第8話 対峙
◇
夏の終わりの高い空から、ひんやりとした秋の風が吹き下ろしていた。
山神村の朝は、いつも通りに始まる。
ココがウサギたちに声をかけ、宿の厨房からは女将のオルガが大きな鍋を火にかける音が響く。
塩坑の入り口では男たちが静かに作業へと入っていく。
いつも通りの、ありふれた村の営み。
だが、大人たちの沈黙の密度だけが、わずかに違っていた。
今日、領主家の若様が山神村を訪れる。
子供たちに余計なことを吹き込む者もいない。
誰も口には出さない。
ただ、その来訪の知らせだけが、静かな重みを落としていた。
◇
長老のヤール婆は、一本の古びた木杖を手に、ゆっくりと村の裏手へと歩いていく。
ヤール婆の細い足取りは、どこか危うげに見える。
その少し後ろを、村の少年リクが静かについて歩いていた。
「ついておいで」とも「来るな」とも言われていない。
ただ、「一人じゃ危ないから」というだけの理由で、リクは影のように寄り添っていた。
向かう先は、村外れの小高い丘にある、山神さまの祠。
そこは村の守り神を祀る場所。
ケルンのように小石が積まれた祠を囲むように、平らな石たちが静かにならんでいる。
リクは朧げな記憶をたどる。
幼い自分が大人たちと一緒に、あの石を運んだ日のことを、ふっと思い出した。
祠の前に着くと、ヤール婆は深く頭を下げ、しわくちゃの両手を合わせる。
何を祈っているのか、その小さな背中からは何も読み取れない。
やがて、ヤール婆はゆっくりと目を開け、深く息をついた。
振り返ったその顔には、先ほどまでの危うさはなかった。
リクは何も言わず、その大きく見える背中を見つめ、ただ一歩後ろを歩いて坂を下りた。
◇
昼過ぎ。
旧街道の坂の向こうから、
数騎の馬の足音が響いた。
村の入り口、ヤール婆を筆頭に、村長代理ダンやオルガ、主要な村人たちが静かに並んでそれを迎える。
馬を止め、最初に降り立ったのは、旅装の上に儀礼用の外套をまとった若者だった。
次期領主候補、セドウィック・バレント。
数日前、
領都の市場の片隅で、屋台の店主たちと笑っていた青年の顔は無い。
その瞳はただ静かだった。
背後には、武装した護衛の兵が油断なく控える。
「出迎え、大義である」
「私がセドウィック・バレントだ」
若き領主候補の声は、低く、よく通った。
ヤール婆は木杖を突き、深く、一礼を返す。
「よくぞおいでくださいました」
「若様。山神村長老、ヤールにございます。
何のお構いもできませぬが、どうぞ、この山間の地をお見知りおきくだされ」
ヤール婆が言い終えると、村人たちが静かに頭を下げる。
思わず護衛達の背筋が伸びる。
軍隊のように訓練されたわけではない。
だが、礼を通すという意思が村人を調和させていた。
セドウィックはヤール婆と視線をあわせる。
小さく頷くと、すぐに視線を村の奥へと向けた。
◇
セドウィックは、すぐに宿へ入ろうとはしない。
「まずは、村の現状を見せてほしい」と静かに告げ、案内を請うた。
ヤール婆とダンが先導し、セドウィックは村の中をゆっくりと歩く。
彼は何も言わない。ただ、その視線が、村のあらゆる場所に注がれていた。
老朽化し、今にも崩落しそうな橋の袂。
男たちが寡黙に岩塩を掘り出す、深く冷たい塩坑の入り口。
煙の立たない煙突。
宿の前に据えられたばかりの、小さな紫安草のプランター。
セドウィックの脳裏に、領主館の机の上で睨みつけた、あの「報告書」の数字がよみがえる。
『若年労働人口、わずかに一割強』
『空き家、十四棟』
『戦死者 三十』
紙の上のただの数字が、老人たちの深い皺、子供たちの少なさとなって、静かに村に息を吐いていた。
◇
その夜、山神の宿の食堂。
中央の長机に席を占めるセドウィックと護衛の兵たち。
オルガは、いつも通りの手付きで、湯気の立つ大皿の料理を彼らの前に並べていった。
領主様だからといって、特別なご馳走を出すわけではない。
いつも通り、
塩坑から採れた美味い岩塩で焼いた魚と、山の恵みの野菜の煮込み。
「……美味いですね」
セドウィックが、静かにスプーンを置いて呟いた。
屋敷の洗練された料理とは違う、身体の芯から温まるような美味さだった。
オルガは「宿ですから」とだけ短く答えた。
「これは……。何という魚でしょうか」
セドウィックに尋ねられたオルガは思わず盆を抱えた。
「紅葉鱒です。今が旬なんです」
「紅葉鱒……」
香ばしく焼け、赤みがかった魚をセドウィックはじっと見る。
「村の子が釣ってきたんですよ」
「子供が……」
オルガはそれ以上は何も言わず、厨房へと戻っていく。
セドウィックが食堂の隅に目をやると、熊のような巨躯の男と、子供たちが同じ卓を囲んでいた。
(……異邦の巨漢。岩ノ山)
セドは村を動かした異邦人の報告を思い出していた。
「いただきます」
巨漢に併せて、子供たちが手を合わせて祈る。
大きな手で硬いパンをちぎり、子供たちにそっと渡している。
幼子が匙を落とせば拾い、口元が汚れればぬぐってやる。
「……」
巨漢はセドウィックの視線に気が付くと、小さく礼をし、また子供たちとの食事に戻った。
◇
静まり返った山神村の夜。
当てがわれた寝室で、セドウィックは、窓の外の暗闇に目をやった。
星の瞬きを線で結ぶ。
様々な星座は次第に村人たちの顔に代わって見えた。
長老、子供、塩坑の男たち。
セドウィックは一度目を瞑り、開けた。
窓の外に浮かぶ山の稜線の向こう。
この村の三十人が失われた山砦がある。
セドウィックは静かにその方角を見つめていた。
明日、自らの足でそこへ向かうために。
◇
第二部 領都編
第9話につづく




