第七十話 そして、はじまり
大きな揺れだった。
山が唸り声を上げたように震え、斜面の岩石が次々と転がり落ちていった。
俺にできることは、その岩の一つがこちらへ来ないことを祈るだけだった。
少しずつ轟音が遠ざかる。揺れもだんだん弱くなると、やがて止んだ。
静寂が戻ってくる。だが、いやな静けさだった。獣が息を潜めているような。
俺は恐る恐る顔を上げた。見える景色は相変わらず、雪と岩ばかりだった。どこがどう変わったのかも分からない。
「大丈夫か? ヒース」 俺は、動揺を隠しながら、彼女に尋ねた。
「ええ。私は平気」 彼女も、息を落ち着かせながら応えた。
幸いにも、俺たちは怪我を負わずに済んだようだ。
だが、安心したのは束の間だった。別の心配が頭をよぎる。
──こんな揺れだ。もし、地下で崩落でも起きていたら。
あの調査団の連中に恩はないが、そんなことは問題じゃなかった。
「ヒース、悪い。頂上には行けそうもない。あいつらの無事を確かめないと……」
言った瞬間、胸の奥が少し痛んだ。だが、放ってはおけなかった。
三人の約束は、また果たせばいい──この時、俺はそう考えていた。
「……そうね」 ヒースは、少し寂しげだった。
真っ直ぐ彼女を見れない俺を、哀れんでいるようでもあった。
「でも──」 山から吹く風が、彼女の髪を揺らす。
「私も一緒に行く。スタイン一人じゃ、困ることもあるでしょ」
微笑んだその顔は、あの日と何も変わっていなかった。それが、俺には一番心強かった──。
俺たちは足を速め、山を下っていった。
急がなくてはいけない。そうは思うのに、胸の奥に何かが引っ掛かっていた。
妙な胸騒ぎだった。調査団の連中が心配なのは確かだ。だが、正直に言えば、それほど深い付き合いでもない。
それなのに、嫌な予感だけはどんどん大きくなった。その正体が何なのか、俺にはどうしても分からなかった。
しばらくして、地下水路の入り口が見えてきた。
入り口は塞がっていないようだ。俺は、不安を振り払うように、安堵の息を吐いた。
だが、入口にいたはずの団員の姿はない。
「誰もいないな……」
俺は周囲を見渡した。そこには、人の気配すらなかった。
仲間を心配して中へ入ったのか。それとも、危険を察して逃げ出したのか。判断がつかない。
俺は眉をひそめた。その暗い入口を前に、辺りはあまりにも静かだった。
だがもし、中に取り残されているなら、迷ってる暇はない。
「ヒース。お前はここで待っていてくれ」 何も二人して、こんな危険を冒す必要はない。
「嫌」 だが、すぐさま返答が返ってきた。
「一緒に行くって言ったでしょ」 言い返すより早く、腕を掴まれる。
無理して微笑む顔を見たら、俺は何も言えなくなった。
本当は──俺は……いや、そうだな。俺は決心した。
そして、再び地下水路へと視線を向けた。その時──俺は、見てはならないものを見た。
闇が蠢いていた。
何も見えないはずの暗闇で、確かに何かが動いている。
得体の知れない何かは、その闇の深淵から、こちらを見ていた。
俺はとっさに、剣を構えた。隣で、ヒースも杖を構えた。
剣なんて、まともに振ったこともない。なのに、俺が逃げ出さなかったのは、この剣のおかげだろうか。それとも、守りたいものがあったからだろうか。俺にも、分からなかった。
闇の中から、腕が伸びる。
いや、”腕”のように見えただけ。それが本当に、腕なのかも定かじゃない。
ただ、暗闇そのものが形を取って、ぬるりとこちらへ迫って来た。
「ッ――!」 考えるより先に体が動いた。咄嗟に剣を振るう。
剣術なんて知らない俺の剣が、闇をかすめる。かすめたように見えた。当たったのかも分からない。まるで感触がない。
本当に、ただ闇に剣を振るっただけの手応えしかなかった。
しかし、それだけの攻撃で、闇の手は動きを戻した。
効いたのか──? そもそも、今のが何だったのかさえ、何一つ分からなかった。
次の手が、今度はヒースを襲う。
だが、彼女は動じていなかった。すでに、呪文は唱え終えている。
水路に繋がる湖面が震え、水が立ち上がる。それは、俺たちが出会った時の、あの水蛇の魔法だった。
巨大な蛇のようにうねる水流が闇へと噛みつく。濁流は闇の手を飲み込み、そのまま押し流した。
だが、消し飛んだはずの闇は、しばらくすると煙のようにまた集まり始めた。何事もなかったかのように。
なんなんだ、これは? 多分、ヒースも同じことを思っただろう。
呼吸を整える。だが、上手くいかなかった。
まだ、怪我もしてない。大したこともしちゃいない。
それなのに、体は正直だった。心臓が、嫌な音を立てていた。
本能は叫んでいた。戦うな、と。逃げろ、と。
その瞬間だった。
まるで、俺たちの恐怖を嗅ぎつけたように、闇が大きく広がる。その暗黒の中から、数えきれないほどの腕が溢れ出し、一斉に俺たちへ襲い掛かった。
それは、あまりにも数が多すぎた。
「ヒース!!」 叫びながら、俺は彼女の前へ飛び出した。
魔法じゃ、こんな全方位の攻撃に間に合わない。いい考えがあったわけじゃない。せめて、俺が盾になるしかなかった。
俺は、必死に剣を振るった。元からやれることはそれしかない。右から来た手を払い。振り返りざまに左を斬る。
ただそれだけの、俺の下手糞な剣は、敵の数に通じるはずもなかった。
闇の手が一つ、俺の剣をすり抜ける。そして、腹にめり込んだ。
「がッ──!」
内臓がひっくり返りそうな衝撃に、呼吸が止まる。動きが止まった一瞬の隙を、見逃さず闇の手は畳み掛ける。
無数の衝撃が容赦なく俺を襲った。俺の体はいとも簡単に弾き飛ばされた。
俺は、ヒースを庇うことすら出来なかった。
体が宙を舞う。まったく抗うことも出来ず、そのまま背後の湖に、俺の体は沈んでいった。
”……ヒース” 意識が遠のく。視界が暗くなる。
体の上下も定かでないまま、彼女の無事だけが気になった。
くそ……情けない、体が動かない。
──いつもそうだ。俺はその場しのぎで、運任せで、なんとかなってただけだ。
体が溶けていくみたいだった。冷たい水の中に。
”エゲプロン……” もう一人の友人の顔が浮かぶ。
──ごめん。あんたの剣は、無駄になりそうだ。
意識が薄れていく。体も限界だ。俺は、このまま……
でも……この手には、まだ、エゲプロンの剣が握られていた。
……ああ、そうだ。俺はいつだってそうだ。
……いつも、いつも、最後の最後になってからの神頼みだ。
──神よ。どうぞ、痛みも、苦しみも、好きなだけ与えて下さい。だからどうか……あと少しだけ、生かせ。
湖に、光の柱が立ち上がった。
自分でもどうやったのか分からない。俺は、水の上に立っていた。
──なんだよ神様。俺が大好きかよ。
ふと、視界の先で、ヒースが倒れている。
(ごめん。守れなかった……) 剣を握る手に力がこもる。
(でも、あいつは、倒すから──) 俺は水面を蹴り、駆け出した。
一直線に、敵へと迫る。そこに、無数の手が伸びてくる。
だが今は、その動きがよく見えた。剣すら使わず、体が自然と攻撃を避ける。
──こんなのに構っていてもしょうがない。本体だ。あの闇の中に、切り込まないと。
最小限の動きで敵の攻撃を躱しつつ、地下水路の闇の中へと、俺は突入した。
その瞬間、闇は激しく蠢き出す。それは、その奥に潜む何かの意志を表していた。
──そうか、お前も怖いのか。
闇が脈打つ。それは、次の攻撃の力を溜めてるみたいだった。
俺は剣を構える。刃の白光が、激しさを増す。
次の瞬間──光と闇が交差した。
◆
──「……イン! スタイン!」
俺を呼ぶ声がする。うるさいな。寝かしてくれよ。
「スタイン! スタイン!」
体まで揺らしてきやがる。なんだよ、わかったから。目を、ゆっくりと開けた。
(ああ……ヒースか)
(ボロボロじゃないか。でも……よかった。生きてて……)
ああ、思い出した。それが分かっただけで、十分だ。だから……泣くなよ。
「スタ──! ス──!」
静かに、なってきた。わかって、くれたか。そう……もうちょっと、寝かしてくれ。
(こんなに、早く会いに行ったら、あんたは怒るかな……)
(それとも、笑ってくれる、かな……)
「なあ……」 約束は、また、な……
──『魔界門』は、開かれた。
長き時の白き封印は解かれ、人の世界と、魔の世界は繋がった。
その闇を、たった一人の男が退けた。
彼は、英雄として生きたわけでもなく、世界を救おうとしたわけでもない、ただの名もなき村人だった。
だが、闇は滅んではいない。
ほんのわずかな、束の間の猶予を生んだに過ぎなかった。
門は開かれたまま、闇はまた必ず蠢き出す。
戦いのあと、残されたひと振りの剣は、何も語らぬまま、スタインの生家へと届けられた。
その白き輝きは、人の未来を静かに照らしていた。
第三章 聖地防衛作戦 完




