第9話 敵国人
◇
灰色の空に溶け込むように、
薄墨色の陣幕が村の周囲に張られていた。
バレント領と隣領ベルグとの混成護衛隊は、
敵領グラキア国境への捕虜護送を明日に控えていた。
バレント次期領主セドウィックら護衛隊と、
グラキアの将軍の一行が到着してより、
村の入口には二人の歩哨が立っている。
直剣と曲剣を差した兵士達。
行き交う足音には、
鍔鳴りと、帷子の音が混ざっていた。
「交代の時間だ」
「助かる」
曲剣の兵士が槍を受け取る。
「海の寒さとは違うな」
「山では肌を出すな」
直剣の兵士は襟巻を渡すと、
寝床へ下がっていった。
陣幕が、
冷たい空に揺れていた。
外周を巡回していた岩ノ山と村の若衆頭のダンが、
警備隊長のもとへ歩み寄る。
「……何かあったか」
隊長の問いに、
ダンは街道の先を見据えたまま低く答えた。
「街道脇の焚き火跡が新しかった。
……二人、あるいは三人分だ」
「尾けられたか」
「歩哨からの報告では、尾けられた形跡は無い。
……だが、完全に切れたわけでもない」
岩ノ山は山道の上を見上げる。
黒い雲が、低く垂れ込めていた。
「雪が降りそうだ……」
男たちの鞘を持つ手が、わずかに閉じた。
◇
宿から明かりが漏れる。
食堂の隅では暖炉が
薪がパチパチと音を立てている。
テーブルにはグラキア領の将軍、バレント領のセドウィック、
そしてベルグ領の行政官エイラの三人がついている。
そこへ、宿の女将のオルガが湯気の立つ大皿を運んできた。
湯気の向こうで、熱い根菜と肉の匂いが立ち上る。
セドウィックが将軍に目をやり、静かに口を開いた。
「……秋口の鱒が絶品でした」
将軍が静かに頷いた。
「まさに。今日の煮込みも」
将軍はオルガに顔を向け、
静かに目線を下げた。
「女将。……痛み入る」
オルガは「ごゆっくり」とだけ告げると、
静かに下がった。
エイラはオルガを目で追うと、
一礼し、静かに席を立った。
厨房の扉にエイラは手をかけ、
息を静かについた。
ギィ…と扉を開き中へ入る。
オルガはしゃがみ込み、
かまどの火を見つめている。
「……貴族様が入るところじゃありませんよ」
オルガはエイラを一瞥したが、
手を止めずにかまどに薪をくべる。
「宿で食事を出したい、との申し出。
……正直、驚きました」
オルガは器を拭う手を止め、
少しの間を置いた。
「憎いよ」
短い答え。
そして、ふっと息を吐く。
「でもねぇ……。
あの将軍様が憎いのかって言われると、
分からないねぇ」
オルガはそれ以上語らず、
次の汁物を鍋から皿に掬い上げた。
エイラはその皿を奪うように受け取る。
「手伝います」
オルガは一瞬目を丸くしたが、
ちらり、と扉の隙間からセドウィックを見た。
「あいよ。熱いからね」
◇
翌朝。
朝靄の中を、将軍が一人歩いていた。
少し後ろを、岩ノ山が帯同していた。
水汲みの桶がざばぁといい、
パカーンと薪を割る乾いた音が村を包む。
角を曲がったところで、
老女が一人、店先で手を招いた。
仕立て屋のエッダ婆さんだった。
「そのままじゃ、風が入るよ」
将軍の羽織る擦り切れたマントを見やり、短く言う。
将軍が足を止めると、エッダは針と糸を取り出し、
慣れた手つきで破れかけたマントの裾を縫い合わせ始めた。
「……かたじけない」
「仕事だよ」
「ほう、こりゃ毛ウサギ製だね」
「故郷の特産でな。あちらは寒い」
岩ノ山は柱に寄りかかり、
二人をじっと見ていた。
しばらくするとエッダ婆は、
糸を歯で噛み切り、背中をポンと叩いた。
将軍は一礼すると、
再び村へ歩き出した。
◇
牧場では村娘のミリアが、
毛ウサギに餌をやっていた。
そこへ通りかかった将軍が、立ち止まる。
ミリアが身構えるより早く、
将軍は膝をつき、毛ウサギの首元へ太い指を伸ばした。
ワシワシと、慣れた手つきで首元を掻く。
毛ウサギは気持ち良さそうに目を細め、
将軍の膝にすり寄った。
ミリアは驚いてその光景を見つめていた。
将軍が立ち去った後、
ミリアは同じように毛ウサギの首元を撫でてみる。
毛ウサギは大喜びで耳を寝かせた。
ミリアは自分の細い指を見つめる。
「……そうだったんだ」
ミリアは将軍の背中を見送り、
ぽつりと呟いた。
◇
初雪が村に静かに降りてきた。
小さな雪は、割れた石畳に沁み込むように消える。
出立の刻が来た。
荷が馬の背でギチリとなる。
集まった村人たちが、
離れた場所から静かに見守っていた。
今日も足音と武具の擦れる音だけが響く。
ダンと岩ノ山も大荷車――山神号を引き護送部隊に混ざる。
将軍が馬に跨り、手綱を握り直す。
ふと、視線の先にダンの妻、エマが立っていた。
その腕には、生まれたばかりの赤ちゃんが抱かれている。
将軍と、赤ん坊の視線が交差した。
「ん…ま」
赤ん坊が、にこっ、
と無邪気に笑った。
将軍の厳めしい頬が、
ほんの少しだけ緩んだ。
村に顔を向け深く一度だけ頷くと、
馬の腹を蹴る。
ガラガラと車輪が回り、
一団が歩み出した。
講和の一団は、
山砦と、あの橋を目指し、
秋の終わる山道を登っていった。
エマは腕の中の我が子を優しく抱き寄せ、
何も言わずにその背を見送った。
赤ちゃんの手に触れた雪がそっと解けていた。
◇
第三部 流域編
第10話 に続く




