第3話 二柱、並び立つ
◇
「橋を渡らせろ! 非戦闘員は対岸へ!」
セドウィックが剣を抜き、声を枯らしていた。
泣き声。
怒鳴り声。
馬のいななき。
荷車の車輪が石を噛んで軋む。
「こっちだ!」
「子供を先に!」
「橋へ走れ!」
坂の上の橋を目指し、全員が必死に走った。
ベルグの海兵が脚のもつれた者を支え、
村人たちが避難民を橋へ誘導する。
盾を構えたグラキアの重装兵が、入れ替わるように前線へ進んだ。
いまだ山神村に居座る怪物。
街道を下れば清瀬村。その先には領都バレントがある。
ここで足を止めなければ、流域のすべてが潰される。
「山砦で迎え撃つ!」
セドウィックが叫ぶ。
「打ち方、用意!」
坂の上に陣取ったバレント、ベルグ両軍が弓を構える。
グレンも。
長身のエルフが。
小柄なエルフが。
それぞれに矢をつがえた。
グラキアの重装兵はさらに前進し、最前列で盾を構える。
その隙間から、村を踏み荒らす巨躯を見下ろした。
赤黒い鱗。
折れた翼。
そして。
ゆっくりと持ち上がる首。
ギリ……。
弓の革が軋む。
「――放て!」
一斉に弦が鳴った。
ヒュン、ヒュン、ヒュン――。
無数の矢が空を埋める。
カッ。
カカッ。
バシュッ。
ドラゴンの身体が、わずかに揺れた。
黒い鱗が矢を弾く。
「第二射!放て!」
ヒュン、ヒュン、ヒュン――。
一本、二本。
次々と鱗へ突き立った。
――バシィッ!
空気を切り裂く音。
岩ノ山が、大木杭を両腕で抱え上げ、渾身の力で投げた。
ズドン!
丸太のような杭が、怪物の肩口、鱗の隙間に深く突き刺さる。
「!!!!!!!」
グワッと怪物が揺れた。
兵士たちが目を見開く。
「……効いた」
グレンがニヤッと笑う。
「どっちがバケモノかわからんな」
食い込んだ杭から、赤黒い溶岩のような体液がボタボタとこぼれる。
それは次第に黒く固まり、傷を塞いだ。
ゆっくりと。
頭がこちらを向く。
誰も。
動かなかった。
赤い眼が、人間たちを捉える。
その瞬間。
ドラゴンの前脚が。
山神宿の瓦礫を踏み砕いた。
ドォン。
砂煙が上がる。
怪物が、こちらへ向きを変えた。
「こっちを見たぞ」
誰かが呟く。
セドウィックが息を吐いた。
「それでいい」
坂の上を剣で指す。
「斉射しつつ砦へ向か――」
「防御陣形!」
将軍の鋭い声が飛んだ。
ガゴン!
ガン! ガン!
ドラゴンが地面を抉り飛ばす。
ガン! ゴン!
飛来した石塊を、グラキア兵たちが身を挺して防ぐ。
ガン! グシャ!!
一人のグラキア兵が巨塊を受け、吹き飛んだ。
「救助いそげ!」
すぐさま兵士たちが両脇を抱え、引き起こす。
もはや、どの軍属かは解らない。
ヒュン、ヒュン、ヒュン――。
「行くぞ! 急げ!」
ズゥン。
ズゥン。
怪物が坂を登りだした。
山砦の石壁が震える。
もう一歩。
ズン。
岩ノ山が。
前へ出た。
◇
ドラゴンが頭を下げる。
岩ノ山を見た。
その大きさは、比較することすら馬鹿らしくなるほどだった。
岩ノ山の頭より高い鱗。
その脚一本が、男の身体ほどもある。
岩ノ山は。
その前に立つ。
一歩。
また一歩。
そして。
腰を落とした。
両足を開く。
土を踏む。
深く。重く。
手を。
前へ。
山砦の上で、誰かが息を呑んだ。
「何を……」
岩ノ山は、動かない。
ドラゴンが。
前脚を上げた。
ズゥン。
岩ノ山の身体が揺れる。
もう一度。
ドラゴンが踏み込む。
岩ノ山が。
出た。
ドッ――!!
地面が爆ぜる。
ガギィン!!
鋭い金属音が響く。
――ガシィッ!!
岩ノ山の太い腕が、ドラゴンの顎下と肩の結節を掴んだ。
足が地面を掴む。
岩ノ山の背中が膨らんだ。
「おお……!」
山のような巨体が、ピタリと止まった。
山砦の兵士たちが息を呑む。
「……止めた」
誰かが呟いた。
岩ノ山の足元だけが、土を削っていく。
ズズズ……。
それでも、離さない。
歯を食いしばる。
首筋に血管が浮く。
腕が震える。
「バリスタ、撃てぇッ!」
バリスタの弦が弾けた。
――ドォン!!――ドォン!!
ドスッ! ドスッ!
鱗が砕け、赤黒い血が飛ぶ。
ドラゴンが吠えた。
ギャオロロロオォォ!!
山が震えた。
「ぬぅ……!」
岩ノ山は、渾身の力を指先に込める。
「離すな!」
「もう一発!」
「弓隊!撃てぇ!」
ヒュ、ヒュ、ヒュン――。
――ドォン!!
ドスッ!
矢が飛ぶ。
槍が飛ぶ。
一つ。
また一つ。
ドラゴンの身体に傷が増えていく。
岩ノ山は。
ただ。
掴んでいた。
鱗へ指を掛ける。
「――っ!」
メリッ……バリッ!
硬質な鱗が、力任せに剥ぎ取られる。
「やった!」
声が上がる。
だが。
その下の肉が蠢いた。
赤黒い傷口が、塞がっていく。
岩ノ山の目が細くなる。
再生している。
それでも。
もう一度、手を掛ける。
だが――。
ドラゴンが身体を振った。
「岩ノ山!」
巨体が動く。
岩ノ山の足が浮いた。
「――っ!」
一瞬。
――ドォン!!!
岩ノ山の大躯が弾き飛ばされた。
山砦の防壁を打ち破り、バリスタの台座を巻き込んで瓦礫の中へ没する。
「岩ノ山!」
誰かが叫んだ。
返事はない。
ドラゴンが。
ゆっくりと頭を上げた。
その眼が。
再び、橋の向こうを見る。
「……」
セドウィックが歯を食いしばる。
避難は、まだ終わっていない。
ドラゴンが。
一歩。
前へ出た。
◇
ズゥン。
ドラゴンが。
また一歩。
進む。
「あのバカを死なせるな!」
石工のドワーフ達が、崩れた山砦の瓦礫に手をかける。
「弓隊! 休むな!」
ヒュ、ヒュ、ヒュン――。
セドウィックは周囲を見渡した。
兵士。エイラ。将軍。ドワーフ。バレントの兵。グラキアの兵。
橋の向こうへ逃げる人々。
そして。
瓦礫の下の岩ノ山。
セドウィックの目が、石切り場へ向く。
そこには。
巨大な鎖が積まれていた。
「……鎖だ!」
「石切り場の鎖を持ってこい! 奴の足を縛るぞ!」
「鎖?」
エイラが振り返る。
セドウィックは走り出した。
「持ってこい!」
「何に使う!?」
「何でもいい! あれなら――!」
兵士たちが石切り場へ駆け込み、鎖へ手を掛ける。
「こりゃドワーフ鋼じゃ! これなら!」
ドワーフの親方が意気込んだ。
バレント、グラキア、ベルグ、ドワーフ、エルフ。
十人がかりで、巨大な鉄の束を担ぎ出す。
「引け! 首を通せ!」
「足だ! 下を通せと言っている!」
最初はバラバラだった。
手繰り寄せるタイミングが合わず、怪物の尾が一振りするたびに兵士が吹き飛ぶ。
それでも、倒れた者の手から別の者が鎖をひったくった。
将軍も、バレントも、兵士も、エルフも、石工も関係ない。
泥にまみれ、全員が同じ太い鉄の輪を握りしめている。
やがて、号令が消えた。
誰が指示を出すでもなく。
全員が同時に土を蹴り、背筋を伸ばす。
ズズズッ!
ぎり……。
ぎりぎり……。
金属が鳴る。
全員の体重を乗せた鎖が、怪物の前脚を締め上げる。
巨体が大きく傾いた。
◇
瓦礫の底で、岩ノ山は薄開きの目で泥を舐めていた。
右手が、土に埋もれた硬い何かに触れる。
握りしめたのは、かつて刺客が携えていた折れた剛刀の残骸だった。
思考はない。
ただ泥を吐き捨て、ぬくりと立ち上がった。
眼前では、セドウィックたちが吐血しながら、鎖を焼き切らんばかりの力で引いている。
折れた刃を逆手に握り直し、大きく腕を引いた。
――ズォン!
鉄片が、空気を穿つ。
グシャッ。
剛刀の折れ口が、怪物の左眼窩へ根元まで深々と突き刺さった。
ギャオロロロロ……ッ!
狂乱の咆哮。
怪物が初めて、明確な意思を持って首を巡らせた。
黄昏色の片目が、捉える。
対象はただ一人。
岩ノ山。
巨体が向きを変える。
避難民の続く橋から、怪物の意識が完全に引き剥がされた。
◇
橋を渡り終えようとしていたミリアが、ふと足を止め、振り返った。
遠く山砦の前線。
土煙の中で立ち尽くす巨大な男の背中。
岩ノ山が、チラリとこちらを見た。
眉を下げ、ふっと微笑んだ。
ミリアの胸がキュッと締め付けられた。
――自分を大事にして!!
あの冬、涙を流して叫んだ怒りと心配が、胸の底から込み上げる。
なのに。
ミリアは溢れそうな涙を堪え、唇を結ぶ。
そして、満面の笑みを浮かべ、大きく頷いて見せた。
胸の前で固く手を組み、静かに目を閉じた。
◇
「……岩ノ山なら」
「頼む……!」
「あいつなら何とかしてくれる」
橋の対岸で抱き合う村人たち。
血を吐きながら鎖を支える兵士たち。
セドウィック。エイラ。グレン。ダン。婆さま。
無数の祈りと願い、恐怖、そして感謝が、重い空気となって一人の男の背中に集まっていく。
岩ノ山は、自分の巨大な掌を見つめた。
皮膚の底から、じんわりと湧き上がる異質な熱。
空気が重い。
体が、自分のものでなくなっていくような感覚。
男は、ほんの少しだけ嫌そうな顔をした。
「……」
言葉には出さない。
リク。ミリア。ココ。オルガ。
その姿が遠くなっていく。
『生きて帰ってきて』
何かが。
いや、思いが岩ノ山の心臓を叩いた。
ニヤリと、岩ノ山が笑った。
「応」
男の全身から、白く強烈な気束が立ち上る。
◇
ズン。
岩ノ山が右足を高く上げ、地へ踏み下ろした。
地響きが走る。
避難民の足が止まり、人々が一斉に振り返る。
村の朝。
稽古の音。
踏み固められた土の感触。
あの懐かしい日常。
ズン。
左足が踏み下ろされる。
ドラゴンも応じるように、前脚を上げ……。
ぎりり……。
ぎり…。
繋いだ鎖が阻んだ。
橋の向こうには、守るべき人々。
こちら側には、泥にまみれた兵士たち。
ズン。
ズン。
一人と一頭。
小さな男と、巨大な厄災の山。
岩ノ山は、深く、深く腰を落とした。
両手を膝に置き、怪物を正面から見据える。
ドラゴンの淀んだ目が、岩ノ山を捉える。
そして。
その場にいる誰もの目が、岩ノ山へ向く。
「あれ……?」
岩ノ山の背中を通して、なにかが見えた。
山だった。
村の皆が知る、切り立った山ではない。
裾野の大きく広がった。
静かで、美しい。
山……。
……
誰かが。
小さく呟いた。
「……あれが本物」
二柱の山神が、並び立った。
◇
第五部 山神編
最終話につづく




