第1話 展開
第120サイクル 第1日
図上の光点が、呼吸するように明滅していた。
天幕の内側は薄暗い。照明式の出力を最低まで絞ってあるのは、地形図に投影された術式反応の微細な色差を読み取るためだ。葬送平原を縮尺八千分の一に落とし込んだ図上を、ギルベルト・フォン・ハインラインの指先が北東から南西へとなぞった。
連合の前衛が、丘陵の稜線に沿って展開を始めている。
索敵式の反応点を数える。二十四。右翼端に微弱な反応が一つ。遮蔽式で半ば隠されたそれは、単独の術者か偵察の残滓か。どちらにせよ変数として小さい。
問題は中央だった。連合の主力は南西低地に三列の陣形を敷きつつある。前衛が術者混成、中衛に歩兵、後衛にハイ・ナイトの予備。定石通り。ただし前衛の術者密度が通常の一・四倍。反応濃度からの逆算で百二十名前後。
励起期の初手から術者を前に出す。
指が図上の一点で止まった。連合前衛と帝国側展開予定地点の中間——二キロ四方の空白。術式反応がない。
「クラウス」
背後に控えていた側近が一歩で距離を詰めた。
「第二梯団の展開ポイントを変更する。北に二キロ」
図上から視線を外さないまま言った。クラウスは復唱も確認もしなかった。それが彼の美点だった。ギルベルトが言い、クラウスが実行する。命令の意図を理解しているかどうかは、この際関係がない。
足音が天幕の外へ消えた。
空白地帯が罠か展開の遅れかは、現時点では問わない。北に二キロずらすことで第二梯団は丘陵の反対側に回り込み、電磁障壁陣の展開角度に余裕が生まれる。それで十分だった。
天幕の入口の布が捲れ、ローラント・ハルトが入ってきた。外套の裾に朝露の湿り気。夜明け前から外にいたのだろう。
「同期率、報告する」
ローラントは図上の前に立ち、ギルベルトと並んだ。二人の間に敬礼はなかった。
「魔術師五名、全接続済み。魔道士五百、同期率九十八・二。あと三十分で九十九に届く」
「第四術師の遅延は」
「解消した。位相を一つ繰り上げた。ルーカスが自分の持ち場から直接補正をかけた」
「ルーカス・ツー・エーベルか」
「貴族の三男は手が早い」
ギルベルトの口元がわずかに動いた。笑みとも呼べないその変化を、ローラントは見逃さなかった。見逃さない人間だった。
「展開開始は予定通りか」
「予定通りだ。遮蔽式は障壁陣の外殻に重ねて同時展開。起動は私の号令で統一する」
「了解した」
ローラントが踵を返しかけて、一度だけ振り向いた。
「ギルベルト」
名前で呼ぶのは、この男くらいだった。
「何だ」
「いい朝だ」
ギルベルトは図上を見たまま、何も返さなかった。ローラントはそれで満足したように天幕を出ていった。
——いい朝だ。
曇天。低温。東風。戦場としては標準的な条件に過ぎない。ローラントが何を以て「いい」と判断したのか、ギルベルトには理解できない。だがその演算不能性こそが、ローラント・ハルトという変数の価値だった。
三十分後、ギルベルトは天幕を出た。
葬送平原の朝は変わらずの灰色だった。過去のサイクルで放出されたマナの残滓が土壌を侵し、草も疎らな荒野が広がっている。遠い丘陵の稜線は霧に溶け、地形図上の線分のようだった。
術者たちの列が、既に形成されていた。
五百名。
五名の魔術師を中心に、百名ずつの魔道士が扇状に配置され、その間を魔導士たちが走り回って同期信号の微調整を繰り返している。詠唱はまだない。声もない。五百の人間が所定の位置に向かって歩き、その足音だけが朝の平原に低く響いている。
ギルベルトは小高い丘の上に立った。風が外套を叩く。秒速四メートル。術式展開への影響は無視できる範囲。
五百の術者の呼吸が、徐々に揃い始めていた。同期率という数値はあるが、それは術式経路の位相一致度を示すだけの指標であって、五百の人間が一つの回路に溶けていくあの静寂とは別のものだ。
その静寂が、今、葬送平原に降りつつある。
ギルベルトは丘の南西——連合側の戦線が広がるはずの方角——に視線を投げた。霧の向こうに気配はない。索敵式の反応にも変化はない。連合の前衛は依然として南西低地で陣形を整えつつあるはずだった。
胸の奥で、何かが一拍だけ拍子を外した。
戦場が大規模術式の起動前にしばしば見せる、空気の張り詰めの一種——とでも呼ぶべきものか。演算可能な変数ではなかった。だが優れた指揮官ほど、この種の予感のような微細な拍動を経験的に知っているものだとされる。葬送平原のどこかに、まだ図上に上っていない何かがある。あるいは——ない。どちらでも構わなかった。展開の手順は変わらない。
ギルベルトは呼吸を変えなかった。表情も変えなかった。左手で外套の裾を押さえ、右手を上げた。
五百の術者が同時に動きを止めた。
「展開開始」
声は大きくなかった。だがその二語は遠話式を通じて五名の魔術師に届き、魔術師から魔道士へ、魔道士から隣の魔道士へと伝播した。号令が届いた順に両手を掲げ、演算を開始する。最初の魔術師が起動し、同心円状に陣列が接続されていく。
空気が変わった。
大気中のマナが目に見えない奔流となって演算経路に吸い込まれていく。気温が一度、二度と下がる。マナの励起状態から安定状態への遷移が周囲から熱を奪う——その物理法則が、五百名の同時演算によって戦場の規模で発現している。
吐く息が白くなった。
ギルベルトは丘の上から、生きた人間が演算素子として接続され、個々の思考を一つの術式に明け渡していく光景を見ていた。同期率が九十九・三に達した。遮蔽式の外殻展開が障壁陣の〇・七秒後に追従している。連合側の索敵反応に変化なし。
全て、演算の範囲内だった。
帝国の最初の手は、静かに、正確に打たれた。
電磁障壁陣の起動から十二秒後、葬送平原上空の電位構造は一変していた。
半径八キロ。その範囲内のあらゆるマナの流れが、五名の魔術師と五百名の魔道士が構築した巨大な演算系の支配下に組み込まれた。連合側の遠話式は通信を維持できない。索敵式は誤った反応を返す。狙撃用の光収束式は焦点を結ばない。彼らの戦場は、この瞬間、目隠しと耳栓を同時に施された。
ギルベルトは右手をもう一度上げた。
別動の魔術師三名と魔道士三百名が、丘の北側斜面に既に展開を終えていた。広域熱収束陣。並列起動理論が世に出てからの数十年間、両軍が幾度となく運用してきた攻撃術式である。新しい技術ではなかった。新しいのは、それが今この瞬間に発動するという文脈の方だった。
通信を奪われた敵に向けて、見えない位置から、座標精度の限界まで研ぎ澄まされた術式が放たれる。
「収束、開始」
声は風に紛れた。だが命令は届いた。
葬送平原の南西低地——連合前衛が陣形を整えつつあった一帯——の上空に、不可視の収束点が形成された。半径三百メートルの円内で、空間に充満していた不安定電子が一斉に演算系に取り込まれ、安定状態への遷移を強制される。物理学的には熱の解放であった。視覚的には、それは別のものだった。
空気が白く焼けた。
次の瞬間、円内の地表が、その上に立っていた全てとともに、燃えるという段階を飛ばして消失した。爆発ではなかった。爆風も衝撃波もなかった。ただ、そこにあったはずのものが——三列に整然と組まれた歩兵の陣形も、後衛のハイ・ナイト予備隊も、地形を覆っていた朝霧も——一つの円形の境界の内側からまとめて存在を抜き取られたかのように、なくなっていた。円の縁では、地表が綺麗に切り取られ、ガラス質に焼結している。
幾何学だった。
ギルベルトの目に、それは数式の顕現としてしか映らなかった。座標。半径。エネルギー密度。それらの変数が定義した境界の内側で、定義通りのことが起きた。それ以上でも以下でもない。連合前衛の兵力は、推定で三千名前後。そのほとんどが、定義の内側にいた。
丘の上から、ギルベルトは戦況図を再投影させた。
索敵式の反応点が、ごっそりと消えていた。残存反応は、円の外側に取り残されたわずかな部隊と、後方の予備兵力のみ。圧倒的な数値の差。連合の葬送平原前線の主力は、この一手で機能を失った。
ギルベルトの視線が、図上の一点で止まった。
円の縁——焼結した地表と未燃焼の地形が接する境界線の、ほぼ真上。そこに、ごく微弱な反応が一つ、明滅していた。
「ローラント」
いつの間にか丘に上がっていた術者部隊指揮官が、半歩進み出た。
「見えている。円縁部、座標〇四—一七」
「規模は」
「単独。あるいは三名以下。生体反応の同期パターンから推定して、術者ではない。指揮系統の末端か、伝令か」
ギルベルトは図上の光点を見た。電磁障壁陣の支配下で、しかも収束陣の直撃圏の縁にあって、なお反応を返している——その事実だけが、わずかに演算の外に立っていた。投入兵力比に対する生存率を概算する。〇・〇一パーセント以下。統計的には存在しないに等しい数字だった。
「処理しますか」
ローラントの声は事務的だった。
ギルベルトは数秒、その光点を見ていた。
追撃のために第三梯団を割けば、戦線の他箇所への展開速度が落ちる。第二梯団の北回りはすでに進行中で、これに合流させるには距離が遠すぎる。光収束式による狙撃を割り当てるには、対象の規模が小さすぎる——術式の消費マナに対して見合わない。
戦況全体への影響を演算する。
無視できる範囲だった。
「許容誤差だ」
ギルベルトは図上から視線を外した。
「次の展開に移る。第二梯団の進捗を上げよ。北回りの完了を予定より十五分早める」
「了解した」
ローラントが踵を返した。光点は図上に残されたまま、誰の手も加えられないことが決定された。ギルベルトはすでに次の演算に入っていた。葬送平原の制圧は、最初の手の完璧な成功によって、最短の経路で進行している。残された変数は微小であり、構造的に処理されるか、あるいは構造の外側で消えていくかのいずれかでしかない。
風が外套の裾を叩いた。
葬送平原の朝の灰色の空の下で、第百二十サイクルの第一日は、帝国の演算が想定した通りの形で進んでいた——図上の隅に明滅し続ける、ただ一つの光点を除いて。
世界観補足:マナの本質とエントロピー
本作における「マナ」とは、空間に遍在する極めて高位なエネルギーの奔流を指す。術者が行う演算とは、この暴れ回るエネルギーを強制的に「安定状態」へと遷移させる一種のプログラミングであり、そのプロセスにおいて不可逆的に放出される熱や衝撃が「魔法」として戦場に顕現する。




