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第3話 あの感じ

第120サイクル 第3日

馬車の車輪が、固い土の上を不規則に跳ねていた。


葬送平原の北縁を走る軍用街道は、二日間の励起期に魔法の余波で何度も削られたせいで、路面の起伏が想定の倍ある。エリオット・ヤングは座席の隅に体を預け、揺れに合わせて頭が壁に当たらない位置を計算した。失敗した。


「痛い」


「五度目です」と向かいの席のマーカスが言った。


「数えるな」


「数えていません。覚えているだけです」


二十二歳の補佐は膝の書類から視線を上げない。入隊半年で「記憶力が確か」という評判を獲得し、それから半年で「記憶力しかない」という別の評判も同時に獲得した人間だった。どちらも事実だった。


窓の外を、負傷兵の列が流れていた。


反対方向。前線から後方の野戦病院へ向かう流れ。歩ける者は歩き、歩けない者は荷車に積まれ、荷車の数は足りていない。血と土の匂い。焦げたオゾンの残り香。白く固まった包帯の、不規則な色の滲み。担架代わりの外套にくるまれた誰かが、馬車の窓のすぐ横を通過していった。顔は見えない。見えないほうがいい。


「マーカス。北翼の損耗、最終値は」


「未確定ですが、推定で前衛兵力の九割が機能停止です」


「九割」


「はい」


「すごい数字だね、それ。だめな意味で」


マーカスは顔を上げない。エリオットは窓に向き直った。北翼前衛——三千名前後——の九割。残り一割は、円縁部の生存者たちだろう。


「中翼と南翼は」


「三割から四割で踏みとどまっています。第二日は両陣営とも消耗戦に入り、負担は北翼に比べれば軽微でした」


「軽微、ね」


「比較上の話です」


「比較って便利な言葉だよな。何でも軽くなる」


「ところで北翼で何が起きたか、誰か説明できる人間はいるのか」


「生き残った術者の証言が断片で上がっています。第一日の朝、前衛展開の最中に、突然『盤面が消えた』と」


「盤面」


「索敵と通信が同時に落ちたそうです。『目と耳が一度に塞がれた』という言葉を使う者が何人か」


「ふうん。目隠しされて、殴られたわけだ」


「はい」


「殴った側は、殴る前からこっちが何も見えなくなってるのを知ってた」


「と、いうことに」


「綺麗な手順だね」


綺麗な、と自分で口にして、エリオットは少しだけ奇妙な気分になった。兵士が三千人単位で消える事象に使う言葉ではない。だが他に当てはまる言葉がなかった。あの手順は綺麗だった。組み立てとしては、芸術に近かった。


この二日間の帝国の動きを頭の中で並べ直す。第一日の北翼蹂躙、第二日の中翼への圧力のかけ方、補給拠点周辺の索敵の入れ方。揃っている。揃いすぎている。


委員会の作戦は必ずどこかが鈍る。鈍るから、現場で「合議の跡」が見える。今回は見えない。鋭利すぎる。角が立ちすぎている。一人で書いた譜面のような揃い方。


一つの頭がある。


「マーカス。帝国の北方面軍、現指揮官は」


「ベルンハルト・フォン・クラフト方面軍司令官です。強硬派、無骨、寡黙。戦術上の癖としては『物量で押す』タイプという評価です」


「物量、ね」


違う、と思った。物量で押す男は、こんな目隠しの段取りをしない。あれは物量じゃない。あれは設計だった。


ベルンハルトの下に、誰かいる。その誰かの顔を、エリオットはまだ知らない。名前も知らない。知っていることは、手癖が綺麗すぎるということだけだった。


馬車の外の空気が、変わった。


路面の凹凸は変わっていない。揺れは続いている。だが外気の手触りが、薄くなっていた。エリオットは窓ガラスに指の腹で触れた。冷たかった。肌に張り付いていたものが剥がれていく手触り。経験のない人間には伝わらない。経験のある人間には、忘れたくても忘れられない。


あの感じが来た。


「マーカス」


「はい」


「来てる」


「……はい」


短い返事だった。マーカスも分かっている。補佐が黙って書類に目を落とす時、その書類に本当に必要な情報があるとは限らない。ただ目を落とすところが他にないだけだ。


「……有能な指揮官がいなければ、の話だが」


半分は独り言だった。


戦況の話だった——第三日まで来て連合が立っている以上、普通に考えれば悪くない、沈黙期に入ればハイ・ナイトが動ける時間ができる、普通に考えれば悪くない、ただし帝国側に有能な指揮官がいなければの話だ、という文脈の、最後の一句だけを口から出した。


返事は期待していなかった。


返事はなかった。代わりに、マーカスが書類から目を上げた。エリオットを見た。視線を戻した。ほんの一秒の動作だった。一秒分、補佐の顔が微妙だった。


「何」


「いえ」


「何だよ」


「上級参謀、その独り言、前にも聞きました」


「いつ」


「先月」


「結果は」


「……的中しました」


「そうか」


それはよくなかった。


馬車の側面が叩かれた。


二度。三度。荒い叩き方ではなかったが、礼節のある叩き方でもなかった。マーカスが戸口の留め具に手を伸ばす。


扉が外側から押されて開き、若い男が一人、半ば転がるように馬車の段に乗った。


泥だった。軍装の下半身が泥だらけで、膝から下の形がほぼ分からなくなっていた。肩に黄色い布——伝令の証——を巻いている。布の端が千切れて垂れていた。息が上がり、生え際から顎先まで汗が流れていた。馬では届かない最後の数百メートルを、自分の足で詰めた人間の汗の流れ方だった。


二十代後半。階級章は将校。顔は、知らない。


「報告」


その一語で声が乾いていた。エリオットは右手を上げて制した。


「水」


マーカスが革袋を取って差し出した。男は一口だけ飲み、二口目には行かなかった。残りを返した。喉の渇きより報告を優先することを、体で覚えている動きだった。


「西側補給線、第三補給点と第四補給点の間、突破されました。敵部隊は中隊規模、進入経路は北側の丘陵地帯です」


馬車の中の空気が、変わった。


エリオットは姿勢を変えなかった。軽口も出さなかった。


「北側の丘陵」繰り返した。「迂回されたな」


「はい」


「補給点は」


「第三は陥落。第四は交戦中ですが、守備隊の規模からして長くは持ちません」


短い沈黙。


地図が頭の中に広がった。第三が落ちれば北翼残存部隊への補給が途絶える。第四が落ちれば中翼の右側面が浮く。右側面が浮けば、転換点である第三日のうちに戦線全体が一段下がる。下がった戦線を立て直すには、沈黙期の白兵戦を覚悟しなければならない。


一本の線で繋がっていた。第一日の北翼の目隠しから、ここまで。


あの設計者だ。こちらの補給線の構造を、最初から織り込んで動いている。


「マーカス。ロイに伝令を——通信は落ち始めてるから、こっちも物理で回す。第四補給点の守備隊を撤退、補給物資は焼却処分、在庫表は最新版を持ち出させろ。第三補給点は諦める」


「物資は」


「燃やせ。敵に渡すよりはマシだ」


マーカスは返事をせず、書類の上に走り書きを始めた。それが彼の返事だった。


エリオットは伝令の男を見た。まだ半ば段に立ったままだった。


「君、名前は」


「は」


「名前」


「エリック・ソール、です」


「階級は」


「将校。北東地区第二連隊所属です」


「年齢」


「二十九です」


数秒、エリオットはその男を見ていた。泥。乾いた喉。汚れた肩。黄色い布。最後の数百メートルを走った足。


「エリック」


「はい」


「もう一仕事頼めるか」


「はい」


「中翼の現場指揮官に、口頭で伝えてくれ。『右側面の補給は来ない。撤退ではなく、内側に折りたたむ。陣形は崩していい。崩した形のまま夜を待つ』」


「右側面の補給は来ない。撤退ではなく、内側に折りたたむ。陣形は崩していい。崩した形のまま夜を待つ」


「合ってる。行け」


エリックは扉から飛び出した。馬車の段から地面までを、降りるというより落ちる動きで詰めた。走る足音が遠ざかっていく。


扉が閉まった。


エリオットは数秒、座席の隅に座ったままだった。


「上級参謀」マーカスが顔を上げた。「どうしますか」


エリオットは答えなかった。代わりに戸口の留め具に手を伸ばし、自分で扉を開けた。冷たい空気が馬車の中に流れ込んだ。さっきより、もう一段薄くなった空気だった。


片足ずつ、地面に降りた。


葬送平原の北縁の街道。負傷兵の列はまだ流れていた。空はまだ灰色だった。足の裏に固い土の感触が戻ってきた。二日ぶりだ、と少し思った。


「上級参謀、ここは——」


「前線じゃない」


エリオットはマーカスを振り返らずに言った。


「まだ」


風が頬に触れた。薄かった。

用語解説:精鋭騎士ハイ・ナイト

エリス都市連合軍が誇る、対魔法・対システム用の特殊歩兵。

彼らの真骨頂は、魔法が使えなくなった「静寂の殺戮期」にこそ発揮される。マナが消えた瞬間に身体能力を極限まで引き上げ、非魔法的ガジェットと高周波振動剣を駆使して敵陣へ肉薄する。巨大な演算システムを「外科手術的な物理破壊」によって機能不全に陥らせる、連合軍最大の牙である。

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