第2話 残差
第120サイクル 第2日 晩
一
図上の光点が、一つ、また一つと消えていた。
葬送平原の縮尺八千分の一。照明式の出力を絞った天幕の内側で、戦況図は昨日の朝とは別の地形を描きつつあった。北翼に広がっていた連合側の反応群は、第一日の広域熱収束陣による円形の空白を中心にして、大半が既に図上から除かれている。
ギルベルトは一連の数値を頭の中で更新した。
北翼前衛の制圧率、九十一パーセント。西側補給線の進捗——第三補給点は今朝の第七刻に制圧完了、第四補給点は現在交戦中、推定陥落時刻は第二日の終わりから第三日未明の間。
予定通りだった。ほぼ。
ギルベルトは「ほぼ」という語を、自分の内側で一瞬だけ留めた。
二
三つ、誤差があった。
一つ目。第三補給点の陥落時、内部の備蓄物資の半分以上が既に焼却されていた。守備隊の標準的な撤退処置は重要書類の破棄までで、物資そのものの焼却は通常間に合わない。間に合わせた、ということになる。あるいは、陥落が決まる前から焼却の準備を始めていた。
二つ目。連合側の偽装補給ルート——実際には使われていない陽動用の経路が三本あった——そのうちの一本が、第二梯団の浸透開始と同じ頃に放棄された形跡があった。陽動は陽動のまま維持するほうが敵の資源を無駄に使わせる。定石に反する。
三つ目。連合の伝令と見られる単独反応が、昨日の夕刻から今朝にかけて、通常は使用されない北東の迂回経路を辿っていた。第四補給点から中翼指揮系統への連絡は、西側街道が最短かつ最安全である。それを避けた経路選択には、合理的な説明がつかない。
個別に見れば、いずれも誤差の範囲だった。規則性は誤差ではない。
ギルベルトは図上から視線を外した。
「クラウス」
背後の側近が一歩進み出た。
「第二梯団の偵察範囲を広げる。現在の浸透経路の両翼、東西それぞれ三キロ。昨夜以降の連合側伝令反応を洗い直せ。北東経路の単独反応について、通過時刻と地点の完全なリストを出せ」
「了解しました」
「もう一つ。第三補給点で焼却された物資の内訳を、現場の術者に推定させろ。どの品目が優先的に焼かれたかが分かれば、連合側が何を守ろうとしていたかの輪郭が出る」
クラウスは復唱せず、天幕を出ていった。命令の構造を把握した上で無駄な動作を省く足音だった。
二
天幕の布が動き、ローラントが入ってきた。
「同期率、第二日の最終値を持ってきた。電磁障壁陣、九十八・六。第一日の立ち上がり値を維持している。遮蔽式の外殻は九十七・八で安定」
「第三日の見通しは」
「明朝から空間マナ濃度が低下する。残存電子密度は現時点で三十四パーセント。明日の正午には二十を下回る。障壁陣は維持可能だが、広域熱収束陣の追加起動は第三日午前のうちが限界だ」
葬送平原の気温はこの一時間で一度半下がっていた。マナの遷移による吸熱が、地表の微気候を静かに変えている。転換点の近づきは既に演算に組み込まれていた。
「第三日午前中に広域熱収束陣をもう一度起動する可能性がある。対象座標は未定。術者の予備回しは任せる」
「承知した」
ローラントは用が済んだかに見えた。しかし天幕を出る前、一度だけ図上に目をやった。
「西側補給線の制圧は、順調に進んでいるな」
「数値は順調だ」
「数値は、か」
ローラントは短く息を吐いた。笑いに似た何かだったかもしれない。ギルベルトは何も返さなかった。ローラントは踵を返して天幕を出ていった。
一人になった天幕の中で、ギルベルトは図上の三つの誤差点を眺め続けた。
第一日の朝、広域熱収束陣の円縁部に明滅していたごく微弱な反応のことを思い出した。規模が小さすぎるために「許容誤差」として処理した、あの光点。第二日の進行とともに、反応は図上から途絶えている。単独の反応は一度索敵範囲の外に出れば、その後の経路は逆算によって推定するしかない。
逆算すると、あの光点の描き得る軌跡は、三つの誤差のいずれとも一致しない。
一致しない、という事実は、それ自体が情報である。三つの誤差と独立に存在する可能性か、あるいは既に完全に退場している可能性か——どちらも現時点では「処理済み」の範疇に入る。
処理済み。誤差。許容値。統計的残差。
いずれもギルベルトが日常的に使う語彙の一部だった。それらの語は一度も彼を裏切ったことがない。数値は嘘をつかず、閾値は恣意的に決めれば恣意的に振る舞う。言葉と現実のあいだに齟齬はなかった。
昨日の朝までは、そうだった。
三
第120サイクル 第3日 未明
第四補給点陥落の報は、第三日の未明、クラウスが持ち込んだ。
陥落自体は予定通りだった。予定と異なっていたのは、補給点の陥落と同時に、連合の中翼右側面が三キロ後退して新しい陣形を組み直していたことだった。後退ではない。陣形が崩れた形のまま、意図的にその形で再配置されていた。
崩れた形は、戦術的には防御に不利である。ただし、崩れた形で夜を越せば、転換点を経て沈黙期に入る際に、崩れた部分が物理的障壁として機能する可能性が出てくる。
その可能性を、連合の指揮系統は第三補給点陥落の直後判断している。
判断の速度が、定石の速度ではなかった。
ギルベルトは新しい戦況図を投影させた。連合中翼右側面の陣形は、彼の頭の中にあった「連合がここで取るであろう標準的対応」のいずれとも一致しなかった。一致しないパターンは、三日前の時点では存在しなかった選択肢だった。
三日前までは、連合は定石で動いていた。
今朝の連合は、定石の外で動いている。
定石の外は、必ずしも優れた戦術を意味しない。大半の「定石の外」は、指揮系統の混乱や情報伝達の遅延による劣化である。だが、そうではない「定石の外」もある。その場合、外側には別の定石が存在する。別の定石を持っている側は、こちらの定石を既に読み終えていることが多い。
誤差、と頭の中で呟いた。
その語は、昨日までと同じ形をしていた。同じ形のまま、微かに軽かった。
ギルベルトは天幕の外に出た。
葬送平原の第三日の朝は、第一日の朝より灰色が濃かった。空気は乾き、肌に触れる感覚が薄くなっている。空間マナ濃度低下による微細な静電気の欠落——経験のある魔術師であれば皮膚で捉えられる変化だった。
転換点が、始まっていた。
ギルベルトは丘の上に立ち、昨日と同じ風景を見た。風景は同じだった。図上の数値も、大半は予定通りだった。ただ、図上の三つの点と、新しい連合陣形と、明滅が途切れた一つの光点が、彼の内側で一つの形を持ち始めていた。
その形を、ギルベルトはまだ言葉にしなかった。
言葉にしなかったものは、演算系には存在しない。
用語解説:転換点(マナ枯渇サイクル)
大陸の戦争において、戦術の根本的な切り替えを迫られる時期。
空間に充満するマナは無尽蔵ではなく、両軍が大規模魔法を連発する「励起期」が数日続くと、戦場一帯のマナは使い尽くされて一時的な枯渇状態に陥る。この魔法が不発になり始める境界の時間を「転換点」と呼ぶ。ここから数日間、戦場は魔法を失い、鉄と血が支配する泥沼の白兵戦(静寂の殺戮期)へと移行する。




