第6話 紙に埋もれた村
◇
朝靄のなじむ黒熊屋の倉庫前。
大荷車――山神号への荷積みは静かに終えようとしていた。
麻袋に詰まった牧草の種。
眠り草のお陰で丸くなって眠る、
もこもこの毛ウサギたちの木箱。
女将のオルガへの深緑の手鏡と、宿の娘ミリアへの古書。
そして、次の役目を待つ、今は空になった塩樽。
黒熊屋の店主ーー黒熊屋バナードが
太い指先で荷締め縄の張りをパシンと確かめ、
満足そうに鼻を鳴らした。
「よし、ガタはねえな。
……ヤマ、リク。次は雪が降る前だな」
「ああ」
山神村の力士、岩ノ山が短く応じ、
大きな手で車軸を軽く叩く。
「リク、これ。途中で食べなよ」
黒熊屋の娘ベスが、油紙に包まれた焼き菓子を、村の少年リクの懐へ押し付けた。
「ココちゃんにもよろしくね。
ちゃんとしっかり食べるんだよ」
「うん、ありがとう、ベス姉ちゃん!」
リクが満面の笑みで袋を抱え、
岩ノ山もまた、深々と頭を下げた。
「道中、無茶すんなよ」
黒熊屋がリクと岩ノ山の肩をポンと叩いた。
山神号が、
軋みと共になだらかに動き出す。
市場ではすでに朝市の喧騒が始まっていたが、
通り過ぎる二人に特別な視線を向ける者は誰もいなかった。
誰も立ち止まらない。
それが、この街の日常だった。
城門を抜け、領都の白い壁が遠ざかる。
二人の影は、深く青い山道へと静かに消えていった。
◇
バレント領都の一角に佇む領主館。
それはおよそ貴族の贅沢さとは無縁の、
灰色の石で組まれた「実務の城」だった。
部屋の壁には擦り切れた領地の地図が掲げられ、
机の上には幾重にも積み上げられた帳簿と羊皮紙の山。
部屋の隅では白髭の老人が静かに書物をめくっている。
反対側では数人の武官が国境の地図を囲み、
小声で状況を確認していた。
開かれた窓の向こうには、
先ほど二人が歩いていた市場の喧騒が小さく見下ろせる。
机に向かい、羽ペンを走らせている若者がいた。
領主候補、セドウィック・バレント。
数日前、市場の片隅で岩ノ山たちに見せたあの気さくな青年の笑顔は、
今の彼の顔にはひとかけらもない。
コンコンコン、と硬い音が室内に響く。
「入れ」
セドウィックが声をかけると、
重い木扉が開き、一人の男が足を踏み入れた。
旅塵に汚れた外套。
インクで黒くなった指。
そして特徴的な赤い鼻。
「戻りました」
「ああ。……ご苦労」
男――赤鼻は、
いつもの飄々とした調子を崩さぬまま、
懐から一冊の使い込まれた旅の帳面を取り出した。
彼はただの風来坊ではない。
領主家が各地へ放っている、直属の調査官だった。
◇
赤鼻は帳面を開き、淡々と報告を始める。
「今回は山間部を、ぐるりと一回り」
「順に聞こう」
セドウィックの手が止まる。
赤鼻の口から、いくつかの村の名と数字が流れる。
人口、収穫予測、税の進捗。
それらは「特に問題なし」として処理されていく。
そして。
「最後に、山神村です」
赤鼻の指が、帳面の新しい頁をめくる。
声を落とす。
「人口、約五十」
「主産業は岩塩の採掘、および塩坑の管理」
「旧街道は国境街道に隣接」
「ただし、村の手前にある接続橋が一つ、村内には宿が一軒……」
ここまでは、行政が把握している通りの言葉だった。
しかし、赤鼻が読み上げる「数字」が変化していく。
「総人口五十に対し、
若年労働人口、わずかに一割強」
「山砦防衛戦による戦死・行方不明者、三十名」
「現在の空き家、十四棟。
接続橋、老朽化による崩落の危険性あり。
村の祭礼――規模縮小により、本年はほぼ途絶の危機」
カツン、
とセドウィックの羽ペンが止まった。
彼は初めて顔を上げ、
赤鼻の持つ帳面をじっと睨みつけた。
「待て」
セドウィックは帳面を自分の方へと引き寄せ、
細い指先でそこに並ぶ数字をなぞった。
「人口、五十。
その半分以上が老人と子供ではないか」
赤鼻が口を開く。
「働ける者は半数にも届きません。」
それに対して、守るべき塩坑があり、
維持すべき国境の橋が一本、
旅人を受け入れる宿も絶やせない。
「……維持できる数字ではない」
この数字のバランスは、
村として成り立つ限界にある。
「ええ」
赤鼻はいつもの軽妙さを消し、
静かに頷いた。
「よく、これまで残っていたというべきです」
「戦前の人口は」
「約百足らず」
「八年前の山砦防衛戦以後、急減しております」
ここは行政の場であり、数字を扱う部屋だ。
だが、
セドウィックは、
帳面の「三十」という数字から目を離せなかった。
◇
赤鼻の報告に、セドウィックは奥の書棚を振り返った。
「書記。
山神村からの、過去の寄り合いの記録(陳情書)を」
控えていた書記官が、
埃っぽい古い棚から数年分の羊皮紙の束を探し出してきた。
広げられた紙には、
村の長老、ヤール婆の署名。
『接続橋の補修、および資材提供の願い』
『国境街道の警備強化の願い』
『戦死者多数による、三年の減税願い』
古老も動いていたのだ。
村を維持するため、必死に声を上げ、領都へ紙を届けていた。
そして領都側も、それを「受理」していた。
記録には確かに受付の印がある。
しかし、戦後処理の混乱。
各地の主要都市の復旧。
優先順位。
すべてが後回しにされていた。
ここには誰も、
村を見捨てようとした悪人はいない。
山神村の名は、
その束の一番下に埋もれていた。
「……」
セドウィックは沈黙した。
そして、羊皮紙を静かに重ね直した。
◇
「祭礼の縮小、ですか」
部屋の隅、影の中に座っていた老人が初めて口を開いた。
領主に仕える宮廷魔術師だった。
「それは、よろしくありませんな、若様」
「……どういう意味だ」
「土地は、人の営みを映す鏡にございます」
「祭礼とは、単に神へへつらうための催しではございませぬ。
集落の活気をもって邪気を払い、山を鎮める理 」
「古い山ほど、その祭礼が途絶えた後に、
不可解な『獣害』が増えた例がいくつもございます」
セドウィックはそれを迷信と切り捨てもしなかったが、
すべてを鵜呑みにもしなかった。
ただ、
「……その記録は、書庫に残っているか」
「はい」
それだけを確かめた。
説明はそこで終わる。
だが、
この部屋にいる誰もが、
山を荒らした大猪の一件を思い出していた。
◇
「ですが」
赤鼻が、帳面をパサリともう一枚めくった。
「ここ数ヶ月、その数字に、
奇妙な『変化』が現れ始めています」
セドウィックが眉を寄せる。
「異邦人の男が一名、村へ定着」
「巨漢。塩坑の作業に従事し、採掘効率が大幅に向上」
「さらに、先ほど話に出た、
山を荒らしていた『大猪』を単独で討伐」
武官達がざわついた。
「その後、村人総出で大型荷車を完成。交易の再開」
「そして現在、途絶えかけていた秋の祭礼の準備が、
急ピッチで進められている、と」
一つ一つの数字は小さい。
けれど、それらが組み合わさった瞬間、
死にかけていた村の数字が、
まるで心臓の鼓動を取り戻したかのように脈打ち始めている。
「その男は」
セドウィックの目が、引き締まった。
「名は、何という」
「岩ノ山。
……村の連中は、親しみを込めて『ヤマさん』と呼んでいるようです」
セドウィックはその名前を、
じっと頭の中で反芻した。
人物の評価はしない。
まだ見ぬ男だ。
だが、この崩壊寸前の数字の均衡を、
たった一人でひっくり返しつつある大男の存在が、
彼の心を捉えて離さなかった。
◇
パチン、と赤鼻が帳面を閉じた。
「⋯⋯いい村です」
赤鼻は静かに、
ただし、確かな声で言った。
セドウィックは椅子から立ち上がり、
窓の外へと視線を向けた。
遠く、青く煙る山並みが、静かに彼を見下ろしている。
「行くぞ」
若き領主候補の決断は、静かだが固かった。
「山神村へ、ですか」
「ああ。報告書の上での数字ではなく
……この目で、確かめる」
剣でも魔法でもない。
ヤール婆が届けた陳情、
赤鼻が歩いて刻んだ帳面、
そしてセドウィックが睨みつけた行政の数字
それらすべての「紙」が、ついに未来の領主の足を向かわせた。
――その頃。
そんな領都の動きなど露知らず、山神号は、夏の終わりの涼風を受けながら、ガタゴトと山道を進んでいた。
「ヤマさん、ベス姉ちゃんのクッキー、サックサクだよ」
「いいな。一枚くれ。」
岩ノ山とリクは、満載の荷物の重みを心地よく感じながら、
笑い合って大荷車を引いている。
山は静かに、
二人を迎えようとしていた。
◇
第二部 領都編
第七話 につづく




