第3話 宿の昼
◇
昼を少し回った頃。
宿の食堂はようやく
静かになっていた。
オルガは腰を叩きながら、
空になった鍋を覗き込む。
「……今日はよく食ったねぇ」
パンもほとんど残っていない。
ため息をつきながら、
布巾を桶へ放り込んだ時だった。
「邪魔するよ」
戸口から女が入ってきた。
日に焼けた腕。
頭には手拭い。
片腕には赤ん坊。
ダンの妻、エマだった。
「ああ、あんたかい」
「昼の差し入れ。
あの人、また飯忘れてる」
籠をどん、と机へ置く。
オルガは吹き出した。
「またかい」
「また」
エマは疲れた顔で頷く。
「今朝もねぇ、
“今日は早ぇからもう行くぞ”って、
湯しか飲まずに出てったよ」
「碌でもないねぇ」
「ほんとに」
二人同時だった。
◇
赤ん坊が、
ふにゃあと声を出した。
オルガが覗き込む。
「おや、起きたかい」
「最近すぐ起きるんだよねぇ」
エマは慣れた手つきで
赤ん坊を揺らす。
その顔を見ながら、
オルガがぼそりと言う。
「……ダンに似てきたね」
「でしょ?
上の子たちがあたし似だから」
「はっ、言うじゃないか」
二人が笑う。
「この子の為にも
村を良くしなくちゃね」
「塩坑がもうすぐ直るさ」
その間にも、エマは自然に
机の汚れを拭いていた。
宿に来る女達は、
だいたい勝手に手を動かす。
小さな仕事でも誰かがやる。
山神村はそういう村だった。
◇
「で?」
オルガが腕を組む。
「例のデカブツ、どう思う」
エマは少し考えた。
「怖い」
即答だった。
オルガが片眉を上げる。
「正直だね」
「だって怖いよ。
熊みたいじゃない」
「旅人も山の恵み、だろ」
「人は山を超えてくる」
「旅人は山神さまと思え、か」
「山神さまは皿洗いしないよ」
「それは余計怖い」
思わず二人で吹き出した。
◇
しばらくして、
エマが少し真面目な顔になる。
「でもさ」
「うん?」
「あの人、
子供の前で怒鳴らないね」
オルガは口元に指をあてた。
「転びそうなココに
腕を伸ばしてたねぇ」
「……ダンが気にするの分かる」
窓の外では、
夏の風が木を揺らしていた。
オルガはしばらく外を見ていたが、
やがて鼻を鳴らした。
「気にするも何も」
「?」
「あのバカ、
もう拾う気だよ」
エマが苦笑する。
「あー……」
「ほんっと、
昔っから放っとけない病だ」
「オルガもでしょ?」
「私は宿屋だよ」
「同じようなもんじゃない」
返す言葉がなく、
オルガは桶を引き寄せた。
「働き手が増えるのは
いつ以来かね……」
二人は視線を合わせなかった。
オルガは
今は広すぎる食堂を見回した。
◇
その時だった。
遠くで、かすかに半鐘が鳴った。
カン、カン――。
二人の顔から、笑いが消える。
良くない音だった。
エマが赤ん坊を抱き直した。
オルガは立ち上がる。
強く開けた扉の先に、
山を睨む岩ノ山が見えた。
「塩坑で何かあったんだ!」
オルガの叫びが岩ノ山を叩く。
瞬間、
岩ノ山の視界から色が消える。
巨体が飛ぶように駆け出した。
◇
第一部 山神村編
第4話 へ続く




