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第2話 厄災の山神


「山頂が、丸い」


誰かがそう言った。


冷たい風が吹いた。


まだ、誰も動かなかった。


白く雪を抱いた最高峰。


その頂だけが、妙に丸い。


雲でもない。


岩でもない。


ただ、そこにある。


ずっと昔から、そうだったように。


――ズル……。


低い音がした。


「……ん?」


山肌の雪が、崩れた。


ざらざらと。


白いものが斜面を滑り落ちる。


続いて。


ゴトン。


岩が一つ、転がった。


ゴロ、ゴロ、ゴロ……。


斜面を跳ねながら、下へ落ちていく。


「雪崩か?」


兵士の一人が空を見上げた。


その横で。


岩ノ山は、動かなかった。


最高峰を見ていた。


――ズル。


また。


今度は。


山が。


動いた。


「…………」


誰も、すぐには声を出せなかった。


雪が崩れる。


岩が落ちる。


木が、根こそぎ斜面を滑っていく。


その下。


黒いものが。


ゆっくりと。


持ち上がった。


最高峰の頂が、土煙を上げて滑り落ちる。


誰もが目を見開き、指をさしたまま固まる。


土肌の下から露わになったのは、岩肌ではない。


黒く。


赤く。


何層にも重なった、粘りつくような漆黒の鱗。


その塊が。


ゆっくりと。


四つの脚を、地面についた。



ズゥン――。



遠くで。


地面が揺れた。


馬がいななく。


荷車の馬が、後ずさった。


背に畳まれた翼は半ば引き裂かれ、痛々しく飛膜が垂れ下がっている。


けれど。


岩ノ山の目には。


その裂け目が。


少しずつ。


蠢き、塞がり始めていた。


「……」


岩ノ山の喉が、わずかに動いた。


山のような首が。


ゆっくりと。


こちらへ向く。



「……ドラ、ゴン」


誰かが言った。


誰かの掠れた声が、せせらぎの音に消えた。


バレントの近衛兵の一人が、膝をガクガクと震わせ、槍を落とした。


その音で。


ようやく。


周囲の人間が息を吸った。


「ドラゴン……?」


「冗談だろ……」


「……あれが?」


誰も。


もう、笑わなかった。


山砦の駐在兵の一人が。


弓を握ったまま。


震えていた。


弓を持つ手が。


かたかたと。


「あっちが……」


声が掠れた。


「……本物の」


村びとたちは。


最高峰を見上げた。


「あっちが……本物の山神なのか……」


ドオォ……、と雪崩の音が響く。


風すらも止まったかのような息苦しさの中、ヤール婆が固く握りしめた杖を、カツン!と地面に叩きつけた。


「……馬鹿言うな」


村人たちが振り返った。


皺だらけの顔を歪め、最高峰を睨む。


「――あんなもの」


カツン。


杖の先が、石を鳴らした。


「あんなもの、本物じゃないわい」


最高峰の上で。


巨大な影が。


ゆっくりと。


動いた。


その足が。



山神村のある方角へ。



向く。


ズン。


地面が揺れた。


岩ノ山が走り出す。


ダン、グレン、村の男たちもそれに続く。


セドウィックも叫ぶ。


「兵員、続け!残った者を逃がすぞ!」


オルガの足が前に出たその時、


「子供たちを!」


岩ノ山が制した。


ハッと我に返ったオルガはくるりと向きを変えると、子供たちを連れ、橋に向かった。


エイラたちも声を上げる。


「ベルグ兵!村までの街道確保!逃げてきた者を支えろ!」


将軍の指示が飛ぶ。


「グラキアの子らよ!新しき同胞を守るのだ!」


盾の壁が、橋までの道を作った。



カン。


カン。


カン。


カン、カン、カン――!


山砦の半鐘が、狂ったように鳴り響いた。


山神村。


宿の前。


戸が開く。


「何だ!?」


「山が!」


「子供は!?」


「ジジババは荷車に載せろ!」


一瞬だった。


誰かが叫び。


誰かが走り。


叫び声と馬のいななきが交錯する。


村が、怒涛のごとく動き始めた。


「逃げろ! 山砦を越えて、橋の対岸へ走れ!」


牧場にいたメリーたちは鍬を投げ捨て、走った。


「人だけ先に行かせろ! 荷物を捨てろ!」


駆けつける兵士が叫ぶ。


だが、ヤギの手綱を握る村人は歯を食いしばり、頑として手放さない。


「こいつら置いてったら、戻ってからどうやって生きてくんだよ!」


メリーの兄の一人が、山羊の首にしがみつく。


「俺たちがやる!早く逃げろ!」


メリーは毛ウサギの小屋へ走る。


息が上がる。


「!……大丈夫だよ」


眠り草の水あめを毛ウサギたち飲ませると、籠に詰め、山神号の荷台に乗せていった。


「鶏は!?」


「もう積んだ!」


メリーと兄弟たちが必死に羊の群れのケツを叩いて進ませていた。


ベスが叫ぶ。


「うちの荷馬車も使うんだよ!」


黒熊屋の荷馬車から荷が捨てられ、豚が押し込められる。


「くそ!一匹、逃げた!」


村の端。


豚が。


全力で走っていた。


その後ろを。


メリーが追う。


「戻ってえぇ!」


豚は。


戻らない。



「よし!馬を繋いだぞ、いけ!」


山神号がガラガラと車輪の音を立て、村を抜けていく。


荷車も、岩ノ山たち村の男が引いていく。


村の広場を過ぎた、その時――。


――ドォン!!


空から、何かが落ちてきた。


ガラララ……!


村の共同窯を押しつぶす。


「くそ!何だってんだ!?」


村の中央に叩きつけられたのは、巨大な塊だった。


片牙の大猪だった。


窯のがれきに埋もれ、ピクリとも動かない。


「明日からのパンが……」


ズゥン……。


地面が揺れた。


誰かが、音のした山の裾野を見る。


巨大な影が。


一歩。


また一歩。


こちらへ。


下りてくる。


「命あってのモノダネだ!止まるな!」


ダンの怒声が飛ぶ。


セドウィックは転んでいた村人を抱き起す。


「なんであんなものが……」


村人の呟きに、執務室で聞いた言葉が頭をよぎる。


(古い山ほど、その祭礼が途絶えた後に、不可解な『獣害』が増えた例がいくつもございます)


「怪我人を乗せろ!」


セドウィックは我に返り、村人を荷台に乗せた。


山神号の車輪が。


石を跳ねた。


荷馬車が続く。


黒熊屋の荷車。


村の荷車。


兵の馬。


人間。


家畜。


籠。


袋。


毛布。


全部が。


橋へ向かっていた。


最後に村を離れる兵士が、ふと足を止め、振り返った。


煙突から煙の上がらない宿。


崩れた共同窯。


昨日まで子供たちの歓声が響いていた小道。


今日は。


違った。


村から。


人が。


消えていく。


次の荷車が出る。


また。


一つ。


村の中から。


音が消えた。


……。



ズゥン…。



ズゥン。


「……来やがった。ちくしょう」


ついに。


村境の一里塚を踏み越え、赤黒い巨躯が村へ踏み入った。


木が折れる。


屋根が崩れる。


火の気が残っていた壁から、黒煙が立ち上った。


巨躯は、止まらない。


一歩。


また一歩。


その先に。



山神の宿があった。



ミシリ。


柱が、悲鳴を上げる。


屋根が、大きく軋んだ。


次の瞬間――



ドォン……。



食堂側の屋根と壁が、丸ごと崩れ落ちた。


木材が折れ。


土壁が砕け。


瓦礫が、店内へ雪崩れ込む。


その中へ。


あの大きな長机が、


ゆっくりと。


瓦礫の底へと呑み込まれていった。



第五部 山神編

第三話に続く

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