第2話 一本の川
◇
領主館の執務室。
窓の外の領都はまだ眠りの中にある。
部屋の中央、大きなオーク材の机の前に、次期領主、セドウィックはただ一人腰を下ろしていた。
彼は無言のまま、足を一歩前に出す。
山神村の泥を吸い、街道の埃を浴びて帰ってきた上等な乗馬ブーツ。
その側面には、乾いた泥が白くひび割れてこびりついていた。
机の引き出しから、使い古された鉄のヘラを取り出す。
コリ……。
コリ……。
剥がれ落ちた泥が、音もなく床へ落ちていく。
やがて両方のブーツを脱ぎ捨てると、彼は硬い木床の上に、裸足を下ろす。
冷たい。
山神村の土とは違う温度だった。
◇
控えめなノックの音が、扉を叩いた。
「入れ」
セドウィックが短く応じると、静かに扉が開いた。
「失礼します」
入ってきたのは、古びた書類箱を抱えた女性。
エイラ・ベルグだった。
隣領ベルグからの行政官だ。
床に転がった泥だらけのブーツに、一度だけ視線を向けた。
「……っと。失礼」
セドウィックは素足を机の下に隠した。
「お戻りだったのですね」
エイラは抱えていた木箱を、机の端へ静かに置いた。
「ご依頼のありました資料です。
書庫の地階に残っていました」
セドウィックが木箱に視線を落とす。
「ありがとうございます」
エイラは執務机に灯る長い蝋燭を見た。
「お渡しは明日にしたかったのですが……」
箱に手を伸ばすセドウィックに、エイラの小さな声は聞こえていないようだった。
「……。
早めにお休みになりますよう」
エイラはそれだけを告げ、深く一礼する。
足音も立てず、部屋を出ていった。
◇
セドウィックは木箱に手を伸ばし、一番上にあった分厚い羊皮紙を引き抜いた。
部屋の隅の蝋燭に火を灯し、机の上に広げる。
紙が擦れるカサリという音が響いた。
広げられた記録は不揃いだった。
あるものは良質なインクで美しい筆記体が躍り、あるものは粗悪な炭色のインクが滲んでいる。
虫食いの穴からは、下の机の木目が覗いていた。
セドウィックは羽ペンをインクに浸すこともせず、ただ両手でそれらの紙を並べ替え始めた。
日付の記載を探す。
かすれた数字、あるいは古い暦の記述を拾い上げる。
頭の中で、そして机の上で、時間を古い順へと並べる。
カサリ。カサリ。
紙を動かすたび、セドウィックの指先が、古い煤とインクで黒く染まる。
蝋燭の炎が爆ぜ、少しずつ芯を短くしていく。
窓の外は、未だ濃い藍色のままであった。
◇
一枚の、かなり大振りの紙に、セドウィックの指が止まった。
三十年前の「川普請」
――つまり、河川の維持工事の記録である。
『山神村 二十七名』
『清瀬村 二十九名』
『筏頭 三名』
セドウィックが、その数字を凝視する。
石を運び、杭を打ち、川底をさらうために集められた人数だった。
別の紙を隣に置く。
十年前の煤けた紙。
『山神村 十七名』
『清瀬村 二十名』
『筏頭 一名』
そして、去年の徴税の副申書。
『山神村 十名』
『清瀬村 十名』
セドウィックの手が、完全に止まった。
部屋の中を、蝋燭の芯が燃える小さな音だけが満たす。
セドウィックはゆっくりと息を吐き、椅子の背にもたれかかった。
彼の視線は、机の上の数字に釘付けのままだった。
◇
セドウィックは
再び木箱に手を入れ、探る。
その一番底から、厚手の布地に似た紙を引っ張り出した。
何度も折り畳まれ、角が丸く擦り切れた、一枚の古い地図だった。
机の上の書類を脇へ押し除け、それを大きく広げる。
それは現在の行政地図ではなかった。
古い時代の「人の流れ」が描かれている。
山々は墨で大きく描かれ、川は一本の太い線でうねるように流れている。
川の起点に近い場所に「山神」の文字がある。
そこから下流へ向かって、「清瀬」も含め、いくつか集落の印が打たれている。
さらに下ると湖畔の「領都」。
そしてその先には、隣領である「ベルグ」の文字が太々と書かれていた。
セドウィックの指は、その川筋をゆっくりとなぞった。
◇
地図をなぞった指が川の起点まで遡る。
「山神」
ふと、セドウィックは無意識に、自分の右の掌を左手で擦った。
書類をめくり続けたため、インクの染みが幾筋もこびりついている。
彼は自分の掌を見つめる。
右の掌を虚空に伸ばす。
その指が、何かを掴むように閉じた。
セドウィックはゆっくりと手を下ろし、再び地図へと視線を戻した。
◇
セドウィックは右手で羽ペンを取り上げる。
インクを深く浸す。
彼は地図の最も上流、山神村の印の少し上にペンの先を置いた。
そこから、一本の線をなぞり始める。
山神村。
そこから川は下り、かつての集落跡を通り、清瀬村を抜ける。
線はさらに走り、セドウィックが今いるこの「領都」の足元を掠め、そしてそのまま、領地の境を越えて「ベルグ領」の中央へと流れ込んでいく。
セドウィックはペンの先を離した。
地図の上には、黒々とした、一本の「水の道」が走っていた。
窓の外から、かすかに鳥の鳴き声が聞こえ始めた。
藍色だった闇が、急速に薄い灰色へと溶けていく。
ゴーン、と。
領都の中央大聖堂の鐘が、朝の訪れを告げる重い音を響かせた。
◇
遠くの下街から、市場の荷車が石畳を叩く硬い音、そして行き交う人々の微かな喧騒が、開いた窓の隙間から滑り込んでくる。
コンコンコン、と。
少し高めのノックの音が響いた。
「失礼します」
静かな声と共に扉が開く。
手には朝議の資料と思しき束を抱えている。
「おはよう、エイラ」
セドウィックが椅子にもたれて、背を伸ばしながら言う。
エイラは一歩踏み込んだが、その足をわずかに止めた。
彼女の視線が、室内を捉える。
「……やはり、お休みになっておられなかったのですか、セド」
セドウィックは椅子の背から身体を起こし、机の上の古い地図を、彼女の方へと軽く押し出した。
エイラは無言のまま机に近づき、視線を地図へと落とした。
セドウィックが引いた黒いインクの線を見る。
山神村から始まり、領都を抜け、彼女の故郷であるベルグ領へと突き抜けているその流れを。
エイラの眉が、ほんのわずかに動く。
「……こちら(ベルグ領)にも、深く関わるお話ですね」
「ええ」
セドウィックは黒く汚れた手を机の上で組み、彼女をまっすぐに見つめた。
「力を貸してください、エイラ」
エイラは表情を変えないまま、静かに、深く首を縦に振った。
「承知いたしました」
セドウィックの表情が緩む。
エイラは息をつき言葉を続けた。
「……まもなく、朝議のお時間です。
顔を洗って来られては?若様」
セドは思わず自分の頬に手をやりかけ、黒く染まった指先を見て苦笑した。
それを見たエイラの表情も緩んだ。
二人の足音が廊下の向こうへと消え、重い扉がカタンと静かに閉まった。
東の窓から差し込み始めた鮮烈な朝の光が、机の上を貫く一本の黒い水脈を、ただ静かに照らしていた。
◇
第三部 流域編
第3話 につづく




