰かを好きになる気持ちがわいてこない。
「いやいや、会ってみなくては人なんて分からないですよ! 年齢は関係なく!」
「転落事故なんかがありましたし、そんな浮かれたようなことは……」
「ああっ、そこはほら、ええっと……。でも命には別状なかったんですし、ボク達だってそんなに学校ばかりに、あの、その、……まずいですかね、でも女子大生と合コンなんてそうそうないですよ、せっかく卒業生が作ってくれた機会ですし、反古にしたらもう次はいつそんな……駄目ですかねぇ」
急激に伊藤のテンションが下がってしまった。あまりのしょげかえり様に笑ってしまいそうになるが、可哀想にもなってつい、金曜日は今のところ予定入ってませんけど、と言ってしまった。
「本当ですか!」
「いや、予定が入ってる嘘なんて吐かないでしょう、クリスマスでもないですし」
吐くかもしれないけれどそう言っておく。
「クリスマスですか? それって、生徒から言い寄られるからですか?」
「はい?」
「クリスマスどうするんですか、なんて何人もの生徒に言われたりするんでしょう。それで、もう予定が入ってるから、とか言うんでしょう、いいなぁ、吉村先生は若いからモテそうだし」
若いからモテる、というのは、自分は年だからモテないと思っているのだろう。どこまでもポジティブだと再び感心する。何年もクリスマスなんて女性とお祝いしたことなんてないですよ、と言っても、伊藤は疑わしそうな顔をしている。
「でもなんにせよ金曜日が空いているということは、参加してくれるってことですよね。良かった、ボクの知り合いだけだと口下手な男ばかりで。ああいうのってなんか、面白可笑しな話ができたりしないといけないんですよねぇ」
「俺になにを望んでいるんですか。面白い話なんかできませんよ」
「ええっ、それは困る」
困ると言われてもこちらも困る。そもそも合コンって行ったことないですよ、と言うと伊藤はとても驚いた。
「どうしてですか、ずっと恋人がいたから行く必要がなかったとか?」
「……合コンって恋人を作るためだけに参加するイベントなんですか、なんかよく分からないんですけど」
「そういえば吉村先生って彼女がいたりするんですか?」
「……伊藤先生、がつがつしすぎですよ、話が飛びすぎてますって」
「ボクを助けると思って!」
「人の話聞いてます?」
恋人が欲しいですねぇ、と遠い目になってしまった伊藤に、これ以上声をかけても仕方ないと思ったので放っておいた。悪い人ではない、けれど、あまり積極的にお友達付き合いをしたいタイプでもけしてない。懐いてくるからそのままにしてあるだけのような気もする。
伊藤は放っておいて、そう用事もないので俺も帰ろうかと立ち上がる。
その時ノックの音がした。コンコンコン、と三回。教師達はほとんどが職員室にノックして入ってきたりしない。
引き戸になっている出入り口のところには事務員が座っているので、その人が対応するだろうと注意も払っていなかったが、声を耳にしたら勝手に視線がそちらに向いてしまった。
「あの、すみません、三年A組の担任の先生は……」
安藤蒼衣と、少年のような細い生徒が寄り添うようにして立っていた。少年のような方は不貞腐れたような傷付いたような、ぶすっとした顔をしている。事務員が、安原先生でしたら今日は学校に戻ってきません、などと対応している。
「今日三階から落っこちた南條、どこの病院だか分かりますか」
安藤でない方がぶっきらぼうに言った。聞かれ方に驚いたのか、生徒に教えていいものか悩んだのか、事務員が言葉に詰まっていた。その沈黙に割り込んで、演劇部の発声練習が届く。あえいうえおあお、かけきくけこかこ。
「……生徒さんの個人的なことはお教えできないんですよ、」
困惑したようにゆっくりと五十近い女性事務員が言った。
「私、友達なんです。南條と。だから教えてください」
「そう言われても……、」
弱った声を出しているが、事務員は意見を曲げないだろう。ここで押し問答を続けられると、部屋から出たい人間が困る。などともっともらしいことを思いながら、ただ自分は安藤が気になっただけだった。
あの笑わない冷たく鋭い目。
「お、安藤。ちょうどいいところに来た、お前その友達と一緒に手伝ってくれよ。運びたいものがあるから、数学研究室に付き合え」
「……はい?」
俺がいたことは認識していたようだったが、声をかけられるとは思っていなかったのだろう。唇を軽く開いて、ぽかんとした顔になった。近付いて、彼女らの背中をぽんと押す。下手に肩に手など置くと、最近はいろいろとうるさいので気を遣う。
「ちょっと、あの、吉村先生、」
安藤さんどうしてこの先生知ってるの、と少年女が露骨に顔をしかめる。
「お前らが知りたがってること教えてやるから」
さっと小声で言うと、少年女の方が先に俺を睨むのをやめた。真意を探るような目で俺を見る。本当だ、の意味で頷くと、安藤が「手伝います」と周りにはっきりと聞えるような声で言った。
「よし、じゃあ結構あるからさっさと手伝ってくれよ。下校時間になっちまうしな」
「あっ、吉村先生、金曜日のことは……」
伊藤が焦ったように大きな声を出した。明日で間に合わなければメールしてください、と返事をする。メールと言っても職員用のパソコンメールだ。携帯のアドレスなど、俺は他の教師に教えていない。他の人達も、プライベートまで侵食されるのは嫌だと思っているだろうし。
行くぞ、と声を出して、芝居がかってるかな、と思いつつも彼女達の肩を叩いて職員室を出た。
「安藤、ああいうのを当日のうちに職員室とかに聞きにくるなよ」
数学研究室に他の教師はいなかった。ひとりはバスケ部の副顧問なのでいないだろうと予想していたが、もうひとりのじいさん先生は所在無さげに研究室でお茶を飲んでいたりすることが多いので、いなくて助かった。
「わたしは、」
「私が知りたかったんです、それで安藤さんについてきてもらっただけです」
しゃべりかけた安藤を遮って、少年女がきっぱりと自分のせいだと主張した。名前を聞いたら、小坂です、と答える。
「それで、南條はどこの病院なんですか?」
きっとそれぞれのホームルームの時間に、教師達がざっとそういう話をしたのだろう。転落事故がありましたが命は助かりました、受験ノイローゼでもいじめなどがあったわけでもなく、事故です、と。もしも部外の者がなにかを聞きにきたら、事故でしたと言ってください、ということを暗に含ませて。うちのクラスでも「三年A組の南條さんが転落事故に会いましたが、命に別状はないそうです」と報告して、あくまでも事故であり、それ以外の要因はありませんので、と付け足していた。俺は副担任なので、聞いていただけだが。
椅子を勧めたけれど、ふたりとも座らない。命に別状はないって本当ですよね、と小坂が怖い顔をして聞いた。俺は自分だけパイプ椅子に腰を下ろすと、胸ポケットから煙草を取り出す。使い捨てのライターで火をつけると、一服腹まで吸い込んだ。
「さっきから先輩を呼び捨てにしちゃってるけど、それって大丈夫なわけ?」
「茶化さないでください、教えてくれるって言ったのは嘘だったんですか?」
小坂の怖い顔はほどけない。安藤は固く唇を結んで、黙ってそこに立っていた。睨みつけこそしてこないが、冷ややかな人を見下ろす感じの視線を送ってくる。
そうだ、この目はあの女にどことなく似ている。目隠しをする前と、目隠しを取った後にだけ目にすることができた、彼女の。輪郭や鼻、口の形などは正直そう鮮明に思い出すことがもうできないあの人の、凍るような、どこか淋しい目。
「嘘じゃない。国立の杉波病院だよ、南條はそこに入院してる。命に別状がないのも本当らしいけど」
「……面会謝絶とかには、」
「なってないんじゃないかな。なに、本当は自殺未遂でしたとか言うの? お前ら」
ドラマとかの見すぎじゃないですか、と鼻で笑った小坂だったけれど、返事をするのに長めの間が空いたのは確かだった。
「ドラマ見てる暇なんかないよ、先生って職業は意外と忙しいんだって」
「……先生、どうして私達に病院がどこだか教えてくれたんですか?」
「えっと、」
ちらりと安藤を見る。数学研究室は俺を筆頭に三人いる喫煙教師ぞろいなので、壁紙はうっすらとヤニで汚れていた。黒板に貼り付けて使う巨大な定規や分度器がロッカーの上に無造作に置かれ、パソコンのコードは床でのたくっているし、ファイルだの書類だのはあまり丁寧に並べられもせずに棚へ積み上げられている。つくづく、清掃の生徒泣かせの汚い部屋だ。
「安藤、が、昔の彼女に似てるから――」
冗談めかして言ったのに、安藤は目を見開いて、分類するとすれば怒った表情になるのだろう、そんなような顔になって俺を見つめ返した。
「な、んて、嘘……、」
「安藤さん、この先生と知り合いだったの?」
「……保健室で知り合ったの、今日」
それだけよ。
放り投げるように言うと、安藤は小坂の手を取った。聞くこと聞いたんだし、行こう。油気のない声で言って、手を引くので、小坂は上目遣いに俺を見ることになってバランスを崩す。よろけて、耐える。
「病院行っても俺から聞いたって言うなよ」
「言わないです」
「キャラメル食う?」
「……はい?」
「キャラメル。お前らふたり、そんな怖い顔しててさ。カルシウム足りてないんじゃないの? ほら、カルシウム入りホワイトキャラメル」
年寄り先生がヘビースモーカーなのに酒はまるきり駄目な甘党なので、数学研究室にはキャンディやらキャラメルが存在していた。
「ダイエット中だから結構です」
安藤が怖い声で言う隣で、小坂が小刻みに震えだしていた。うつむいて、こらえるようにこぶしを口に当てている。
「お前、そんな細いのにダイエットとかってするなよ、女はな、ちょっとぽってりしてるくらいがいいんだよ、がりがりの母ちゃんに赤ん坊が抱っこされたいと思うか? お前らみたいな成長期に無理なダイエットする女子が、生理不順になったり不妊症になりやすくなったりするんだぞ」
聞きかじった知識だけで言いながら、そういえば安藤は生理がないとか言ってたな、と思い出す。嫌味になっただろうか。それならそれで構わないけれど。どうして俺はこの子をつい構いたくなってしまうのだろう。
「だから生理はまだ――、」
更に怒りを増した声色で安藤が突っかかってくるとほぼ同時に、小坂がこらえ切れないといった様子で吹き出した。身体を折り曲げて、あはははは、とキレのいい発音で笑いはじめる。さすがにきょとんとした安藤が、小坂さん、と疑問系で彼女の名前を呼んだ。
「やだもう、なんかすごくおかしいの。瑞香にもこんな先生いたんだ、安藤さんがこんなにムキになってるのも初めて見たもん、あはは、おかしいの」
「こんな先生の数学吉村ですが」
笑うと意外と可愛い。少年ぽいのは消えないけれど、雰囲気がやわらかくなる。うんうん、と頷いて、俺は小坂にキャラメルを渡した。箱から取り出して、ぺらぺらの紙に包まれた白いそれをひとつ。
ありがとうございます、と彼女は少しだけ真顔になって言ってから、再び笑い出した。
「吉村先生、ぽってりってなんですか、女性を形容するのにぽってりって、なんかひどくないですか? それに全国のがりがりのお母さん達から抗議を受けそうな例え話していいんですか、先生なのに。赤ちゃんはお母さんがどんな体形だって気にしないと思いますよ、抱っこしてくれれば嬉しいんじゃないですか?」
「いや、俺が赤ん坊だったら文句を言うな。母ちゃん骨が当たって痛いんだよね! とか」
「そんな赤ちゃん、私だったら育児放棄します」
俺と小坂がげらげらと笑っているので、安藤は居心地が悪そうな顔になっていく。意地悪な気持ちになって、小坂とばかり話していたら安藤は泣いたりするだろうか。それはまさかないとしても、嫌な気持ちにはなるだろう。俺を睨みつけたりするかもしれない。なんて、自惚れだろうか。
「育児放棄するなよ、育ててやってくれよ」
「少なくとも、そういうことを言わないような子供になるよう、まず胎教しますね」
「やだやだ、腹の中にいるときからの英才教育なんて」
「英才教育とは全然違うじゃないですか」
いきなり打ち溶けすぎた俺達に、安藤が抱いた感情は嫉妬だったのか。どうだろう、ますます怒ったような顔になって、ついには先にひとりで研究室を出て行こうとした。
「帰ります」
ちらりと軽蔑したような目で俺を見るから、ぞくぞくと背中が粟立つ。俺はマゾなのかサドなのか、なんなのだろう。
「先輩の病院もお聞きしたんで」
きっぱり、という言葉がこれほど似合う言い方もないだろうと感心する口調で言うと、安藤がどうして不機嫌なのか分からず慌てた様子の小坂が慌てて後を追う。
「あの、ありがとうございました」
「どういたしまして。あ、小坂、」
キャラメルをひとつ放ると、彼女は上手にそれをキャッチした。
「それ、安藤にやって。小坂にだけキャラメルやったからさ、すねちゃったんだよ」
「違いますっ」
安藤の怒鳴り声に俺が笑うと、小坂もこっそり微笑んで頭を下げた。そのまま部屋を出て行ったので、残ったキャラメルの箱を閉じて机の引き出しに放り込む。ふと思い立って、キャラメルをもう一度取り出すとひとつむいて口に入れた。硬い四角を舌の上で転がし、表面が溶けだしてぬるりとしてきたら歯を立ててみる。
ぐんにゃりと抵抗せずに噛まれて、キャラメルは牛乳くさい香りを口の中から鼻へかけて膨らませた。




