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第9話 山砦


朝の光は薄く、山の空気は刺すように冷たく澄んでいた。


宿の前に集まった一行の足元で、うっすらと降りた朝露が靴底に踏まれて湿った音を立てる。


岩ノ山は、宿の軒先で村の技師、グレンから一つの包みを受け取っていた。


無骨な麻布を解くと、中から現れたのは、黒ずんだ重厚な鉄手甲だった。


刃物のような鋭さはない。


「武器を持って行けば、あいつらは警戒する」


グレンは煙草を指に挟んだまま、灰を落とさずに言った。


「防具にしとけ」


岩ノ山は何も言わず、大きな腕をその鉄甲に通した。


軋む鉄の重みを確かめる仕草を、次期領主セドウィックと、その護衛たちは息を呑んで見つめていた。


村長代理、ダンが木立の影から歩み出てきたとき、セドウィックの護衛の身体が、かすかに強張った。


ダンの腰に、鈍く光るショートソードがあった。


ダンは護衛たちの硬い視線に気づくと、薄く笑って、肩の力を抜くように首を回した。


「国境沿いに行くんだ」


ダンの声は、朝の冷気によく通った。


「最低限の備えはしていくさ。

 あそこは、まだそういう場所だ」


その一言に、護衛は小さく頷き、剣の柄から手を離した。


一行は静かに歩き出し、旧街道から山道へと足を踏み入れた。



山道は静まり返っていた。


時折、梢の奥で名も知らぬ鳥が鋭く鳴き、遠くの谷底から沢のせせらぎがかすかに響いてくる。


聞こえるのは、五人の足音と、岩ノ山の巨躯が揺れるたびに小さく軋む鉄甲の音だけだった。


セドウィックは、歩きながら今回の目的をなぞるように、前を歩くダンの背中へ声をかけた。


「……今回の視察は、山砦の現状確認が主です」


「休戦は成立していますが、講和はまだです」


「軍も行政も、まだ止まれません」


「駐留している兵の状況、および備蓄。 そして、崩落した石橋を確かめたい」


岩ノ山が、歩幅を落とさずに短く尋ねた。


「橋は、直るのか」


セドウィックは一瞬、足を緩め、それから再びまっすぐに歩き出した。


「そのために、見に行きます」


ダンは何も答えず、ただ黙って先頭を歩き続けた。


その背中は、かつて自分が去った場所へと、一歩ずつ確実に近づいていく。



鬱蒼とした木立ちを抜けると、視界が突如として開けた。


荒々しい岩肌にへばりつくように築かれた、灰色の石造りの砦。


かつて三十人の村びとが命を散らし、国境を守り抜いた山砦だった。


一行が近づくと、ガコン、と、門の向こうで太い閂が外される音がした。


重い木製の門が、ギギギと音を立てて内側へ開いた。


現れたのは、数人の駐留兵たちだった。


セドウィックの護衛が「バレント家の者だ」と告げると、駐留兵が敬礼で迎える。


その先頭に立つ、顔に傷のある古参の兵が、一歩前に進み出る。


古参兵の目が、セドウィックの横に立つ男の姿を捉えた。


その瞳が、わずかに細められる。


「……ダンか」


かすれた声だった。


「帰ってきたか」


ダンは腰の剣に手を置いたまま、表情を変えずに短く答えた。


「ああ」


一行は静かに、砦へと迎え入れられる。


セドウィックは「砦の様子を見たい」と告げ、すぐに仕事に取り掛かる。


駐留兵の帳簿を開き、備蓄や兵舎の補修状況を一つずつ確認していく。


古参兵が、その背中について案内を続けた。


「崩落した橋を見たい」


セドウィックに請われ、古参兵が歩き出す。


砦の裏手、半分煤けた兵舎の炊事場を通りかかったとき、古参兵がふっと口元を緩めた。


「若様。昔、この砦と山神村との取引は、鉄の釘が通貨でしてな」


後ろを歩いていたセドウィックの護衛が、不思議そうに首を傾げた。


「釘が、ですか?」


「そうです」


古参兵は、使い古された大釜を見つめながら言った。


「貴重な釘を数本、ヤール婆のところに持って行くと、代わりに山味噌や山菜を分けてくれた。そういう決まりだったんです」


彼は少しだけ懐かしむように笑った。


「非番の日になると、みんなして這うようにして坂を下り、あの宿へ飲みに行きましてね」


「……オルガの焼く鱒の塩焼きが、たまらなく旨かった」


セドウィックは思わず口元に手を添えた。


あの時オルガが言った「村の子が釣ってきた」という言葉が、この古参兵の「非番の日には宿へ行った」という言葉と、頭の中で静かに重なった。



砦の最奥を抜け、切り立った崖の縁へと出る。


目の前に広がっていたのは、虚空だった。


かつて対岸へと続いていたはずの巨大な石橋は、中央から無惨にへし折れ、奈落のような深い谷底へと残骸を晒していた。


ヒョーヒョーと、冷たい谷風だけが、折れた断面の隙間を吹き抜けていく。


折れた石橋の向こう。


遥か遠くの対岸に、隣国の領土が見える。


そこには、小さな家々の屋根があり、煙突から細い煙が上っていた。


ダンが、折れた端の、崩れかけの石にそっと手を置き、ぽつりと言った。


「……向こう岸にも、知った顔がいたんだ」


古参兵が、静かにその隣へ並んだ。


「秋の祭りの日になると、本当に賑やかでしてな」


誰もいない橋の先を見つめる。


「橋の袂で、お互いの特産品を持ち寄って市を開くんです」


少し笑って、


「……祭りの締めは、橋の真ん中でケンカ山車」


古参兵は壊れた橋へ向かって、両の拳を軽く打ち合わせた。


岩ノ山が、静かにその石橋の折れた断面を見つめている。


セドウィックもまた、同じ場所を見つめていた。



壊れた橋の中央、冷たい風が吹きつける中で、セドウィックは、じっと対岸の煙を見つめ続けていた。


深く息を吸い込み、冷たい風に向かって、静かに口を開いた。


「この橋は……直します」


その言葉が谷にこだました。


ダンが静かに口を開く。



「……今更、橋だけかよ」



セドウィックは、一度視線を落とし、崩れた橋の断面へ、一歩踏み出す。


「直すのは橋だけではありません」


折れた端の、崩れかけの石に触れる。


「私も……」


ゆっくりと顔を上げ、対岸を見据えた。


「人が渡るところを見たい」


古参兵は、壊れた橋の先を見つめたまま、小さく口元を歪めた。


「……ならば、人の往来が戻るまでは、私も退役できませんな」


その言葉を聞いたダンが、ふっと小さく笑う。


ダンの右手が、腰の剣の柄から、静かに離れていく。


「……若様のお手並み拝見、だな」


ダンはそう言うと、踵を返して砦の方へと歩き出した。


セドウィックは、ダンの背中を見送る。


それから、壊れた橋をもう一度だけ振り返った。


冷たい風が、壊れた石橋の上を吹き抜けていった。


第二部 領都編

第10話 につづく

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