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第6話 紙に埋もれた村


朝靄のなじむ黒熊屋の倉庫前。


大荷車――山神号への荷積みは静かに終えようとしていた。


麻袋に詰まった牧草の種。


眠り草のお陰で丸くなって眠る、

もこもこの毛ウサギたちの木箱。


女将のオルガへの深緑の手鏡と、宿の娘ミリアへの古書。

そして、次の役目を待つ、今は空になった塩樽。


黒熊屋の店主ーー黒熊屋バナードが

太い指先で荷締め縄の張りをパシンと確かめ、

満足そうに鼻を鳴らした。


「よし、ガタはねえな。

 ……ヤマ、リク。次は雪が降る前だな」


「ああ」


山神村の力士、岩ノ山が短く応じ、

大きな手で車軸を軽く叩く。


「リク、これ。途中で食べなよ」


黒熊屋の娘ベスが、油紙に包まれた焼き菓子を、村の少年リクの懐へ押し付けた。


「ココちゃんにもよろしくね。

 ちゃんとしっかり食べるんだよ」


「うん、ありがとう、ベス姉ちゃん!」


リクが満面の笑みで袋を抱え、

岩ノ山もまた、深々と頭を下げた。


「道中、無茶すんなよ」


黒熊屋がリクと岩ノ山の肩をポンと叩いた。


山神号が、

軋みと共になだらかに動き出す。


市場ではすでに朝市の喧騒が始まっていたが、

通り過ぎる二人に特別な視線を向ける者は誰もいなかった。


誰も立ち止まらない。

それが、この街の日常だった。


城門を抜け、領都の白い壁が遠ざかる。


二人の影は、深く青い山道へと静かに消えていった。



バレント領都の一角に佇む領主館。

それはおよそ貴族の贅沢さとは無縁の、

灰色の石で組まれた「実務の城」だった。


部屋の壁には擦り切れた領地の地図が掲げられ、

机の上には幾重にも積み上げられた帳簿と羊皮紙の山。


部屋の隅では白髭の老人が静かに書物をめくっている。


反対側では数人の武官が国境の地図を囲み、

小声で状況を確認していた。


開かれた窓の向こうには、

先ほど二人が歩いていた市場の喧騒が小さく見下ろせる。


机に向かい、羽ペンを走らせている若者がいた。


領主候補、セドウィック・バレント。


数日前、市場の片隅で岩ノ山たちに見せたあの気さくな青年の笑顔は、

今の彼の顔にはひとかけらもない。


コンコンコン、と硬い音が室内に響く。


「入れ」


セドウィックが声をかけると、

重い木扉が開き、一人の男が足を踏み入れた。


旅塵に汚れた外套。


インクで黒くなった指。


そして特徴的な赤い鼻。


「戻りました」

「ああ。……ご苦労」


男――赤鼻は、

いつもの飄々とした調子を崩さぬまま、

懐から一冊の使い込まれた旅の帳面を取り出した。


彼はただの風来坊ではない。


領主家が各地へ放っている、直属の調査官だった。



赤鼻は帳面を開き、淡々と報告を始める。


「今回は山間部を、ぐるりと一回り」

「順に聞こう」


セドウィックの手が止まる。

赤鼻の口から、いくつかの村の名と数字が流れる。


人口、収穫予測、税の進捗。

それらは「特に問題なし」として処理されていく。


そして。


「最後に、山神村です」


赤鼻の指が、帳面の新しい頁をめくる。


声を落とす。


「人口、約五十」


「主産業は岩塩の採掘、および塩坑の管理」


「旧街道は国境街道に隣接」


「ただし、村の手前にある接続橋が一つ、村内には宿が一軒……」


ここまでは、行政が把握している通りの言葉だった。


しかし、赤鼻が読み上げる「数字」が変化していく。


「総人口五十に対し、

 若年労働人口、わずかに一割強」


「山砦防衛戦による戦死・行方不明者、三十名」


「現在の空き家、十四棟。

 接続橋、老朽化による崩落の危険性あり。


  村の祭礼――規模縮小により、本年はほぼ途絶の危機」


カツン、

とセドウィックの羽ペンが止まった。


彼は初めて顔を上げ、

赤鼻の持つ帳面をじっと睨みつけた。


「待て」


セドウィックは帳面を自分の方へと引き寄せ、

細い指先でそこに並ぶ数字をなぞった。


「人口、五十。

 その半分以上が老人と子供ではないか」


赤鼻が口を開く。


「働ける者は半数にも届きません。」


それに対して、守るべき塩坑があり、

維持すべき国境の橋が一本、

旅人を受け入れる宿も絶やせない。


「……維持できる数字ではない」


この数字のバランスは、

村として成り立つ限界にある。


「ええ」


赤鼻はいつもの軽妙さを消し、

静かに頷いた。


「よく、これまで残っていたというべきです」


「戦前の人口は」


「約百足らず」


「八年前の山砦防衛戦以後、急減しております」


ここは行政の場であり、数字を扱う部屋だ。


だが、


セドウィックは、

帳面の「三十」という数字から目を離せなかった。



赤鼻の報告に、セドウィックは奥の書棚を振り返った。


「書記。

 山神村からの、過去の寄り合いの記録(陳情書)を」


控えていた書記官が、

埃っぽい古い棚から数年分の羊皮紙の束を探し出してきた。


広げられた紙には、

村の長老、ヤール婆の署名。


『接続橋の補修、および資材提供の願い』


『国境街道の警備強化の願い』


『戦死者多数による、三年の減税願い』


古老も動いていたのだ。

村を維持するため、必死に声を上げ、領都へ紙を届けていた。


そして領都側も、それを「受理」していた。

記録には確かに受付の印がある。


しかし、戦後処理の混乱。


各地の主要都市の復旧。


優先順位。


すべてが後回しにされていた。


ここには誰も、

村を見捨てようとした悪人はいない。


山神村の名は、

その束の一番下に埋もれていた。


「……」


セドウィックは沈黙した。


そして、羊皮紙を静かに重ね直した。



「祭礼の縮小、ですか」


部屋の隅、影の中に座っていた老人が初めて口を開いた。

領主に仕える宮廷魔術師だった。


「それは、よろしくありませんな、若様」


「……どういう意味だ」


「土地は、人の営みを映す鏡にございます」


「祭礼とは、単に神へへつらうための催しではございませぬ。

 集落の活気をもって邪気を払い、山を鎮める理 」


「古い山ほど、その祭礼が途絶えた後に、

 不可解な『獣害』が増えた例がいくつもございます」


セドウィックはそれを迷信と切り捨てもしなかったが、

すべてを鵜呑みにもしなかった。


ただ、


「……その記録は、書庫に残っているか」

「はい」


それだけを確かめた。

説明はそこで終わる。


だが、

この部屋にいる誰もが、

山を荒らした大猪の一件を思い出していた。



「ですが」


赤鼻が、帳面をパサリともう一枚めくった。


「ここ数ヶ月、その数字に、

 奇妙な『変化』が現れ始めています」


セドウィックが眉を寄せる。


「異邦人の男が一名、村へ定着」


「巨漢。塩坑の作業に従事し、採掘効率が大幅に向上」


「さらに、先ほど話に出た、

 山を荒らしていた『大猪』を単独で討伐」


武官達がざわついた。


「その後、村人総出で大型荷車を完成。交易の再開」


「そして現在、途絶えかけていた秋の祭礼の準備が、

 急ピッチで進められている、と」


一つ一つの数字は小さい。


けれど、それらが組み合わさった瞬間、

死にかけていた村の数字が、

まるで心臓の鼓動を取り戻したかのように脈打ち始めている。


「その男は」


セドウィックの目が、引き締まった。


「名は、何という」

「岩ノ山。

 ……村の連中は、親しみを込めて『ヤマさん』と呼んでいるようです」


セドウィックはその名前を、

じっと頭の中で反芻した。


人物の評価はしない。

まだ見ぬ男だ。


だが、この崩壊寸前の数字の均衡を、

たった一人でひっくり返しつつある大男の存在が、

彼の心を捉えて離さなかった。



パチン、と赤鼻が帳面を閉じた。


「⋯⋯いい村です」


赤鼻は静かに、

ただし、確かな声で言った。


セドウィックは椅子から立ち上がり、

窓の外へと視線を向けた。


遠く、青く煙る山並みが、静かに彼を見下ろしている。


「行くぞ」


若き領主候補の決断は、静かだが固かった。


「山神村へ、ですか」

「ああ。報告書の上での数字ではなく

 ……この目で、確かめる」


剣でも魔法でもない。


ヤール婆が届けた陳情、

赤鼻が歩いて刻んだ帳面、

そしてセドウィックが睨みつけた行政の数字


それらすべての「紙」が、ついに未来の領主の足を向かわせた。


――その頃。


そんな領都の動きなど露知らず、山神号は、夏の終わりの涼風を受けながら、ガタゴトと山道を進んでいた。


「ヤマさん、ベス姉ちゃんのクッキー、サックサクだよ」


「いいな。一枚くれ。」


岩ノ山とリクは、満載の荷物の重みを心地よく感じながら、

笑い合って大荷車を引いている。


山は静かに、

二人を迎えようとしていた。



第二部 領都編

第七話 につづく

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