第1話 雪解け、終わる季節
◇
ドドォ……。
遠く、山のどこかで雪崩の音がした。
道端に、萌え出たばかりの小さな緑の葉が一枚、風に震えている。
バレント領の山神村から、グラキア領国境へと向かう橋。
雪解け水を含んだ川が、いつもより一段と激しい音を立てて流れていた。
その岸辺で、木造の仮設橋が、少しずつ石の橋へと姿を変えていく。
カチッ、カチッ、コン。
石工のドワーフたちの玄翁の音。
ガラガラ、と石を積んだ荷車の車輪が軋む。
岩ノ山は額に汗を浮かべ、その喧騒の中にいた。
大きな石を肩に担ぎ、橋脚の傍らへと運んでいく。
ドスン。
石が据えられるたび、地面が小さく揺れた。
「間もなく完成だな」
村長代理のダンが、うれしそうに呟いた。
「山砦の連中がよ。宿舎貸してくれたから捗ったぜ。足場に、石の切り出し。まったく、たっぷり働かせやがって」
ドワーフの親方が、誰へともなく言う。
岩ノ山は袖で汗を拭い、ふと山の方へ目をやった。
眼前にそびえる山々は、まだ白い雪を分厚く纏っている。
だが、鋭く尖った最高峰の頂だけは、黒い土肌を剥き出しにし、薄く湯気を立ち上らせていた。
「山頂だけは雪が積もらん、とヤール婆さまが言ってたな」
岩ノ山のつぶやきに、ダンが頷いた。
「来週には、要石をはめられるな」
ドワーフの親方が、二人の間に割り込んでくる。
そして、にやりと笑った。
「誰がいれるんだ? ありゃ、一番の功労者が入れるのが習わしだ」
親方の言葉に、脇で測量糸を片付けていたグレンも手を止め、静かに岩ノ山へ視線を送る。
ダンもまた、岩ノ山を見た。
岩ノ山は太い指で髷をさすり、ゆっくりと首を横に振った。
「……ダンしか、いないだろ」
ダンの目が丸くなる。
岩ノ山は言葉をつづける。
「最初から、村のために動き回っていたのはダンだ。俺は手伝っただけだ」
グレンが、目を細めた。
ダンは何も言わず、しばらく空を見上げていた。
「……要石を入れるまでは、お前が手伝ってくれよ。俺だけじゃ、腰やっちまう」
ダンが岩ノ山の腹をポンと叩く。
「留めの木づちは、お前が打てよ」
グレンがダンに言う。
岩ノ山は、黙って頷いた。
◇
翌週。
川のせせらぎと増水音が交じる橋の袂は、押し寄せた群衆の熱気に包まれていた。
橋の竣工式に参列したセドウィックの横には、胸甲を磨き上げた近衛兵の一団が整列し、華を添えている。
山砦の常駐兵たちも、槍を携えながらやって来た。
いつの間にか黒熊屋の大きな幟が立ち並び、香ばしい肉の焦げる匂いが立ち込めていた。
「美味しいね!」
村の子供たちには串焼きが配られたようで、屋台の周りが賑わっていた。
対岸、グラキア領側には、久しく交流の途絶えていた隣村の人々が、大勢集まっている。
「見覚えのある顔が見えるのう」
ヤール婆がつぶやく。
「はい。あいつら、相変わらず憎らしいツラですよ」
ダンが顔を緩めながら言った。
セドウィックが一歩前へ出て、式典の挨拶のために口を開こうとした、その時。
隣村の人垣が、ざわりと割れた。
山神村の者たちが、怪訝そうに目を細める。
ザッ、ザッ、ザッ。
軍靴の音が、地面を叩きながら近づいてくる。
黒い金属鎧を纏った一団が、隊列を組んで姿を現した。
グラキアの正規軍。
かつて、バレント領とベルグ領の連合軍と長く争った、精強な軍勢。
講和が成ったのは、この冬の終わりのはずだった。
その場の空気が、一瞬で張り詰める。
増水したゴウゴウという川の音だけが、やけに大きく響いた。
軍勢の中から、一人の老兵が歩み出る。
「……遅くなったな」
白髪を短く刈り込んだその顔。
グラキアの将軍だった。
かつて、セドウィックと岩ノ山が、命懸けで送り届けた人物が立っていた。
「私がお呼びしました」
静寂を割って、セドウィックの傍らに立つエイラが静かに頭を下げた。
顔を上げたエイラは、小首をかしげて悪戯っぽく微笑んで見せた。
セドウィックは、堪らず頭を掻いた。
「我らも、華を添えさせて頂きたい」
将軍が、静かに告げる。
グラキア兵が一斉に腰の剣を抜き、胸の前に掲げて敬礼した。
間を置かず、バレントの近衛兵たちも整然と柄に手を当て、敬礼を返す。
「かっこいい!」
子供たちの歓声が口火となり、ワァ!と、喧騒が帰ってきた。
岩ノ山は、その光景を見ながら、頬を緩めた。
◇
「どす、こい!」
岩ノ山の低い掛け声。
ずしり、と要石が据えられる。
すき間なく噛み合わさった石の感触を確かめたドワーフの親方とグレンが頷いた。
ダンが、両手で木づちを高く掲げ。
振り下ろした。
カツゥゥン……!
澄んだ音が、川の谷間に響き渡る。
要石が、ついに橋へと収まった。
ダンが木づちを置き、隣村の人たちをみる。
対岸の隣村の男が、恐る恐る足元を確かめるように石橋の中央へと歩み出た。
橋の真ん中で、ダンと男が向き合った。
「……おまえ、腹が出たな」
「お前だって、白髪が……」
それ以上、言葉は続かなかった。
大の男二人が、互いの肩を掴み合ったまま、その場に崩れ落ちるようにワンワンと声を上げて泣き出した。
周囲からも、ぽつり、ぽつりと、すすり泣きが漏れ始める。
岩ノ山は、その光景をしばらく見つめる。
それから静かに、橋の袂へと戻っていった。
◇
一度渡り初めが済むと、人々は塞き止められていた水のように橋を行き交い始めた。
「橋ってやつはよ。人が渡るほど丈夫になる」
ドワーフの親方が、髭をひねり、胸を張る。
再会を喜び合う人々。
敬礼を交わす兵士たち。
その様子を、セドウィックと岩ノ山は、黙って眺めていた。
少し離れた場所で、エイラとオルガも、並んでそれを見守っている。
「……お邪魔だったかな」
グラキアの将軍が、岩ノ山に声をかけた。
「岩ノ山殿に、これを」
差し出されたのは、革紐で束ねられた羊皮紙の束だった。
「我が領にも、異邦人の伝承が残っておった」
岩ノ山とセドウィックが、顔を見合わせる。
紙をめくる。
書かれている内容の多くは、セドウィックたちが調べたものと似通っていた。
ただ、一節。
「人の願いで呼ばれ、人の願いで立つもの」
その掠れた文字だけが、腹の奥に静かに落ちた。
しばらく、その文字を見つめていた。
やがて、口を開く。
「……セドも、これに当てはまるだろ」
岩ノ山がぽつりと、しれっと口にした。
不思議そうな顔で岩ノ山は、セドウィックたちを見る。
セドウィックは呆気にとられ、隣のエイラと顔を見合わせた。
やがて将軍が低く笑い出し、セドウィックもエイラも、声を上げて大笑いした。
◇
ドドォ……ッ!
不意に、近くで雪崩の音がした。
全員が弾かれたように、音のした最高峰を見上げる。
斜面を、白い雪煙が滑り落ちていくのが見えた。
「……あれ?」
誰かが、ぽつりと呟いた。
「てっぺんの形……あんなだったか?」
皆が、首を傾げる。
「山頂が、丸い」
自分たちが知る山頂と、輪郭が違う。
そして――
ズル……と、確かに動いた。
◇
第五部 山神編
第2話につづく




