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第8話 講和への船出


行政官のエイラが故郷ベルグ領の地を踏み直してから、

半月が過ぎていた。


港のドックでは、

連日、槌の音が打ち鳴らされている。


同盟隣領バレントからの発注による交易船団の建造が進む。


それに合わせた岸壁の拡張工事。


三又商会が押さえた膨大な荷受け場には、

早くも新しい棚が組まれ始めていた。


すべては、動き出しつつある。


だが、エイラは知っていた。


この巨大な車輪を真に回し切るための、

たった一つの絶対条件。


――隣領グラキアとの、完全講和。


古い執務室の机の上。


エイラは広げられた地図の上の線を、

指先で静かに撫でた。


「……戦の責任は、儂が負おう」


部屋の奥、陽の届かぬ椅子で、

父である元領主が低く呟いた。


領主の座をエイラの兄へと譲り、

自身は過去の泥と、

外交の矢面に立つことを選んだ老人の声。


「そなたら兄妹は、平和な世を生きよ」


だが、その声は決して弱くは無かった。


地図をなぞるエイラの指が、

海を隔てた国境の向こう――「グラキア」の文字の上で止まった。


「……はい。必ずや」


机の端には、届いたばかりの書簡が置かれている。


『宛 ベルグ

 発 グラキア』


『捕虜受け入れの準備、整えり』


同じ文面は、今頃バレント領にも届いているはずだった。


「だれぞ」


父の声が響くと、扉が静かに開き、

正装の武官が、足音もなく入室した。


エイラは書簡から目を上げずに告げる。


「グラキアの将軍を送り届けます」


武官は深く頷いた。


「……バレント領、

 山神村の道を使います」


武官が地図を抑えた。


指が川に沿った山道を軽く叩く。


「海を渡り、旧街道を登れば山神村です。」


「ええ。人目が少なく、守りやすい。」


エイラの視線は山神村の先、


国境付近の山砦と橋を見ていた。


武官は地図から顔を上げると、低く息をついた。


「昨晩も、港近くで不審な者を三人捕縛いたしました」


武官の声が少し硬くなる。


「終戦をよしとせぬ者どもが、未だ影に潜んでおります」


エイラは静かに立ち上がった。


「参りましょう。船が出ます」



波を割る護衛船の甲板。


エイラは舷側に立ち、

海を見つめていた。


その視線の先、

船室の陰に一人の男が佇んでいる。


背筋を伸ばし、擦り切れた軍衣を纏った男

――グラキアの将軍であった。


「お寒くはありませんか、将軍」


エイラが声をかけると、

男はゆっくりと振り返り、静かに頭を下げた。


「配慮に感謝する、エイラ殿。

 ……かつて敵であった私に、このように礼を尽くしていただけるとは」


「あなたのご尽力が、我が領とグラキアの未来を開くからです」


将軍は微かに笑みを浮かべ、遠くかすむ陸地を見やった。


「未来、か」


「私は自国に戻れば、敗軍の将、

 あるいは裏切り者として糾弾されるやもしれん」


「それでも、お戻りになるのでしょう」


「……あそこに、私の引き受けねばならぬ責任と、

 生き残った民がいるゆえに」


将軍の言葉に、

エイラは静かに頷いた。


その時――。


「船影! 前方より接近!」


見張り兵の甲走った声が響き、


甲板の空気が一瞬で張り詰める。


兵たちが腰の鞘に手をかける。


逆光の海に、


黒い船影がゆっくりと浮かび上がる。


兵たちが柄を握る音が聞こえる。


影が迫る。


…………


……


「……交易旗!」


ある兵が息を吐いた。


だが、近づいてきたのは威圧的な軍船ではなかった。


満載の荷を積んだ、三又商会の大型交易船団。


船同士がすれ違う刹那、

向こうの甲板から静かな発光信号が明滅した。


『道 中 ご 安 全 に』


兵たちがゆっくりと刀から手を離す。


すれ違う船のデッキには、

活気ある船乗りたちの姿があった。


「……すでに、動き出しているのだな」


将軍の呟きは波音に溶けた。


エイラは答えず、

将軍の隣へ静かに立った。


遠ざかってゆく交易船団を見送る。


白い飛沫だけが、


二隻の航跡を結んでいた。



夕刻。


船はバレント領の軍港へと滑り込んだ。


桟橋で待っていたのは、

バレント領次期領主、セドウィックであった。


港の官舎に入ると、二人は間髪を入れずに図面と書類を広げた。


「山神村までの日程、国境での引き渡し手順……すべて手配済みです」


セドウィックが整然とした書類を示す。


エイラは少しだけ眉をひそめ、声を落とした。


「……グラキア側、あるいは終戦反対派が動けば、

 山中で襲撃を受ける可能性もあります。護衛の手配は……」


「心配いりません」


セドウィックは短く答え、窓の外へ目を向けた。


ドスン……。


階下から、重量感のある重い足音が響いてきた。


廊下を歩く警備兵たちが息を呑み、

道を空ける気配が部屋の中まで伝わってくる。


コンコンコン、と。

控えめだが、扉の木枠を揺らすようなノックが鳴った。


「入れ」


セドウィックが応じると、ゆっくりと扉が開いた。


そこにあったのは、巨躯。


かつてセドウィックの執務室の壁際に静かに佇んでいた男――岩ノ山であった。


エイラは息を呑んだ。


岩ノ山は軽く顎を引き、ただ太い首を傾げ、その大きな目で部屋の中を見渡した。


そして、セドウィックとエイラを交互に見ると、低く太い声で短く言った。


「……迎えに来た」



第三部 流域編

第9話 に続く

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