第1話 出会い
◇
山神村の子供達は、
今日も山を駆けていた。
木漏れ日。
せせらぎ。
鳥のさえずり。
カバンには摘みたてのベリー。
よほどつまみ食いをしたのか、
ほんのり指先は赤くなっていた。
それでもカバンはパンパンだった。
欲張りすぎたかもしれない。
思ったより、遅くなってしまった。
木漏れ日が陰り始めている。
「リク、だから言ったのに……」
「ミリアだって。
いいから、急ごう……」
いつの間にか、川の音がしない。
ヒーーー……。
気の早いトラツグミが鳴いた。
「……おどかすなよ」
笑おうとした声が、
うまく続かなかった。
「近道しよう」
橋までは遠い。
浅瀬を渡ってしまおう。
ヒー、ヒー……と、トラツグミ。
水を含んだ土の匂い。
おかしい。
川が細い。
「……早く渡ろう」
ズズン――。
上流から、腹に響く地鳴り。
卵の腐ったような臭いが、
風に混じった。
次の瞬間。
茶色い水が、
一気に膝まで跳ね上がる。
流れに逆らえない。
叫んだつもりなのに、
声が潰れる。
懸命に泥をかく。
視線の先。
尖った流木が迫ってくる。
帰りたい。
逃げようとしていた手が、
止まった。
閉じかけた目に、
巨大な影が飛び込む。
泥水を貫いて。
そこに、岩が立った。
濁流が割れる。
小さな体が泥から引き抜かれ、
岩に抱き止められた。
迫る流木へ、
巨体が身構える。
抱えられた二人は、
岩の質量が増すのを感じた。
ドゥ――ッ!!
重い衝突音が響いた。
横薙ぎの右腕が、
濁流ごと流木を押しとどめる。
鈍い音。
流木が砕けた。
左腕は、
小さなものを包んだままだった。
◇
村では、
大人たちがざわめいていた。
松明と農具を手に、
山へ向かおうとする男たち。
村に残っている男衆は多くない。
「まだ帰ってない!」
「山へ入ったって……!」
「村はずれの川に濁流が出た!」
不安そうな女たちの声が飛び交う。
「おぉーい!や、山から……!」
先発していた若者が、
血相を変えて駆け戻ってきた。
身構える男たちの眼前。
森境の草むらが揺れる。
ぬぅっと大きな影が歩み出てきた。
誰もが息をのんだ。
まるで。
巨岩が、
せり出してきたような圧力。
「え……人?」
困惑する村人たちをよそに、
大きな影はしゃがみ込む。
そっと、
抱いていたものを下ろす。
「あ!!」
村人達は異形への警戒を忘れ、
子供へ駆け寄る。
「……脅かしやがって。
悪ガキどもめ」
張り詰めていた空気に、
ようやく息が戻る。
重い瞼が開く。
ぼやけた視界の向こうで、
人の声が飛び交っていた。
「……あれ」
「リク!」
「ミリア!」
飛び交う声に包まれながら、
二人は村人たちに抱き起こされる。
「まだ寝てろ。
村中ひっくり返ってたんだぞ」
「よかった……!」
老婆が何度も
胸を撫で下ろしていた。
まだ状況を理解できないまま、
二人は村へ向かって運ばれていった。
何度も振り返ろうとした。
だが、大人たちの背中に遮られる。
それでも。空気だけは分かった。
誰も、笑っていない。
「……リク」
ミリアが、
かすれた声を漏らす。
「あの人……」
リクは、
ぼんやりと山の方を見る。
『岩が、
暴れる川に言ったんだ』
『通さない、って』
大人たちは黙って顔を見合わせた。
岩のような大男は、
黙ってその背中を見送っていた。
◇
村への道には、
男たちが立っていた。
手にしているのは農具ばかり。
それでも誰一人、
道を開こうとはしなかった。
農具を握る手に、力が籠る。
「助けられたみてぇだな」
「だけどよ……」
その時。
大男が、
すっと小さなカバンを差し出す。
ぽろり。
泥塗れのベリーがこぼれる。
受け取った村人は、
その右手から
血が滴っているのを見た。
「……なあ、
手当くらいいいんでねぇか?」
「んだ。俺らも着くからよ」
村人が周囲を見回し、
小さなカバンへ目を落とす。
「ま、
世話になった礼くらいせんとな」
村人は農具を肩へ担ぎ直した。
「俺ぁ若衆頭のダンだ」
「お前さん、名は?
どっから来なすった?」
とたん。
大男が直立した。
村人たちは
反射的に農具を握り直す。
だが次の瞬間。
大男は静かに頭を下げた。
農具を握ったまま、
誰もすぐには口を開けない。
「岩ノ山という。
……両国の力士だ」
村人たちは
怪訝な顔を見合わせた。
「リョーゴク?」
「……どっかの鉱山か?」
「リキシ?山師の類か?」
岩ノ山は答えず、目を伏せる。
「訳ありそうだけんど……」
ダンが、ふっと表情を崩した。
「岩ノ山ってのは、
見たまんまの名前だな」
村人たちから、
小さな笑いが漏れる。
農具を握る手の力が僅かに抜けた。
「おかしな事しなけりゃ、
俺達もなんもしね」
ダンは顎をしゃくる。
「……着いてきなっしゃい」
岩ノ山は小さく頭を下げ、
ダンの後へ続いた。
その後ろを、
村人たちも無言で追う。
◇
「帰ったぞ。まぁ入ってくれ」
「おかえり。……わ!」
戸口をくぐり入ってきた岩ノ山を見て、
迎えた女は思わず声を上げた。
「バカ。
デケェ声出したらチビが起きる」
女の腕の中で、
赤ん坊がすぅすぅと
寝息を立てている。
「悪いな、女房だ」
「ごめんなさいね」
「こんなにおっきな人、
初めて見たから」
「お客人が怪我なさってる。
お前は休んでな」
女は赤ん坊を寝台へ置くと、
手慣れた様子で薬箱を持ってくる。
「うちの人、手当ては上手よ」
そう言って一礼すると、
赤ん坊を抱えて奥へ下がった。
ダンは岩ノ山の傷を洗うと、
軟膏を塗った布を巻いていく。
「縫うほどじゃなくて良かった」
「……助かる」
ダンは岩ノ山を見上げる。
それから
家族が下がった寝室の扉を
ちらりと見た。
喉の奥で唸る。
「ウチじゃ、お前さんには狭いな」
しばらく黙ったあと、
「……オルガんとこの離れ、空いてたか」
若い衆へ、ダンが声をかける。
数人を残し、
男たちはようやく帰っていった。
ダンを先頭に、
若い衆は岩ノ山を挟むよう
歩き出した。
「不思議なもんだな」
ダンがぽつりと言う。
「ウチのチビが、泣かなかったよ」
岩ノ山は、
右手の痛みが和らいだ気がした。
案内された村外れに、
少し大きな建物が見えてきた。
「お前さんが助けたミリアん家でね」
古い建物だった。
歪んだ柱の補強、増築のあと。
多くの人が触れて
丸くなった手すり。
大切に使われてきたのが分かる。
軒先には、
年季の入った木の看板が
掛かっていた。
岩ノ山が、ふと足を止める。
……読めなかった。
知らない文字だった。
「……山神の宿ってね」
ダンが、
懐かしむように鼻を鳴らす。
「街道が賑わってた頃は、
繁盛してたもんさ」
「昔は馬小屋までいっぱいだったよ」
ダンは星空をそっと仰いだ。
「女将のオルガってのが
切り盛りしててよ」
「器量は悪くねえが――」
ダンが目配せしながら、
指で首を切るような仕草をした。
「手を出すなら、おっかねえぞぉ」
ダンが控えめに玄関をノックする。
「夜分だからよ」
小声で若い衆を制した。
間もなく玄関が開き、
女将が姿を見せる。
「……なんだい。
雁首揃えて」
「ミリアは無事かい?」
「えぇ、お陰様でね。
迷惑かけたね」
「ところで……?」
女将の視線が、
岩ノ山を下から上へ流れた。
「ミリアの恩人だ」
オルガが、はっと息を呑む。
「悪かったね……。礼を言うよ」
深々と頭を下げられ、
岩ノ山もつられて頭を下げた。
「オルガ、悪ぃんだけどよ。
一晩、離れを貸してくれねぇか?」
ダンが若い衆へ視線を送る。
「こいつらも置いていくからよ」
オルガは
呆れたように若い衆を見る。
「残りものの始末が捗るわね」
「へへ、食えるならなんでも」
オルガはもう一度、
岩ノ山を見上げた。
「お客には残り物じゃないけどね」
若い衆が口を尖らせた。
「寝室を用意するから、
そこで掛けてらっしゃい」
「俺は帰るよ。また明朝に来る。
今日はもう休みなよ」
ダンは若い衆へ、いくつか言い含める。
それから手を振り帰っていった。
◇
岩ノ山は
カンテラの明かりを見つめる。
手で包んだカップから、
ゆらゆらと湯気が上る。
向かいに座る若い衆に目をやった。
しかし、
岩ノ山は口をつぐみ目を落とした。
やがて湯気が薄くなる頃、
煮込みの香りが漂ってきた。
まもなく、オルガが鍋を抱え戻る。
ことこと煮え立つ音がする。
「腹も減ってるだろ」
卓へ並べられたのは、
とろみのある豆と野菜のスープ、
黒パンだった。
「あんた、食いそうだもんね」
岩ノ山の器だけ、一回り大きい。
チーズも添えてある。
「ここのスープは美味ぇんだ」
若い衆が、さっそく
パンを浸して頬張り始める。
岩ノ山は静かに手を合わせる。
一度その手元へ目をやり、
パンを浸した。
「……美味い」
「だろ?」
若い衆が、にやりと笑う。
「初めて食べる味だ……」
匙を持つ指が白くなった。
幾分腹も膨れ、
注がれた白湯をすする。
湯が無くなる頃、
オルガが再び顔を出した。
「ほら、離れ使いな」
オルガは岩ノ山に燭台を手渡す。
若い衆がぞろぞろと立ち上がる。
岩ノ山は燭台を持ち後に続いた。
「床、抜くんじゃないよ」
誰へともなく投げられた声に、
若い衆が吹き出した。
若い衆は岩ノ山に目配せをする。
ダンの真似をして、
首を切る仕草を岩ノ山へ見せる。
岩ノ山は、困ったように眉を寄せた。
若い衆は笑いながら、
それぞれ寝床へ潜っていく。
岩ノ山も、静かに部屋へ入った。
少し大きめの、小綺麗な部屋だった。
二つの寝台が隙間なく並べられている。
寝台へ腰を下ろす。
一人で使うには広かった。
大きな手であおぎ、蝋燭の灯りを消す。
窓から星明かりが差す。
知らない星が見えた。
青白く瞬く。
やがて巨体は、
静かに横になった。
右手の痛みは引いていた。
離れの壁際には、
鍬や熊手が立てかけられている。
だがもう。
誰も、それを握ってはいなかった。
――この夜が。
僕たちと山神の、
最初の出会いだった。
◇
第一部 山神村編
第2話 へ続く




