第3話 川の記憶
◇
領都のセドウィックから手紙が届いたのは、三日前のことだった。
先日の山神村視察に対する几帳面な礼の言葉。そして末尾に、ただ一文だけ、滑らかなインクでこう記されていた。
『清瀬村の古木場を見てきてほしい』
手紙の理由は、それ以上何も語られていなかった。
旧街道の緩やかな坂を下っていく大荷車――山神号の荷台で、ヤール婆は深く被った被り物の下から静かに前方の山並みを見つめていた。
その隣で、リクが木彫りのコマを掌の中でくるくると回す。
「ねえ、ヤマさん。 清瀬に着いたら、友達と遊んできていい?」
山神号を引く岩ノ山は、振り返らずに短く「おう」と応えた。
荷台では山神村の岩塩の袋と、山味噌の入った壺が揺れる。
街道の木々が左右に開け、一気に視界が広がった。
川が育てた平地が広がり、水辺に家々が並ぶ。
畑のあいだを縫うように、張り巡らされた水路が光を反射していた。
―—— 清瀬村だった。
巨大な水車が、ゴト……ゴト……と重い音を立てて水を汲み上げている。
広々とした大麦とライ麦の畑が、秋の風にそよいでいた。
岩ノ山が、初めて見る水辺の村の広がりに小さく息を飲んだ。
「あれが、清瀬じゃ」
ヤール婆が、ひび割れた声でぽつりと言った。
◇
村に入ると、すぐに甘い小麦と蜜の匂いが漂ってきた。
山神村よりもどこか賑やかで、風の流れが緩やかだった。
「えっとえっと、 塩と味噌はエマさんの実家に言づてしてくる」
「帰る頃には戻るから!」
村の入口で山神号が止まるやいなや、リクはコマを鳴らして駆けていった。
「おーい! グレンからの言いつけ守れよ」
岩ノ山の太い声がリクの背中を追いかける。
「分かってるー! 水車も見てくるよ!」
リクは振り返らずに手だけ振って答えた。
岩ノ山とヤール婆は、静かに山神号を繋ぎ、村の奥へと歩き出した。
「おいおい、山神の古い雌タヌキじゃねえか」
水路に架かる太い板橋の向こうから、小柄な老人が歩いてきた。
清瀬村の村長、ヨダ爺だった。
手に竹の杖をつき、日焼けした顔に深く皺を刻んでいる。
ヤール婆は足を止め、鼻で短く笑った。
「ふん。川に落ちてばかりの濡れネズミめ。拭く方の身になってみい」
「ぬかせ。魚焦がしてばかりのくせに。苦くてかなわん」
「岩ノ山。 この爺が巣箱ひっくり返して泣いておった、蜂蜜名人じゃ」
岩ノ山は目を丸くしたが、すれ違う村人たちは、苦笑いを浮かべながら通り過ぎていく。
ヨダ爺は一通り文句を言い終えると、岩ノ山の巨躯を見上げ、目を細めた。
「……セドウィック様の文は、届いておるな?」
「ああ」とヤール婆。
「……行くか」
ヨダ爺は背を向け、杖をコン、コンと鳴らして歩き出した。
◇
村の外れ、水路の流れが川本流へと合流する静かな入り江に、古木場はあった。
道すがら、水辺にひっそりと佇む小さな石づくりの祠があった。
「ほれ、でかいの。水神さまに挨拶しとけ」
三人は祠に深く一礼して通り過ぎた。
古木場は、完全に死んでいた。
かつて伐り出された巨木を蓄え、筏を組んでいたであろう広い水面は、泥と腐った落ち葉で黒く濁っていた。
打ち込まれた木杭には青苔がこびりつき、水面に突き出た桟橋の木材はなかば腐り落ちて歪んでいる。
鳥の水浴びする音だけが、静まり返った木場に響く。
ヨダ爺が、腐りかけた桟橋の縁に杖を突き立てた。
「川からの注ぎ口は、土砂が溜まって浅くなっとる」
少し歩き、歪んだ杭を蹴る。
もろり、と杭が折れ落ちた。
「桟橋も全部打ち直しじゃ」
さらに奥へ進み、水面を見つめる。
「……一番足らんのは」
ヨダ爺が、泥に半分埋まった古い丸太を杖で突く。
「筏頭じゃ」
「川の流れを読んで、一本の木に命を預けられる者が、この村にはもうおらん」
ヤール婆は、静かに頷いた。
「それでも……」
ヨダ爺が折れた杭を木場に投げ入れる。
ドポンと飛沫を上げて杭が沈む。
……ぷかり、と杭が水面に浮かんだ。
「……使えん訳では、ないな」
◇
「リクー!」
村の広場で、清瀬村の子供たちとコマを回していたリクのもとへ、三人の若い男たちが歩いてきた。
汗を吸った麻の作業着を着た、体つきのいい村の若者たちだった。
「山神さまが来てるって、本当か?」
リクは手に乗せたコマを回しながら、首をかしげた。
「山神さま? ……ああ、ヤマさんのこと? 来てるよ」
友達の少年が、目を輝かせて若者たちを見上げる。
「見に行こうよ! 塩を領都まで運んだって本当なんだろ?」
広場の端に停められた山神号へ、皆の視線が向いた。
若者の一人が身震いをした。
「川の方へ歩いて行ったよ。一緒に行く?」
リクが立ち上がると、少年が「古木場か」と眉をひそめた。
「あそこは危ねえから近寄るなって、父ちゃんに言われてる……」
「僕も坑道はうろつくなーって怒られるよ」とリク。
「でもあそこ、実は大きな川エビが捕れるんだよ」
少年は鼻を掻きながら言った。
「よく知ってるな」と若者が答える。
「俺たちも泥だらけになって捕ったな。 ……よし、久々に見てくるか」
何気ない雑談を交わしながら、子供たちと若者たちは古木場へと向かってゾロゾロと歩き出した。
◇
木場の泥を足元で踏みしめていた若者たちが、立ち尽くす岩ノ山の背中を見つけて足を止めた。
「……でけぇ」
若者たちは顔を見合わせたが、それでも一人が鼻で笑ってみせた。
「……へん。向こうは一人だろ。 こっちは戦帰りが三人居るんだ、 後れは取らねえよ」
その声を聞きつけ、ヨダ爺が振り向いた。
「なにが後れを取らねえじゃ、 威勢だけはいい青瓢箪どもめ」
ヨダ爺はニッと歪んだ口元で笑うと、足元の太い棒きれを拾い上げ、若者たちへ放り投げた。
「おい、小僧ども!筏乗り(いかだのり)の棒の持ち方を教えてやる。全員こっちへ来い!」
「えっ、筏なんてやったこと……」
「なんだ、清瀬村の者は威勢だけか」
岩ノ山が横目で若者たちをみる。
「なにを!見ときやがれ!」
「山神村の奴に負けられっかよ!」
若者たちが岩ノ山の横をドカドカと歩きぬける。
ヨダ爺と岩ノ山は視線をかわしてにやりと笑った。
「川の水を吸った木がどんだけ重いか、その身体で覚えていけ!」
静まり返っていた古木場に、老人の怒声と、若者たちの戸惑う威勢のいい声が響き始めた。
岩ノ山も声を上げて捲し立てる。
「どうした!腰が高いぞ!」
その様子をみて、リクは珍しく口をへの字にする。
「ヤマさん、村ではこんなに声出さないのに」
ヤール婆は一歩リクに歩み寄る。
「……そうじゃな」
それだけ言うと静かに木場を見つめていた。
◇
日が傾きかけたころ。
リクが、荷台に積まれた清瀬の蜂蜜の壺に幌を掛ける。腰の袋からは、清瀬の若者からもらった新しい木コマが覗いている。
「楽しかった!」
満足そうなリクを山神号に乗せ、三人は茜色に染まる街道を山神村へと引き返した。
山神村に着く頃には、完全に日が落ちていた。
村外れの工房の灯りの下で、グレンが一人、鎌の刃を研いでいた。
山神号の音に気づき、顔を上げる。
「……水車は見てきたか、リク」
荷台から跳び下りたリクが、息を切らせて駆け寄ってきた。
「うん。すごい勢いでぐるぐる回って、粉を挽いてた」
リクは手振り身振りを交えて話し、ふと思い出したように首をかしげた。
「あ。あとね、『上下ノコ(じょうげのこ)』っていう大きな機械があったよ。壊れてたけど。」
シャリ、と研ぎ石を滑らせていたグレンの手が止まった。
「……何と言った」
「じょうげのこ。鋸が二枚、縦についてて――」
グレンは研ぎかけの鎌を作業台に置き、リクへ向き直った。
「形は。鉄の厚みは。歯の目は」
「……グレンが好きそうなものを、見つけてきたな」
岩ノ山の声は届いていない。
グレンは地面に描かれた歪な絵に屈み込み、
鋸の構造を語る小さな声に耳を傾け続けていた。
第三部 流域編
第4話 につづく




