第2話 厄災の山神
◇
「山頂が、丸い」
誰かがそう言った。
冷たい風が吹いた。
まだ、誰も動かなかった。
白く雪を抱いた最高峰。
その頂だけが、妙に丸い。
雲でもない。
岩でもない。
ただ、そこにある。
ずっと昔から、そうだったように。
――ズル……。
低い音がした。
「……ん?」
山肌の雪が、崩れた。
ざらざらと。
白いものが斜面を滑り落ちる。
続いて。
ゴトン。
岩が一つ、転がった。
ゴロ、ゴロ、ゴロ……。
斜面を跳ねながら、下へ落ちていく。
「雪崩か?」
兵士の一人が空を見上げた。
その横で。
岩ノ山は、動かなかった。
最高峰を見ていた。
――ズル。
また。
今度は。
山が。
動いた。
「…………」
誰も、すぐには声を出せなかった。
雪が崩れる。
岩が落ちる。
木が、根こそぎ斜面を滑っていく。
その下。
黒いものが。
ゆっくりと。
持ち上がった。
最高峰の頂が、土煙を上げて滑り落ちる。
誰もが目を見開き、指をさしたまま固まる。
土肌の下から露わになったのは、岩肌ではない。
黒く。
赤く。
何層にも重なった、粘りつくような漆黒の鱗。
その塊が。
ゆっくりと。
四つの脚を、地面についた。
ズゥン――。
遠くで。
地面が揺れた。
馬がいななく。
荷車の馬が、後ずさった。
背に畳まれた翼は半ば引き裂かれ、痛々しく飛膜が垂れ下がっている。
けれど。
岩ノ山の目には。
その裂け目が。
少しずつ。
蠢き、塞がり始めていた。
「……」
岩ノ山の喉が、わずかに動いた。
山のような首が。
ゆっくりと。
こちらへ向く。
「……ドラ、ゴン」
誰かが言った。
誰かの掠れた声が、せせらぎの音に消えた。
バレントの近衛兵の一人が、膝をガクガクと震わせ、槍を落とした。
その音で。
ようやく。
周囲の人間が息を吸った。
「ドラゴン……?」
「冗談だろ……」
「……あれが?」
誰も。
もう、笑わなかった。
山砦の駐在兵の一人が。
弓を握ったまま。
震えていた。
弓を持つ手が。
かたかたと。
「あっちが……」
声が掠れた。
「……本物の」
村びとたちは。
最高峰を見上げた。
「あっちが……本物の山神なのか……」
ドオォ……、と雪崩の音が響く。
風すらも止まったかのような息苦しさの中、ヤール婆が固く握りしめた杖を、カツン!と地面に叩きつけた。
「……馬鹿言うな」
村人たちが振り返った。
皺だらけの顔を歪め、最高峰を睨む。
「――あんなもの」
カツン。
杖の先が、石を鳴らした。
「あんなもの、本物じゃないわい」
最高峰の上で。
巨大な影が。
ゆっくりと。
動いた。
その足が。
山神村のある方角へ。
向く。
ズン。
地面が揺れた。
岩ノ山が走り出す。
ダン、グレン、村の男たちもそれに続く。
セドウィックも叫ぶ。
「兵員、続け!残った者を逃がすぞ!」
オルガの足が前に出たその時、
「子供たちを!」
岩ノ山が制した。
ハッと我に返ったオルガはくるりと向きを変えると、子供たちを連れ、橋に向かった。
エイラたちも声を上げる。
「ベルグ兵!村までの街道確保!逃げてきた者を支えろ!」
将軍の指示が飛ぶ。
「グラキアの子らよ!新しき同胞を守るのだ!」
盾の壁が、橋までの道を作った。
◇
カン。
カン。
カン。
カン、カン、カン――!
山砦の半鐘が、狂ったように鳴り響いた。
山神村。
宿の前。
戸が開く。
「何だ!?」
「山が!」
「子供は!?」
「ジジババは荷車に載せろ!」
一瞬だった。
誰かが叫び。
誰かが走り。
叫び声と馬のいななきが交錯する。
村が、怒涛のごとく動き始めた。
「逃げろ! 山砦を越えて、橋の対岸へ走れ!」
牧場にいたメリーたちは鍬を投げ捨て、走った。
「人だけ先に行かせろ! 荷物を捨てろ!」
駆けつける兵士が叫ぶ。
だが、ヤギの手綱を握る村人は歯を食いしばり、頑として手放さない。
「こいつら置いてったら、戻ってからどうやって生きてくんだよ!」
メリーの兄の一人が、山羊の首にしがみつく。
「俺たちがやる!早く逃げろ!」
メリーは毛ウサギの小屋へ走る。
息が上がる。
「!……大丈夫だよ」
眠り草の水あめを毛ウサギたち飲ませると、籠に詰め、山神号の荷台に乗せていった。
「鶏は!?」
「もう積んだ!」
メリーと兄弟たちが必死に羊の群れのケツを叩いて進ませていた。
ベスが叫ぶ。
「うちの荷馬車も使うんだよ!」
黒熊屋の荷馬車から荷が捨てられ、豚が押し込められる。
「くそ!一匹、逃げた!」
村の端。
豚が。
全力で走っていた。
その後ろを。
メリーが追う。
「戻ってえぇ!」
豚は。
戻らない。
◇
「よし!馬を繋いだぞ、いけ!」
山神号がガラガラと車輪の音を立て、村を抜けていく。
荷車も、岩ノ山たち村の男が引いていく。
村の広場を過ぎた、その時――。
――ドォン!!
空から、何かが落ちてきた。
ガラララ……!
村の共同窯を押しつぶす。
「くそ!何だってんだ!?」
村の中央に叩きつけられたのは、巨大な塊だった。
片牙の大猪だった。
窯のがれきに埋もれ、ピクリとも動かない。
「明日からのパンが……」
ズゥン……。
地面が揺れた。
誰かが、音のした山の裾野を見る。
巨大な影が。
一歩。
また一歩。
こちらへ。
下りてくる。
「命あってのモノダネだ!止まるな!」
ダンの怒声が飛ぶ。
セドウィックは転んでいた村人を抱き起す。
「なんであんなものが……」
村人の呟きに、執務室で聞いた言葉が頭をよぎる。
(古い山ほど、その祭礼が途絶えた後に、不可解な『獣害』が増えた例がいくつもございます)
「怪我人を乗せろ!」
セドウィックは我に返り、村人を荷台に乗せた。
山神号の車輪が。
石を跳ねた。
荷馬車が続く。
黒熊屋の荷車。
村の荷車。
兵の馬。
人間。
家畜。
籠。
袋。
毛布。
全部が。
橋へ向かっていた。
最後に村を離れる兵士が、ふと足を止め、振り返った。
煙突から煙の上がらない宿。
崩れた共同窯。
昨日まで子供たちの歓声が響いていた小道。
今日は。
違った。
村から。
人が。
消えていく。
次の荷車が出る。
また。
一つ。
村の中から。
音が消えた。
……。
ズゥン…。
ズゥン。
「……来やがった。ちくしょう」
ついに。
村境の一里塚を踏み越え、赤黒い巨躯が村へ踏み入った。
木が折れる。
屋根が崩れる。
火の気が残っていた壁から、黒煙が立ち上った。
巨躯は、止まらない。
一歩。
また一歩。
その先に。
山神の宿があった。
ミシリ。
柱が、悲鳴を上げる。
屋根が、大きく軋んだ。
次の瞬間――
ドォン……。
食堂側の屋根と壁が、丸ごと崩れ落ちた。
木材が折れ。
土壁が砕け。
瓦礫が、店内へ雪崩れ込む。
その中へ。
あの大きな長机が、
ゆっくりと。
瓦礫の底へと呑み込まれていった。
◇
第五部 山神編
第三話に続く




