第5話 吹雪
◇
ビュウ、と唸る風。
雨戸が骨まで軋むようにガタガタと震え、屋根の雪がどさっと崩れ落ちる。
時折、太い梁が、ミシ……、と低く鳴いた。
宿の窓は真っ白に塗り潰されている。
いつもならとっくに外に出て作業をしているはずの岩ノ山は、食堂の長椅子に腰を掛け、静かに自分の膝を見つめていた。
その大きな体を持て余すように、わずかに肩をすくめている。
食堂には湯気だけが立つ。
風に震える宿に合わせて、五つの匙の音が、ことこと、ことこと、と鳴っていた。
◇
サラ、サラサラ……。
宿の女将、オルガの帳簿の上を、忙しく走る音。
ふと机の隅に目をやる。
数日前に届いた一通の手紙が、蝋封の押されたまま転がっていた。
「おや、若様からだね。ヤマさん、アンタ宛だよ」
岩ノ山の眉が、わずかに寄る。
封筒を見つめる岩ノ山の太い指先が、一度だけ、テーブルの端をとん、と叩いた。
オルガはその顔を見て、ハッとした。
「あ、そうだったね……。後で読んであげるよ」
手紙をパタパタと一回、二回と振ると、そのまま帳簿の脇へと無造作に滑らせた。手紙はそこへ静かに収まる。
岩ノ山の視線が、帳簿の上を這う黒い文字の列に落ちた。
読めない。
指先で、そっと机の木目をなぞる。
昨夜も、オルガが夜遅くまでランプの灯りの下でペンを滑らせていた背中が脳裏をよぎる。
「風邪はもういいのか?」
「おかげさまでね」
オルガはペン先をインクに浸しながら、気にも留めない様子で答える。
「……なにか、手伝えることはあるか?」
「アンタこそ、ゆっくりしなよ」
岩ノ山はそれ以上、何も言わなかった。
封筒は、置かれたまま、動かない。
◇
パチ……パチ……。
暖炉の火が痩せていく。
椅子をずず、と鳴らし、居候の少年リクが立つ。
「僕、薪取ってくる」
岩ノ山が腰を上げようとしていたが、
渋々と長椅子に座り直した。
「ヤマさんは休んでて」
数日前まで寝込んでいた身だった岩ノ山は、
ただ黙って腕を組んだ。
リクが勝手口の重い扉をすこしだけ開け、その背が、風の中へ消えていった。
ヒュッと吹雪の冷気が部屋に滑り込み、火の粉が爆ぜた。
――しばらくして。
扉が開き、雪まみれになったリクが薪を抱えて戻ってきた。
髪も肩も真っ白で、吐く息が白い。
「うう、寒い……」
オルガの両手が伸びる。
パッパッ、と肩の雪を払い、両頬をすっぽりと包み込んだ。
温かい……。
あかぎれたオルガの指先が、頬に少しだけチクリとした。
「ほら、冷えちまってるじゃないか」
「……うん」
リクは目を細め、大人しく体を委ねていた。
岩ノ山は二人をそっと見つめる。
冷えた薪を拾い上げ、暖炉にドサッと積んだ。
火が、また少し大きくなった。
◇
リクは薪を数本、厨房の薪置き場へと運んだ。
湯気の向こうで、ミリアの背がゆらゆら揺れている。
鍋の様子を見ながらおたまを動かしている。
「よいしょ、っと。後ろ通るよ」
「うん」
リクは薪を担ぎ上げ、ミリアの脇をすり抜け、窯の脇に薪をコトリと積んだ。
「えっと、お皿どこだっけ……」
ミリアが頭上の棚に手を伸ばし、高所にある浅皿を取ろうと背伸びをした。
かかとが浮き、指先がかすかに皿の縁に触れる。
スッと、リクの影がミリアの頭上を覆った。
ヒョイ。
リクの手が簡単に皿を掴み、ミリアの目の前へと差し出される。
「このお皿でいい?」
「……ありがとう」
「んじゃ、出来上がったら呼んでね」
リクは何事もなかったように厨房を出ていく。
一人残されたミリアは、差し出された皿と、去っていくリクの背中を交互に見つめた。
湯気の中、胸のあたりに小さく手を当て、ぽつりと呟く。
「……リクに、背、負けちゃったんだ」
木べらが、またゆっくりと回り出す。
◇
食堂は、香ばしいシチューの匂いが立ち込めていた。
グツグツ、グツグツ。
大鍋から立ち上る湯気。
ミリアが木べらでシチューをよそい、リクが皿をテーブルに並べて回った。
全員が席につき、「いただきます」と、手を合わせた。
ココはカチ、コチ、と硬いパンを両手で握りしめ、齧りついては顔をしかめた。
「パンかたい……」
岩ノ山の大きな手が、無言でパンをむしる。
ビリ、ビリ。
やわらかくなった欠片が、ココの皿にぽとん、と落ちた。
ココは、いそいそとスプーンをにぎり、それを口に運ぶ。
「おいしいね」
「うむ。ミリアのシチュー、うまいな」
「おや。ほんとだね」
ミリアがわざとらしく腰に手を当て、胸を張った。
「おかわり」
リクが、からん、と空になった皿をミリアに差し出す。
「おれも」
岩ノ山も自分の皿をミリアの方へ押しやった。
「はいはい」
木べらが宙で、くるん、と回った。
◇
真っ白な窓の外。
宿の中の薄暗さが濃くなれば、自然と暖炉の周りに人は集まる。
ぱたぱたと駆けてくる足音。
ココの手には、しわくちゃの紙。
「みんなでやろー!」
下手くそなマス目と絵が描かれた、手作りのすごろく盤だった。
五つの頭が、床に丸く座り込む。
コロコロ、コロン。
サイコロが転がる。
太い指が、一、二、三、と折られる。
「ヤマさん、また一回休みだ」
「病み上がりだもの。山神さまの思し召しだね」
岩ノ山とオルガが顔を見合わせ、苦笑いを交わす。
パチン! 駒が弾かれる。
「上がりー! 橋渡れた!」
ココの両手が、ぱあっと開いた。
◇
すごろくの紙が畳まれ、代わりにオルガの帳簿が視界に残る。
黒々とした文字の並びを、岩ノ山の目がなぞる。
「帳簿も、双六も……。文字が読めんと、何もできんな」
ばっ、とココの顔が上がった。
「んじゃ、ココが先生になってあげる!」
「私も手伝うわ」
板、炭。
宿にあるだけのものが、テーブルに並ぶ。
太い指に炭が握られる。
ぐ、と板に押し付けられ、
――ズッ。
不格好な線が、黒々と板に走った。
手のひらで擦る。
真っ黒。
「ほら、ボロ布使いな」
布が飛んでくる。
キャッチ。
「すまん」
オルガが帳簿の書き損じの紙の裏を数枚引きちぎり、岩ノ山の手元にそっとおいた。
◇
炭を持つ手が、紙の上を這う。
「ヤマさんの国の文字って、どんなの?」
手が止まる。
窓の外の唸る風だけが、しばらく答える。
「……書いてみるか」
ズ、ス――サラサラッ。
太く、迷いのない線が、紙の上を駆け抜ける。
「うわ、太!」
リクの目が見開かれる。
「これ、なんて読むの?」
「山、だ」
「へえ、一文字なのに意味があるんだ」
指先が、そっと墨の線をなぞる。
「ほんとにお山の形だね」
「どっしりしてるねー」
岩ノ山はその「山」の字をしばらく見つめた後、布で静かにそれを拭い去った。
手が、また炭を握り直す。
すぐに目の前の「こちらの世界の文字」の練習へと戻っていった。
一刻ほどが過ぎた。
――パタリ。
炭が紙の上に落ちた。
「今日はここまでにしましょ」
「ふう……」
長く、太い息。
炭で黒ずんだ指をしごく。
「がんばったねー」
「冬の間に、コツコツやりましょうね」
「うむ」
窓の外は、まだ白い。
◇
夜の帷が降りると、外の風は一段と勢いを増した。
雨戸がガタン、ガタン。
ココはオルガの膝の上でうとうとし、岩ノ山は静かに暖炉の火を見つめている。
厨房で刻まれる包丁の音。
水瓶を覗き込むリクの背。
柱がミシ、と鳴く。
帳簿の脇に、封筒が一つ。
動かない。
誰も、手を伸ばさない。
◇
子供たちの部屋の灯りが消え、小さな寝息が聞こえ始める。
岩ノ山とオルガは足音を殺して階段を下り、静まり返った一階の食堂へと戻った。
パチ、パチ……。
炎が影を揺らす。
オルガは再び帳簿を開き、岩ノ山は昼間教わった文字を、炭のついた指で紙の端になぞり始める。
シュボッ。
キセルに火が入る。
ふう、と紫煙が上がった。
オルガがキセルを口から離し、煙の向こうから岩ノ山を見た。
「……吸うかい?」
差し出されたキセル。
岩ノ山の手が、黙って、それを受け取った。
ぷかあ……。
「へえ、吸えるんだ」
「相撲取りになる時に、辞めた」
「そんだけ馬鹿力なら、一等賞だったんだろ?」
岩ノ山のキセルを持つ手が、止まる。
「……いや。強いだけでは、ダメだった」
オルガは、あっ、と口を開け、すぐにつぐんだ。
「気にするな」
岩ノ山はキセルを咥える。
ぷかあ。
――ゴホッ。
オルガが思わずクスッと小さく笑った。
「悪いね、付き合わせちまって」
返されたキセルを、オルガは指でクルリと弄ぶ。
「構わんさ」
炭が、また紙の上を這い始める。
キセルの煙がふわりと、二人を包んだ。
帳簿の脇の封筒は、まだそこにある。
自分の名を書いたその文字を、岩ノ山はまだ読めない。
けれど今、その手は、この世界の文字を一つずつ、黒く刻んでいた。
外では、吹雪がまだ唸っている。
家の中には、暖炉の薪が爆ぜる音と、
ペンが紙を走る、静かな音だけだった。
◇
第四部 越冬編
第6話に続く




