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第4話 始動


領主館の執務室。


清瀬村の視察から戻って以来、セドウィックの机の上には、泥のついた羊皮紙の図面と報告書が並んでいた。


古木場の惨状、浚渫しゅんせつの要否、潰れた桟橋、老朽化した橋の脚。


材料となる山神村の木材と岩塩はある。


清瀬村には川がある。


「……できる」


セドウィックは羽ペンを握りしめたまま、低く呟いた。


だが、墨のついたペン先は、紙の上で静止したまま。


山を動かし、川を浚い、橋を架け直す。


だが、

具体的な端緒だけが見えなかった。


「……どこから、どう手をつければいい」


整然とした図面を前に、セドウィックは静かな壁にぶつかっていた。



大きなオーク材の会議卓に、男たちと女が集まっていた。


セドウィックの隣に立つエイラ。


胸ポケットから算盤を覗かせている商人の黒熊屋。


山神村の村長代理として腰を下ろしたダン。


竹の杖を膝の間に挟んだ清瀬村のヨダ爺。


そして、壁際に静かに佇む巨躯――岩ノ山。


セドウィックは、自身で整理した視察の報告と、流域整備に必要な要素を順に読み上げた。


「河川の土砂浚渫、古木場の桟橋打ち直し、橋脚の石工整備、木流しに必要な人手の確保、そして上下ノコを含めた製材所の修繕……」


セドウィックの声が途切れる。


書き連ねた文字の多さに、卓を囲む者たちの間に重い沈黙が落ちた。


「……どれも、欠かすことはできない。すべてが必要だ」


部屋の空気が沈む。


予算も、期間も、人員も、一領主の机上で処理できる規模を明らかに超えていた。


「若様」


静寂を破ったのは、黒熊屋の低い声だった。


彼は丸い顔に笑みを浮かべ、膝の上の算盤を指先で弾いた。パチン、と乾いた音が響く。


「……それを一度に、すべて若様お一人でなさるおつもりで?」


セドウィックは一瞬、言葉を詰まらせた。


「順番でございますよ」


黒熊屋は懐から広げた一枚の紙を卓の中央へ滑り込ませた。


そこには、数字と箇条書きの項目が、三つの欄に分けられて記されていた。


「今すぐ始めるべきこと。

 一年以内に揃えるもの」


「そして、その先の将来」


「……分けて考えれば、

 そう恐ろしい数字ではございません」


黒熊屋の指先が、卓の上の図面を静かに叩く。


「まず、物流と資材の調達、それに伴う他の商人どもとの調整は、当方が引き受けましょう。……金の手配も含めてです」


「……黒熊屋殿が」


驚くセドウィックを余所に、ダンが身を乗り出した。


「清瀬の製材所なら、グレンを連れて行って修繕させる。山神村からは、若い衆を何人か浚渫の人足として出せるはずだ」


「木場と川筋の再確認はワシの仕事じゃな」


ヨダ爺が竹の杖でコツンと床を叩いた。


「清瀬の若い小僧どもを絞り上げて、筏乗りの真似事くらいはできるようにしてやる。現場の調整は任せてもらおう」


「ベルグへは、私が戻ります」


エイラが静かに、だが迷いのない声で言った。


「この流域計画の全容を本国へ持ち帰り、海運と造船の協力、対外的な支援の打診を取り付けてまいります」


最後に、壁際に立っていた岩ノ山が、ゆっくりと一歩前に出た。


「……俺は、森のエルフを訪ねる」


セドウィックが息を呑む。


「エルフを……?」


岩ノ山は、セドウィックを一瞥し視線を落とした。


「向こうの森に入って、一緒に働く」


ゆっくりと、土を盛る様に手を動かす。


「……その後に、石工と製材に長けた難民ドワーフのところへ行く」


岩ノ山はセドウィックを真っ直ぐに見据えた。


「……彼らを知りに行く」


髷をふいと触り、窓の外に目を向けた。


「どう説得するかは、後から考えるさ」



セドウィックは、卓を囲む者たちの顔を順番に見つめた。


黒熊屋が算盤を弾き、ダンが指折り人足を数え、ヨダ爺が髭を蓄えた口元を歪め、エイラが羊皮紙をまとめ、岩ノ山が静かに拳を握りしめている。


彼らが勝手に動き始めたように見えた。

セドウィックだけが、自分の椅子から動けずにいる。


「……待ってください」


セドウィックの声に、全員の視線が集まった。


「そこまで……頼んでしまっていいのか。これは領主館が、私が立ち上げた事業だ。皆にそれほどの重荷を負わせるわけには――」


「若様」


黒熊屋が、ゆっくりと首を横に振った。


その顔から笑みが消えた。


「……それが、私どもの『仕事』でございます」


一人の商人の鋭い目がセドウィックを射抜く。


「もし若様が、資材の調達から現場の指図、交渉まで一人でなさるというなら……私共は何を売り、何のためにここにいるので?」


黒熊屋は算盤を懐に収めると、膝の上に両手を置いた。


「我々は慈善で動いているのではございません。この流域が潤い、人が行き交い、仕事が生まれることで……儲けさせていただきたいのです」


セドウィックは言葉を探した。


「しかし……」


そこへ、ダンが前へ歩み出る。


机に手をつき、頭を下げた。


「若様。どうか、我々に仕事をさせてくれ」


静寂が、執務室を包む。


ヨダ爺も、エイラも、岩ノ山も、黒熊屋も、誰もダンの言葉を否定しなかった。


セドウィックは静かに立ち上がると、卓を囲む一人ひとりの目をしっかりと見つめ返す。


ダンの肩に手添え、そっと頭を上げさせた。


そして、セドウィックは深く、深く頭を下げた。


「……お願いします」


全員の目線が地図の上で交わった。


セドウィックは小さく息をつく。


それを見届けると、

誰からともなく椅子を引く音がした。


「承りました」

黒熊屋が頭を下げた。


「ベルグへ参ります」

エイラが胸に手を当てた。


「ヨダ爺さま、村同士の話をまとめよう」

ダンがヨダ爺の肩を叩く。


「川を見てくる」

ヨダ爺が杖をついて歩き出す。


「……人を、見てくる」

岩ノ山が短く言い、静かに部屋を後にした。



全員が立ち去り、扉が静かに閉まった。


静まり返った執務室に、夕陽の光が深く差し込んでいる。


セドウィックは一人、机の前に残されていた。

広げられた大きな流域地図。


セドウィックは羽ペンを手に取ると、インク壺に深く浸した。

地図の空白へ、羽ペンを静かに走らせた。


それは、完成予想の橋の線でも、浚渫する川筋の線でもなかった。


『黒熊屋――資材・運送』

『ダン――製材・人足』

『ヨダ――木場・水路』

『エイラ・ベルグ――海運』

『岩ノ山――植林・石工』


地図の空白を埋めたのは、インフラの図形ではない。

この地で生き、役割を背負う、男たちと女の『名前』だった。


セドウィックは全員の名前を一度確認すると、

祈るように手を握り、そして開いた。


ペンをインクに浸すと、力強く走らせる。



『セドウィック・バレント――総責任』



橋は、まだない。


けれど流域はもう、

確かに繋がり始めていた。



第三部 流域編

第5話 につづく

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