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第2話 一本の川


領主館の執務室。


窓の外の領都はまだ眠りの中にある。


部屋の中央、大きなオーク材の机の前に、次期領主、セドウィックはただ一人腰を下ろしていた。


彼は無言のまま、足を一歩前に出す。


山神村の泥を吸い、街道の埃を浴びて帰ってきた上等な乗馬ブーツ。


その側面には、乾いた泥が白くひび割れてこびりついていた。


机の引き出しから、使い古された鉄のヘラを取り出す。


コリ……。

コリ……。


剥がれ落ちた泥が、音もなく床へ落ちていく。


やがて両方のブーツを脱ぎ捨てると、彼は硬い木床の上に、裸足を下ろす。


冷たい。


山神村の土とは違う温度だった。



控えめなノックの音が、扉を叩いた。


「入れ」


セドウィックが短く応じると、静かに扉が開いた。


「失礼します」


入ってきたのは、古びた書類箱を抱えた女性。


エイラ・ベルグだった。


隣領ベルグからの行政官だ。


床に転がった泥だらけのブーツに、一度だけ視線を向けた。


「……っと。失礼」


セドウィックは素足を机の下に隠した。


「お戻りだったのですね」


エイラは抱えていた木箱を、机の端へ静かに置いた。


「ご依頼のありました資料です。

 書庫の地階に残っていました」


セドウィックが木箱に視線を落とす。


「ありがとうございます」


エイラは執務机に灯る長い蝋燭を見た。


「お渡しは明日にしたかったのですが……」


箱に手を伸ばすセドウィックに、エイラの小さな声は聞こえていないようだった。


「……。

 早めにお休みになりますよう」


エイラはそれだけを告げ、深く一礼する。


足音も立てず、部屋を出ていった。



セドウィックは木箱に手を伸ばし、一番上にあった分厚い羊皮紙を引き抜いた。


部屋の隅の蝋燭に火を灯し、机の上に広げる。


紙が擦れるカサリという音が響いた。


広げられた記録は不揃いだった。


あるものは良質なインクで美しい筆記体が躍り、あるものは粗悪な炭色のインクが滲んでいる。


虫食いの穴からは、下の机の木目が覗いていた。


セドウィックは羽ペンをインクに浸すこともせず、ただ両手でそれらの紙を並べ替え始めた。


日付の記載を探す。


かすれた数字、あるいは古い暦の記述を拾い上げる。


頭の中で、そして机の上で、時間を古い順へと並べる。


カサリ。カサリ。


紙を動かすたび、セドウィックの指先が、古い煤とインクで黒く染まる。


蝋燭の炎が爆ぜ、少しずつ芯を短くしていく。


窓の外は、未だ濃い藍色のままであった。



一枚の、かなり大振りの紙に、セドウィックの指が止まった。


三十年前の「川普請かわぶしん


――つまり、河川の維持工事の記録である。


『山神村 二十七名』

清瀬きよせ村 二十九名』

『筏頭 三名』


セドウィックが、その数字を凝視する。


石を運び、杭を打ち、川底をさらうために集められた人数だった。


別の紙を隣に置く。


十年前の煤けた紙。

『山神村 十七名』

『清瀬村 二十名』

『筏頭 一名』


そして、去年の徴税の副申書。

『山神村 十名』

『清瀬村 十名』


セドウィックの手が、完全に止まった。


部屋の中を、蝋燭の芯が燃える小さな音だけが満たす。


セドウィックはゆっくりと息を吐き、椅子の背にもたれかかった。


彼の視線は、机の上の数字に釘付けのままだった。



セドウィックは

再び木箱に手を入れ、探る。


その一番底から、厚手の布地に似た紙を引っ張り出した。


何度も折り畳まれ、角が丸く擦り切れた、一枚の古い地図だった。


机の上の書類を脇へ押し除け、それを大きく広げる。


それは現在の行政地図ではなかった。


古い時代の「人の流れ」が描かれている。


山々は墨で大きく描かれ、川は一本の太い線でうねるように流れている。


川の起点に近い場所に「山神」の文字がある。


そこから下流へ向かって、「清瀬」も含め、いくつか集落の印が打たれている。


さらに下ると湖畔の「領都」。


そしてその先には、隣領である「ベルグ」の文字が太々と書かれていた。


セドウィックの指は、その川筋をゆっくりとなぞった。



地図をなぞった指が川の起点まで遡る。


「山神」


ふと、セドウィックは無意識に、自分の右の掌を左手で擦った。


書類をめくり続けたため、インクの染みが幾筋もこびりついている。


彼は自分の掌を見つめる。


右の掌を虚空に伸ばす。


その指が、何かを掴むように閉じた。


セドウィックはゆっくりと手を下ろし、再び地図へと視線を戻した。



セドウィックは右手で羽ペンを取り上げる。


インクを深く浸す。


彼は地図の最も上流、山神村の印の少し上にペンの先を置いた。


そこから、一本の線をなぞり始める。


山神村。


そこから川は下り、かつての集落跡を通り、清瀬村を抜ける。


線はさらに走り、セドウィックが今いるこの「領都」の足元を掠め、そしてそのまま、領地の境を越えて「ベルグ領」の中央へと流れ込んでいく。


セドウィックはペンの先を離した。


地図の上には、黒々とした、一本の「水の道」が走っていた。


窓の外から、かすかに鳥の鳴き声が聞こえ始めた。


藍色だった闇が、急速に薄い灰色へと溶けていく。


ゴーン、と。


領都の中央大聖堂の鐘が、朝の訪れを告げる重い音を響かせた。



遠くの下街から、市場の荷車が石畳を叩く硬い音、そして行き交う人々の微かな喧騒が、開いた窓の隙間から滑り込んでくる。


コンコンコン、と。

少し高めのノックの音が響いた。


「失礼します」


静かな声と共に扉が開く。

手には朝議の資料と思しき束を抱えている。


「おはよう、エイラ」


セドウィックが椅子にもたれて、背を伸ばしながら言う。


エイラは一歩踏み込んだが、その足をわずかに止めた。


彼女の視線が、室内を捉える。


「……やはり、お休みになっておられなかったのですか、セド」


セドウィックは椅子の背から身体を起こし、机の上の古い地図を、彼女の方へと軽く押し出した。


エイラは無言のまま机に近づき、視線を地図へと落とした。


セドウィックが引いた黒いインクの線を見る。


山神村から始まり、領都を抜け、彼女の故郷であるベルグ領へと突き抜けているその流れを。


エイラの眉が、ほんのわずかに動く。


「……こちら(ベルグ領)にも、深く関わるお話ですね」


「ええ」


セドウィックは黒く汚れた手を机の上で組み、彼女をまっすぐに見つめた。


「力を貸してください、エイラ」


エイラは表情を変えないまま、静かに、深く首を縦に振った。


「承知いたしました」


セドウィックの表情が緩む。


エイラは息をつき言葉を続けた。


「……まもなく、朝議のお時間です。


 顔を洗って来られては?若様」


セドは思わず自分の頬に手をやりかけ、黒く染まった指先を見て苦笑した。


それを見たエイラの表情も緩んだ。


二人の足音が廊下の向こうへと消え、重い扉がカタンと静かに閉まった。


東の窓から差し込み始めた鮮烈な朝の光が、机の上を貫く一本の黒い水脈を、ただ静かに照らしていた。



第三部 流域編

第3話 につづく

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