第9話 山砦
◇
朝の光は薄く、山の空気は刺すように冷たく澄んでいた。
宿の前に集まった一行の足元で、うっすらと降りた朝露が靴底に踏まれて湿った音を立てる。
岩ノ山は、宿の軒先で村の技師、グレンから一つの包みを受け取っていた。
無骨な麻布を解くと、中から現れたのは、黒ずんだ重厚な鉄手甲だった。
刃物のような鋭さはない。
「武器を持って行けば、あいつらは警戒する」
グレンは煙草を指に挟んだまま、灰を落とさずに言った。
「防具にしとけ」
岩ノ山は何も言わず、大きな腕をその鉄甲に通した。
軋む鉄の重みを確かめる仕草を、次期領主セドウィックと、その護衛たちは息を呑んで見つめていた。
村長代理、ダンが木立の影から歩み出てきたとき、セドウィックの護衛の身体が、かすかに強張った。
ダンの腰に、鈍く光るショートソードがあった。
ダンは護衛たちの硬い視線に気づくと、薄く笑って、肩の力を抜くように首を回した。
「国境沿いに行くんだ」
ダンの声は、朝の冷気によく通った。
「最低限の備えはしていくさ。
あそこは、まだそういう場所だ」
その一言に、護衛は小さく頷き、剣の柄から手を離した。
一行は静かに歩き出し、旧街道から山道へと足を踏み入れた。
◇
山道は静まり返っていた。
時折、梢の奥で名も知らぬ鳥が鋭く鳴き、遠くの谷底から沢のせせらぎがかすかに響いてくる。
聞こえるのは、五人の足音と、岩ノ山の巨躯が揺れるたびに小さく軋む鉄甲の音だけだった。
セドウィックは、歩きながら今回の目的をなぞるように、前を歩くダンの背中へ声をかけた。
「……今回の視察は、山砦の現状確認が主です」
「休戦は成立していますが、講和はまだです」
「軍も行政も、まだ止まれません」
「駐留している兵の状況、および備蓄。 そして、崩落した石橋を確かめたい」
岩ノ山が、歩幅を落とさずに短く尋ねた。
「橋は、直るのか」
セドウィックは一瞬、足を緩め、それから再びまっすぐに歩き出した。
「そのために、見に行きます」
ダンは何も答えず、ただ黙って先頭を歩き続けた。
その背中は、かつて自分が去った場所へと、一歩ずつ確実に近づいていく。
◇
鬱蒼とした木立ちを抜けると、視界が突如として開けた。
荒々しい岩肌にへばりつくように築かれた、灰色の石造りの砦。
かつて三十人の村びとが命を散らし、国境を守り抜いた山砦だった。
一行が近づくと、ガコン、と、門の向こうで太い閂が外される音がした。
重い木製の門が、ギギギと音を立てて内側へ開いた。
現れたのは、数人の駐留兵たちだった。
セドウィックの護衛が「バレント家の者だ」と告げると、駐留兵が敬礼で迎える。
その先頭に立つ、顔に傷のある古参の兵が、一歩前に進み出る。
古参兵の目が、セドウィックの横に立つ男の姿を捉えた。
その瞳が、わずかに細められる。
「……ダンか」
かすれた声だった。
「帰ってきたか」
ダンは腰の剣に手を置いたまま、表情を変えずに短く答えた。
「ああ」
一行は静かに、砦へと迎え入れられる。
セドウィックは「砦の様子を見たい」と告げ、すぐに仕事に取り掛かる。
駐留兵の帳簿を開き、備蓄や兵舎の補修状況を一つずつ確認していく。
古参兵が、その背中について案内を続けた。
「崩落した橋を見たい」
セドウィックに請われ、古参兵が歩き出す。
砦の裏手、半分煤けた兵舎の炊事場を通りかかったとき、古参兵がふっと口元を緩めた。
「若様。昔、この砦と山神村との取引は、鉄の釘が通貨でしてな」
後ろを歩いていたセドウィックの護衛が、不思議そうに首を傾げた。
「釘が、ですか?」
「そうです」
古参兵は、使い古された大釜を見つめながら言った。
「貴重な釘を数本、ヤール婆のところに持って行くと、代わりに山味噌や山菜を分けてくれた。そういう決まりだったんです」
彼は少しだけ懐かしむように笑った。
「非番の日になると、みんなして這うようにして坂を下り、あの宿へ飲みに行きましてね」
「……オルガの焼く鱒の塩焼きが、たまらなく旨かった」
セドウィックは思わず口元に手を添えた。
あの時オルガが言った「村の子が釣ってきた」という言葉が、この古参兵の「非番の日には宿へ行った」という言葉と、頭の中で静かに重なった。
◇
砦の最奥を抜け、切り立った崖の縁へと出る。
目の前に広がっていたのは、虚空だった。
かつて対岸へと続いていたはずの巨大な石橋は、中央から無惨にへし折れ、奈落のような深い谷底へと残骸を晒していた。
ヒョーヒョーと、冷たい谷風だけが、折れた断面の隙間を吹き抜けていく。
折れた石橋の向こう。
遥か遠くの対岸に、隣国の領土が見える。
そこには、小さな家々の屋根があり、煙突から細い煙が上っていた。
ダンが、折れた端の、崩れかけの石にそっと手を置き、ぽつりと言った。
「……向こう岸にも、知った顔がいたんだ」
古参兵が、静かにその隣へ並んだ。
「秋の祭りの日になると、本当に賑やかでしてな」
誰もいない橋の先を見つめる。
「橋の袂で、お互いの特産品を持ち寄って市を開くんです」
少し笑って、
「……祭りの締めは、橋の真ん中でケンカ山車」
古参兵は壊れた橋へ向かって、両の拳を軽く打ち合わせた。
岩ノ山が、静かにその石橋の折れた断面を見つめている。
セドウィックもまた、同じ場所を見つめていた。
◇
壊れた橋の中央、冷たい風が吹きつける中で、セドウィックは、じっと対岸の煙を見つめ続けていた。
深く息を吸い込み、冷たい風に向かって、静かに口を開いた。
「この橋は……直します」
その言葉が谷にこだました。
ダンが静かに口を開く。
「……今更、橋だけかよ」
セドウィックは、一度視線を落とし、崩れた橋の断面へ、一歩踏み出す。
「直すのは橋だけではありません」
折れた端の、崩れかけの石に触れる。
「私も……」
ゆっくりと顔を上げ、対岸を見据えた。
「人が渡るところを見たい」
古参兵は、壊れた橋の先を見つめたまま、小さく口元を歪めた。
「……ならば、人の往来が戻るまでは、私も退役できませんな」
その言葉を聞いたダンが、ふっと小さく笑う。
ダンの右手が、腰の剣の柄から、静かに離れていく。
「……若様のお手並み拝見、だな」
ダンはそう言うと、踵を返して砦の方へと歩き出した。
セドウィックは、ダンの背中を見送る。
それから、壊れた橋をもう一度だけ振り返った。
冷たい風が、壊れた石橋の上を吹き抜けていった。
◇
第二部 領都編
第10話 につづく




