第10話 若様
◇
夜明け前の山神村は、まだ濃い霧に包まれていた。
大きな石造りの共同窯の傍らで、岩ノ山は静かに腰を落とす。
地響きのような呼吸とともに四股を踏む。
露を吸った土が、太い足の裏に踏みしめられて硬い音を立てる。
一通りの動きを終えると、岩ノ山は窯の奥へ薪をくべ、火を入れた。
パチパチと爆ぜる音が霧を割るように響き始める。
東の空が白み始める頃には、村のおばちゃんたちが大きな木桶を抱えて集まってきた。
桶の中には、すっぱい匂いのするライ麦の生地が詰まっている。
「おや、若様。ずいぶん早いねえ」
寝癖の残る頭を気にしながら、領主候補者のセドウィックが歩いていた。
おばちゃんたちの一人が、声を張り上げた。
「ほら、この粉の袋をこっちへ運んどくれ!」
「あ、ああ。分かった」
言われるがままに重いライ麦粉の袋を担ぎ、窯の前に運ぶ。
おばちゃんたちの手つきは容赦がない。
次々と生地をちぎり、丸め、岩ノ山が操る長い木ベラの上へと放り込んでいく。
立ち上る熱気と小麦の粉、そして止まないお喋りの嵐の中で、セドウィックはただ必死に手を動かした。
額にはすぐに大粒の汗が浮かび、上等なシャツの袖は白く汚れていく。
そこへ、少し眠そうな目をこすりながら、村長代理ダンの妻であるエマがやってきた。
その胸には、布に包まれた小さな赤ん坊が抱かれている。
「ごめんよ、ちょっとそれ持ってておくれ!」
エマは窯から焼き上がったばかりのパンを受け取るため、その腕の塊をセドウィックの胸へと押し付けた。
「えっ、あ、あの――」
腕の中に収まったものは、驚くほど軽くて、そして信じられないほど温かかった。
セドウィックは両腕をどう曲げればいいのか分からず、ただ奇妙な姿勢のまま固まる。
「ダンの子だ」
岩ノ山が、長い木ベラを窯の奥へ突っ込んだまま、静かに言った。
「ダンさんの……」
セドウィックの視線が、腕の中の小さな顔に落ちる。
昨日、腰に錆びたショートソードを差して、あの壊れた橋の前で「今更、橋だけかよ」と呟いた、あの寡黙な男の血を引く赤ん坊。
その小さな唇が、むにむにと小さな音を立てて動いた。
セドウィックは息を止め、さらに身を硬くする。
「⋯⋯ぷっ」
荷車を曳いて通りかかったダンが、それを見て、吹き出す。
セドウィックは苦笑いを浮かべるしかなかった。
◇
焼き上がったばかりの硬いライ麦パンは宿に運ばれ、温かいスープと共に長机に並ぶ。
ふうふうとスープをすすりながら、男たちが口々に話し始める。
「今日は祭り準備だな」
「ああ。だが、遊んでる暇はねえぞ。明日からは麦の刈り入れだ」
「今日のうちに、あいつらを山へ上げちまわねえとな」
ダンがスープの皿を置き、セドウィックを見る。
「若様。今日の村仕事は『豚追い』だ。足元を固めておきな」
◇
陽が高くなるにつれ、村全体が動き始める。
広場では老人たちが竹箒を手に、落ち葉をきれいに掃き集めていく。
窯の脇では、グレンが薪置き場の屋台のガタつきを確かめ、無造作に金槌を打ち付けていた。
ココをはじめとする子供たちは、どこからか集めてきた色鮮やかな木の実や蔦を編んで、家の軒先に飾る輪を作っている。
岩ノ山は、宿の裏手から太い丸太を何本も担ぎ出し、祭りの肉を吊るすための即席の架台を組み上げるのを手伝っていた。
その怪力に、村の男たちも「助かる」とだけ短く声をかけ、ごく自然に彼を作業の中に組み込んでいく。
村びと全員が、同じ秋の終わりという季節の向こう、長い冬を見据えて動き出していた。
◇
昼過ぎ。
村外れのなだらかな放牧地には、村中の人間が集まっていた。
十数頭の太った豚たちが、ぶひぶひと不満げな声を上げて群れている。
この豚たちを、山側の木の実が豊富に落ちている囲いまで追い立てる。
村では山送りと呼ぶ、冬前の山神村の最も重要な行事だった。
「よし、行け!」
ダンの鋭い掛け声とともに、男たちが一斉に手を叩き、声を上げて豚の群れを動かし始めた。
子供たちは柵の上から「いけー!」と声を張り上げ、女性陣は山の入り口で囲いの杭を握って待ち構える。
セドウィックの二人の護衛は、最初は戸惑ったように剣の帯に手をかけていたが、目の前を猛烈な勢いで横切る豚の群れを見て、たまらずに剣も上着を脱ぎ捨てて走り出した。
そこへ、一頭の大きな雄豚が群れを離れ、森の茂みへと突進しようとした。
「そっちへ行かせるな!」
叫んだのはセドウィックだった。
彼の身体は、驚くほど軽快だった。
泥を蹴り、驚異的な速度で坂を駆け上がる。
見事に最初の豚の群を囲いに追い込んでみせた。
その足の速さと、的確に回り込む身のこなしは、村の男たちを「ほう」と感心させるに十分だった。
岩ノ山もまた、その鋭い疾走をじっと見つめ、小さく鼻を鳴らした。
「速いな」
続いて、セドウィックは2つ目の群れに回り込む。
が、その瞬間、
足元の草むらから、小さな子豚が不意に飛び出してきた。
「――っ」
それを踏みつけるのを避けるため、セドウィックは無理に身体をひねった。
勢い余って足がもつれ、そのまま盛大に前方へ転倒する。
べちゃり、と。
ぬかるんだ泥の中に、セドウィックは顔から突っ込んだ。
一瞬の静寂。
次の瞬間、柵の上の子供たちからも、囲いのおばちゃんたちからも、割れるような笑い声が湧き上がった。
「ははは! 若様、見事な転びっぷりだ!」
ダンが腹を抱えて笑っている。
セドウィックは泥だらけの顔を上げ、口に入った泥をぺっと吐き出した。
自分の上等な服が完全に泥色に染まっているのを見て、最初は呆然としていたが、やがて声を上げて笑い出した。
その時、別の暴れる豚がセドウィックに向かって走り込む。
「危ない!」
村人の声と同時に、岩ノ山が、一歩前に出た。
突進してくる百キロ近い巨体を、岩ノ山はその丸太のような両腕で正面からガシッと受け止めた。
岩ノ山はそのまま豚の向きを変え、力任せに群れの中へと押し戻す。
泥を拭いながらそれを見たセドウィックは、息を呑んだ。
フゴフゴと鼻を鳴らし、豚の群が歩き出した。
岩ノ山はセドウィックへ黙って右手を差し出す。
分厚い掌を握り返す。
節くれ立った指とは裏腹に、掌は不思議な温もりを帯びていた。
ぐい、と身体が浮いた。
「⋯⋯ありがとうございます」
岩ノ山は頷きを返すだけだった。
全ての豚が山の囲いに入り終える頃。
誰も彼もが泥と汗にまみれていた。
◇
昼下がり。
騒がしい熱気が去った村は、嘘のように静まり返っていた。
村外れの小高い丘。
山神さまの祠の前で、村長のヤール婆がゆっくりと頭を下げていた。
その少し後ろに、セドウィックが立っている。
泥は宿の井戸で洗い流したものの、乾いた服からはまだ微かに山の土の匂いがしていた。
ヤール婆は祈りを終えると、古びた木杖にすがりながら、静かに振り返る。
「若様。……あの大きな男のことを、気に掛けておいでですか」
セドウィックは、ただ積まれた小石の祠に視線をやった。
「本当によく働く子ですよ⋯⋯」
ヤール婆のしわくちゃの顔が、どこか遠くを見る目になる。
「ですがね、若様」
セドウィックは黙って、続く言葉を待った。
「あの子は……この村の、この国の子ではありません」
セドウィックの眉が、わずかに動く。
ヤール婆の杖を持つ手が白くなった。
「この村には昔から、人の姿で山神さまが下りてきた――そんな話がありましてな」
ヤール婆は祠の平らな石を撫でた。
「……ワシも、あの大きな背中を見るたび、そんな昔話を思い出します。」
ヤール婆は深く息をつき、小さく首を横に振る。
「もし……あの子の故郷へ帰る道というものが、どこかにあるのだとしたら」
「それを、あの子に教えてあげたいのです」
セドウィックは、しばらくの間、風の音を聞いていた。
やがて、静かに頷いた。
「……領都へ戻ったら、調べてみましょう」
ヤール婆は深く、深く頭を下げた。
その頃。
当の岩ノ山は、宿の裏手で明日からの刈り入れに使う鎌を研いでいた。
砥石に刃をこすりつける。
シャッ、シャッ、と規則正しい音が響く。
「……よし」
岩ノ山は満足そうに頷いた。
◇
夕方、旧街道の坂の上に、馬を引いたセドウィックたちの一行が立っていた。
西の空が、燃えるような茜色に染まっている。
村の入り口には、ヤール婆を筆頭に、ダンや宿の女将オルガ、そして子供たちが集まり、彼らを見送っていた。
「若様、またいつでも来な。 今度は泥まみれにならない走り方を教えてやるよ」
ダンが言うと、村人たちから小さな笑いが漏れた。
「次は転びません」
その時、
「若様!」
小さな声が飛んだ。
宿の末っ子、ココが駆け寄ってくる。
両手には、一枚の紙。
「これは?」
「あげる」
差し出された紙には、温かな色の蝋筆で、 大きな人影と、小さな人影がいくつも描かれていた。
山。
宿。
そして、真ん中にはひときわ大きな男。
「……」
セドウィックは絵を眺めた。
「楽しそうですね」
ココが嬉しそうに頷く。
「うん!」
セドウィックは絵を大切そうに受け取った。
「ありがとうございます。大切にします」
「……それから、
あの紅葉鱒をまた食べに来ます」
セドウィックは、すっきりと晴れやかな笑顔で応えた。
「どうぞ、お気をつけて」
ヤール婆が杖を突き、一礼する。
セドウィックは一度、村の奥へと視線を向けた。
宿の軒先で、大荷車の車輪を締め直している、あの巨躯の男の姿が見えた。
岩ノ山は、視線に気づくと、作業を止め、静かに一度だけ頭を下げた。
セドウィックもまた、小さく頷きを返す。
「行くぞ」
馬の蹄が土を蹴り、一行は領都への道を歩み始めた。
見送る村人たちの声が、夕暮れの心地よい風に乗って遠ざかっていった。
◇
第二部 領都編 了
◇
第三部 流域編
第1話 につづく




