第4話 始動
◇
領主館の執務室。
清瀬村の視察から戻って以来、セドウィックの机の上には、泥のついた羊皮紙の図面と報告書が並んでいた。
古木場の惨状、浚渫の要否、潰れた桟橋、老朽化した橋の脚。
材料となる山神村の木材と岩塩はある。
清瀬村には川がある。
「……できる」
セドウィックは羽ペンを握りしめたまま、低く呟いた。
だが、墨のついたペン先は、紙の上で静止したまま。
山を動かし、川を浚い、橋を架け直す。
だが、
具体的な端緒だけが見えなかった。
「……どこから、どう手をつければいい」
整然とした図面を前に、セドウィックは静かな壁にぶつかっていた。
◇
大きなオーク材の会議卓に、男たちと女が集まっていた。
セドウィックの隣に立つエイラ。
胸ポケットから算盤を覗かせている商人の黒熊屋。
山神村の村長代理として腰を下ろしたダン。
竹の杖を膝の間に挟んだ清瀬村のヨダ爺。
そして、壁際に静かに佇む巨躯――岩ノ山。
セドウィックは、自身で整理した視察の報告と、流域整備に必要な要素を順に読み上げた。
「河川の土砂浚渫、古木場の桟橋打ち直し、橋脚の石工整備、木流しに必要な人手の確保、そして上下ノコを含めた製材所の修繕……」
セドウィックの声が途切れる。
書き連ねた文字の多さに、卓を囲む者たちの間に重い沈黙が落ちた。
「……どれも、欠かすことはできない。すべてが必要だ」
部屋の空気が沈む。
予算も、期間も、人員も、一領主の机上で処理できる規模を明らかに超えていた。
「若様」
静寂を破ったのは、黒熊屋の低い声だった。
彼は丸い顔に笑みを浮かべ、膝の上の算盤を指先で弾いた。パチン、と乾いた音が響く。
「……それを一度に、すべて若様お一人でなさるおつもりで?」
セドウィックは一瞬、言葉を詰まらせた。
「順番でございますよ」
黒熊屋は懐から広げた一枚の紙を卓の中央へ滑り込ませた。
そこには、数字と箇条書きの項目が、三つの欄に分けられて記されていた。
「今すぐ始めるべきこと。
一年以内に揃えるもの」
「そして、その先の将来」
「……分けて考えれば、
そう恐ろしい数字ではございません」
黒熊屋の指先が、卓の上の図面を静かに叩く。
「まず、物流と資材の調達、それに伴う他の商人どもとの調整は、当方が引き受けましょう。……金の手配も含めてです」
「……黒熊屋殿が」
驚くセドウィックを余所に、ダンが身を乗り出した。
「清瀬の製材所なら、グレンを連れて行って修繕させる。山神村からは、若い衆を何人か浚渫の人足として出せるはずだ」
「木場と川筋の再確認はワシの仕事じゃな」
ヨダ爺が竹の杖でコツンと床を叩いた。
「清瀬の若い小僧どもを絞り上げて、筏乗りの真似事くらいはできるようにしてやる。現場の調整は任せてもらおう」
「ベルグへは、私が戻ります」
エイラが静かに、だが迷いのない声で言った。
「この流域計画の全容を本国へ持ち帰り、海運と造船の協力、対外的な支援の打診を取り付けてまいります」
最後に、壁際に立っていた岩ノ山が、ゆっくりと一歩前に出た。
「……俺は、森のエルフを訪ねる」
セドウィックが息を呑む。
「エルフを……?」
岩ノ山は、セドウィックを一瞥し視線を落とした。
「向こうの森に入って、一緒に働く」
ゆっくりと、土を盛る様に手を動かす。
「……その後に、石工と製材に長けた難民ドワーフのところへ行く」
岩ノ山はセドウィックを真っ直ぐに見据えた。
「……彼らを知りに行く」
髷をふいと触り、窓の外に目を向けた。
「どう説得するかは、後から考えるさ」
◇
セドウィックは、卓を囲む者たちの顔を順番に見つめた。
黒熊屋が算盤を弾き、ダンが指折り人足を数え、ヨダ爺が髭を蓄えた口元を歪め、エイラが羊皮紙をまとめ、岩ノ山が静かに拳を握りしめている。
彼らが勝手に動き始めたように見えた。
セドウィックだけが、自分の椅子から動けずにいる。
「……待ってください」
セドウィックの声に、全員の視線が集まった。
「そこまで……頼んでしまっていいのか。これは領主館が、私が立ち上げた事業だ。皆にそれほどの重荷を負わせるわけには――」
「若様」
黒熊屋が、ゆっくりと首を横に振った。
その顔から笑みが消えた。
「……それが、私どもの『仕事』でございます」
一人の商人の鋭い目がセドウィックを射抜く。
「もし若様が、資材の調達から現場の指図、交渉まで一人でなさるというなら……私共は何を売り、何のためにここにいるので?」
黒熊屋は算盤を懐に収めると、膝の上に両手を置いた。
「我々は慈善で動いているのではございません。この流域が潤い、人が行き交い、仕事が生まれることで……儲けさせていただきたいのです」
セドウィックは言葉を探した。
「しかし……」
そこへ、ダンが前へ歩み出る。
机に手をつき、頭を下げた。
「若様。どうか、我々に仕事をさせてくれ」
静寂が、執務室を包む。
ヨダ爺も、エイラも、岩ノ山も、黒熊屋も、誰もダンの言葉を否定しなかった。
セドウィックは静かに立ち上がると、卓を囲む一人ひとりの目をしっかりと見つめ返す。
ダンの肩に手添え、そっと頭を上げさせた。
そして、セドウィックは深く、深く頭を下げた。
「……お願いします」
全員の目線が地図の上で交わった。
セドウィックは小さく息をつく。
それを見届けると、
誰からともなく椅子を引く音がした。
「承りました」
黒熊屋が頭を下げた。
「ベルグへ参ります」
エイラが胸に手を当てた。
「ヨダ爺さま、村同士の話をまとめよう」
ダンがヨダ爺の肩を叩く。
「川を見てくる」
ヨダ爺が杖をついて歩き出す。
「……人を、見てくる」
岩ノ山が短く言い、静かに部屋を後にした。
◇
全員が立ち去り、扉が静かに閉まった。
静まり返った執務室に、夕陽の光が深く差し込んでいる。
セドウィックは一人、机の前に残されていた。
広げられた大きな流域地図。
セドウィックは羽ペンを手に取ると、インク壺に深く浸した。
地図の空白へ、羽ペンを静かに走らせた。
それは、完成予想の橋の線でも、浚渫する川筋の線でもなかった。
『黒熊屋――資材・運送』
『ダン――製材・人足』
『ヨダ――木場・水路』
『エイラ・ベルグ――海運』
『岩ノ山――植林・石工』
地図の空白を埋めたのは、インフラの図形ではない。
この地で生き、役割を背負う、男たちと女の『名前』だった。
セドウィックは全員の名前を一度確認すると、
祈るように手を握り、そして開いた。
ペンをインクに浸すと、力強く走らせる。
『セドウィック・バレント――総責任』
橋は、まだない。
けれど流域はもう、
確かに繋がり始めていた。
◇
第三部 流域編
第5話 につづく




