第1話 今日はココがやる
◇
それは、なんの脈絡もない、秋の晴れた朝のことだった。
まだ薄暗い部屋でパチッと目を覚ました。
窓の外からは、朝を告げる鳥の声が聞こえる。
まだ宿も動き出していない。
小さな胸の中に、ふつふつと、ある決意が湧き上がってきた。
(今日は、ココが一人でぜんぶやる!)
昨日誰かに怒られたわけでも、意地悪を言われたわけでもない。
ただ、領都から帰ってきたリクたちの顔が、どこか少し大人っぽく見えたからかもしれない。
昨日やってきた若様というお兄ちゃんが、なんだか難しそうな顔をしていたからかもしれない。
ココは、今日という一日を、自分の力だけで「お手伝い」してみせたかった。
ベッドから飛び起きると、いつもオルガの予備のエプロンを引っ張り出してきた。
もちろん、ココの小さな体には大きすぎる。
裾は床を引きずるし、紐を後ろで回すことなんてできない。
「よい、しょっ」
顔を真っ赤にしながら、お腹の前でエプロンの紐をぎゅうぎゅうと引っ張る。
とにかく解けないように、力任せに「固結び」を二つ重ねた。
エプロンを引きずりながら、小さな大作戦が始まった。
◇
「……ココ、何してるんだい?」
厨房に下りてきたオルガは、腰に手を当てて目を丸くした。
まだ火も入っていない薄暗い食堂で、ココが自分よりも遥かに大きなホウキと「格闘」していたからだ。
「 お掃除はココがやる!」
エプロンの裾を踏んづけてよろけながらも、ココは箒を振り回す。
バサバサ、と大きな音が鳴るだけで、床の埃はちっとも片付かない。
それどころか、箒の柄が長すぎて、長机の脚にガンガンとぶつかっている。
「ふうん……。じゃあ、任せるね」
オルガはそれ以上は何も言わずに厨房へ引っ込んだ。
続いて、朝の荷下ろしの前に食堂へ入ってきた岩ノ山が、入り口でピタリと足を止めた。
ココは今、宿の裏手にある井戸端で、朝食に使った皿洗いに挑んでいた。
踏み台に乗って、冷たい水に小さな手を突っ込んでいる。
だが、何しろ力の加減が分からない。
木の桶に皿を叩きつけるようにして洗い、柄杓で水をすくっては、派手に周囲へぶち撒けていた。
すでにココのエプロンは、胸から裾まで水浸しで色が変わっている。前髪も水飛沫で額に張り付いていた。
岩ノ山は無言でその光景を見つめる。
それから厨房のオルガと視線を合わせた。
オルガは首を横に振り、口元に指を一本立てる。
岩ノ山は、短く鼻を鳴らすと、気配を消して大荷車の手入れへと向かった。
畑へ向かうダンも、工房へ向かうグレンも、井戸端で水浸しになりながら「ふん、ふん」と息を荒げて皿をこする小さな背中を、遠巻きに、しかし温かい眼差しで見守りながら、静かに通り過ぎていった。
◇
お昼が過ぎる頃、ココの「ぜんぶ一人でやる」作戦は、最初の、そして最大の壁にぶち当たっていた。
村の小さな子供たちを集めて、おやつの時間を仕切ろうとした時のことだ。
「みんな、ちゃんとならんで! ココが順番にくばるから!」
ココは干しブドウの入った器を抱え、一生懸命に声を張り上げた。
だが、下の子たちはちっとも言うことを聞かない。
「わーい!」
「ブドウだブドウだ!」
ならぶどころか、器に一斉に手を伸ばし、我先にとブドウを掴んで走り去ってしまう。
「あ、待って! まだダメって言ったのに!」
あっという間に器は空っぽになり、広場にはココだけが取り残された。
踏み荒らされた土の上に、エプロンを泥だらけにしたココがぽつんと立っている。
上手くいかない。
喉の奥が、ぎゅうっと熱くなった。
今すぐオルガのところに駆け込みたかった。
母の脚にしがみつきたい。
ぐっと唇を噛み締める。
「泣かないもん……」
それでも、胸の中のしょんぼりとした気持ちはどうしようもなくて、ココは重い足取りで、村の隅っこへと歩いていった。
誰の目にもつかない、古い木箱の裏。
そこで膝に頭をうずめて座った。
◇
どのくらい、そうしていたときだろう。
「プイ、プイー」
小さな鼻鳴らしがすぐ近くで聞こえた。
ココがパッと顔を上げると、木箱の隙間から、もこもことした白い毛並みが覗いていた。
「あ……! 毛ウサギ!」
リク兄が懸命に街から連れてきたウサギ。
どうやら囲いの隙間から、一羽だけ逃げ出してしまったらしい。
ウサギは、ココの姿を見ると、驚いたようにピョンと跳ねて草むらの奥へと逃げ出した。
「待って! ダメだよ、そっちはお山だよ!」
しょんぼりしていた気持ちなんて、一瞬で吹き飛んだ。
ココは夢中でウサギの後を追いかける。
ウサギは切り株の裏へ、茂みの奥へと逃げ回る。
ココは何度も泥に足を滑らせ、エプロンの紐を踏んづけそうになりながらも、必死に手を伸ばす。
「おねがい、止まって……!」
ウサギが大きな岩の前に追い詰められ、一瞬だけ動きを止めた。
ココは地面に飛び込むようにして、その白い体を両手でそっと抱きすくめた。
「……つかまえたっ!」
腕の中で、ウサギの小さな心臓がトクトクと速い速さで打っている。
ココは息を切らしながらも、ウサギを驚かせないように、優しく、優しくその背中を撫でた。
「大丈夫だよ。怖くないよ」
自分がいつもオルガにしてもらうように、声をかけてあげる。
ウサギはしばらく鼻をひくつかせていたが、やがて安心したように、ココの腕の中で丸くなった。
◇
ココは村の広場へと続く帰り道を歩いていた。
体中、泥と水と草の葉だらけ。エプロンの固結びは、もう泥で真っ黒になっていた。
腕には丸まって眠る毛うさぎ。
坂を登りきったところで、前方から二つの大きな影が歩いてくるのが見えた。
オルガと、岩ノ山だった。
「ココ……!」
オルガが駆け寄ろうとして、ココの腕の中にある白い塊に気づき、足を止めた。
岩ノ山も、目をわずかに見開いている。
「これ……ちゃんとつかまえたの」
ココは少し誇らしげに、でも少し不安そうに、ウサギを見せた。
オルガは一瞬、呆れたような顔をしたが、すぐにその表情を柔らかい笑みに変えた。
ゆっくりと近づくと、ココの頭を優しく、何度も撫でまわした。
「この子が山へ逃げ出したら、狐に食べられちゃうところだったよ。ありがとうね」
「え。……ありがとう」
ココは鼻を小さく鳴らした。
また喉の奥が、ぎゅうっと熱くなる。
でも、今度は痛くなかった
岩ノ山が、ゆっくりと腰を落とした。
ココの目線に合わせて、その大きな、熊のような手を差し出す。
「よく頑張った、えらいぞ」
岩ノ山は、ココの泥だらけの小さな手を、自分の大きな掌でそっと包み込んだ。
「さあ、帰ろう」
「今日は助かったよ」
オルガがココの反対側の手を握る。
右手をオルガに、左手を岩ノ山に握られて、ココは二人の間で小さく跳ねるようにして歩き出した。
夕暮れの黄金色の光が三人を包む。
三つの影が、長く映し出されていた。
◇
第三部 流域編
第2話 に続く




