第2話 帰り道
◇
外が白み始めた頃、
ミリアは目をこすりながら起きた。
いつもはまだ寝ている時間だが、
かすかな気配を感じた。
そっと、
古くなったカーテンの隙間から
中庭に目をやる。
昔は荷馬も繋いだ場所だった。
「昨日の……」
中庭に立つ大男の周囲だけ、
朝靄が揺れていた。
熱を帯びた身体に霧が触れる。
白く溶けていく。
上着をはだけ、
足は素足。
ゆっくりと片脚を上げる。
まだ、上げる。
天地を繋ぐように一直線になった。
脚を振り下ろす。
ミリアは思わず身を固くした。
石畳が砕ける。
そう思った。
しかし。
脚は、
空気だけを圧縮するように
静かに石畳を踏みしめた。
音はほとんど無い。
ただ、
冷えた朝の空気だけが、
ゆっくり震えていた。
◇
「おはよう。今日は早いね」
厨房ではオルガが
パンをこねていた。
「おはよう。オルガさんも」
「客が増えちまったから、
ね!っと」
仕上げなのか、八つ当たりなのか、
生地をペチンと叩く。
オルガは手際よく
生地を釜へ放り込む。
ミリアは食堂の拭き掃除を始めた。
「おはよ!母ちゃん、姉ちゃん」
起きてきたココは返事も待たず、
小さな体でチリトリを持って座り込む。
ミリアは集めた埃をそこへ払った。
「お外でね、
デっっかい人がいた!
なんか汗いっぱいだった!」
ココは目一杯手を広げて見せる。
その後ろに岩ノ山が立った。
気配にココは思わず肩をすくめる。
ゆっくり振り返る。
「デっっっっか!」
「……おはよう」
岩ノ山は
申し訳なさそうに髷を撫でた。
「こら、ココ。
ダメでしょ」
ミリアはココを諭しつつ、
一歩、岩ノ山に歩み寄る。
「あの……。
昨日はありがとうございました」
「……無事だな」
「はい、大丈夫です」
ミリアは胸の前で指を組んだ。
一拍おいて、
岩ノ山が大きな手を差し出した。
「これ、助かった」
手にはきちんと洗ったのだろう、
湿気の残るタオルが畳まれていた。
「ココが持っていったの?」
「うぅん、知らない」
厨房からオルガの声がした。
「ミリアー、持ってっておくれー」
パンの香りが食堂に流れてきた。
◇
食堂の席に岩ノ山が座る。
「椅子、みっつも使ってるー。
おしり、でっかー」
ココが楽しそうに笑いながら、
パンを運んでいる。
若い衆も
あくびをしながら起きてきた。
「大した見張りですこと」
オルガの呆れた声が飛ぶ。
若い衆は頭を掻いて、席に着く。
「熱いですから、気をつけて」
昨晩のスープに、
細かく刻んだサラミが浮いていた。
そして、湯気の立つパン。
若い衆が思わず手を伸ばすが、
岩ノ山はじっとパンを見て動かない。
なぜか、
若い衆は手を引っ込めた。
やがて、オルガ達も席につく。
「それじゃ、いただこうかね」
オルガがそう言うと、
「いただきます」
岩ノ山がすっと手を合わせた。
一同がキョトンとする。
「お前さんのとこのお祈りかい?」
岩ノ山は髷をさすり、
「……作ってくれた人への感謝、
と習った。あと――」
「命も、もらうから」
へぇ、
と皆の腹に落ちる声だった。
「変な祈りだね」
「でも嫌いじゃないよ」
オルガが手を合わす。
「いただきまーす!」
ココもまねた。
ミリアも小さく手を合わせる。
「いただきます」
若い衆もそれに倣った。
◇
「ごっちゃんでしたー」
食後の挨拶まで、
ココは岩ノ山の真似をしていた。
「ココ、
ごちそうさまでした、でしょ」
「いわのやま、そう言ってたもん」
娘二人のやり取りを見て、
岩ノ山は食器を持つと厨房へ向かう。
「……どこで洗えばいい?」
「ミリア、案内しておくれ」
岩ノ山は井戸へ連れられていった。
入れ替わりでダンがやってきた。
「おはようさん。
……問題なし、だな」
呑気に腹をさする若い衆を見る。
「で、お客人は?」
「……皿洗い」
オルガが雑に親指で裏手を指す。
ダンがわざとらしく肩をすくめた。
「へぇ、出来た人じゃないの」
「お客人はなんか言ってたかい?」
若い衆を横目にして、
オルガに問う。
「まだなんにも」
「世間知らず、躾けられてる。
ってのは見た通りだよ」
「婆さまは街の寄り合いだしなあ」
「なにか収穫があるといいが……」
カップに目を落とす。
そこに、岩ノ山が戻ってきた。
「若衆頭、おはよう」
「おはよう。ダンでいいよ」
「でな、お客人……」
「岩ノ山でいい」
小さく咳払いをして、
ダンが言い直す。
「岩ノ山。
あんた行く宛は?」
岩ノ山は目を伏せた。
「だよなあ」
ダンは椅子を軋ませた。
「……山の祠で目が覚めた」
「ここがどこだか、
それすらわからん……」
「そりゃなんとも……」
大きな肩が小さくなった。
ダンがオルガに目をやる。
オルガは口を結んだ。
「山の祠っていうと……。
あそこの祠か」
ダンはカップの縁を指でなぞる。
「山神さまの祠だ」
「やまがみさま……」
「ここの土地神様だよ」
「敬えばお恵みを。
粗末にすればバチをくださる、
ってな」
“神隠し”
ダンはその言葉を、
喉の奥に飲み込んだ。
「俺も久しく行って無い。
バチ当たりなもんさ……」
岩ノ山はしばらく黙っていた。
やがて伏せていた顔を上げる。
「……調べに行く」
岩ノ山は立ち上がると、
そのまま戸口に向かった。
ダンもカップを置いて
それに続いた。
「あんた、場所わからんだろ」
◇
二人は旧街道を山に向かう。
岩ノ山は前を行く。
案内を買ったダンも、
道を指示するだけだった。
日は高くなり、蝉時雨が注ぐ。
汗が額を伝う。
いつの間にか、
木々は頭上を覆っていた。
薄暗い。
道まで張り出した枝を掻き分ける。
掻き分ける。
しばらく進むと、
ふっと明るくなった。
開けた草地と森の境に立つケルン。
人の背丈よりも高く、
小石が積まれている。
その積み石に埋もれるよう、
祠があった。
岩ノ山は昨夕もそれを見た。
見たはずの光景を前に、
ただ、立ち尽くしていた。
ダンは平たい小石を岩ノ山に渡す。
「……ほれ、
こいつを積むのが習わしだ」
ダンは背伸びして、
祠に自分の小石を積んだ。
岩ノ山は祠の前にしゃがみ込み、
コトリ、と置いた。
「お前さんなら一番高いとこ、
置けるだろうに」
岩ノ山は答えず、
地面へ目を落とした。
「昨日の夕、ここだった」
ダンも神妙になり、辺りを探る。
祠のまわり。
怪しいものは無い。
ケルンの裏。
何も無い。
次第に岩ノ山は、
小石の裏まで見るかのように探した。
日が頭の上に来ていた。
「……俺ぁ、先に戻るよ。
塩坑での仕事もあるから」
返事は無い。
「暗くなる前に戻りなせぇよ」
やがて、
蝉時雨がヒグラシに変わった。
岩ノ山の手は土にまみれ、
肩が震えていた。
視界が途端に赤く見える。
わっ、と祠に腕を振り上げた。
「……」
だが、
ただ腕を降ろした。
岩ノ山は小石を拾い直す。
それをケルンの高い位置に積んだ。
それから静かに手を合わせ、
山を降りた。
ヒグラシが鳴いていた。
山道を降りながら、
岩ノ山はゆっくり息を吐く。
――帰れねぇ。
考えないようにしていた言葉が、
ようやく腹の底へ落ちた。
ヒグラシは鳴きやんでいる。
視界の色が戻る。
なら、生きるしかない。
働き口を探さなければならない。
世話になった礼もある。
街へ出て、力仕事でもする。
岩ノ山は自分の手を見る。
土と、石の粉を払った。
ひとまず、宿へ戻るか。
麓の向こうに、
村の灯が見え始めていた。
不思議と足がそちらを向いた。
気がつけば、
宿の軒先は目の前だった。
ふいに風が木の葉を巻き上げた。
岩ノ山が足を止める。
風に乗って、何かが聞こえる。
……カンカン、
……カンカンカン。
鋭い半鐘の音が、
夕暮れの山から響いた。
岩ノ山は、
はっと顔を上げる。
夏の風が、
急に熱を帯びた気がした。
◇
第一部 山神村編
第3話 へつづく




