第六十三話 血の迷い
砂漠には風が吹いていた。だが、その中心にある城の玉座は、異様なほどの静寂に包まれていた。
その中で、ペルガメントは重い口をゆっくりと開いた。
「……何の意味がある?」 低く落ちた声とともに、するりと片腕が持ち上がる。
掲げられたその腕は、かつての面影を残しながらも異質なものだった。
「魔に堕ちたこの身に、血の繋がりなど、意味があるのか?」
シレネに向けられた褐色の肌は、彼女のものとは違う。鋭く変質したその輪郭は、もはやエルフとは明確に異なる。兄妹であるなど、まったく分からないものだった。
シレネは、その姿から目を逸らさなかった。
「私は、過去を恨みません。ただ──未来のために参りました」
真っ直ぐな言葉だった。しかし、それを向けられたペルガメントの口元は歪む。
「過去の繋がりに縋りながら、未来を語るか──笑わせるな」
乾いた嘲笑を混ぜ、切り捨てる。
「お前を寄こした者の魂胆など、透けて見える。血縁であれば、私が耳を貸すとでも思ったか?」
届きもしない。この程度の言葉では、彼が揺るぐはずもなかった。
「その御付きを殺し、お前に首輪を掛けるとは、考えなかったのか? ──なあ?」
視線をゆっくりと横へと流し、追い打ちとなる言葉が放たれる。それは、シレネではなく、隣のヴィスネに向けられた。
その仕草は、”そうしろ”という命令の示唆にも取れた。
だが、彼女は動かなかった。ただ、沈黙したまま、その場に立ち続ける。
その彼女の行動が、是か非かの判断をペルガメントがする前に、シレネの声が響いた。
「──お兄様。魔王はもういません。私たちが殺しました。勇者もいません。私たちが殺しました」
「それでもまだ、私たちと戦いますか?」
シレネの口から届けられた言葉は、彼の顔から歪みを奪った。
それを言われて、「戦わぬ」 などと言えるはずもない。これは、挑発、あるいは脅迫に等しいものだった。
だが、ペルガメントは激情に駆られる前に考える。血縁のせいではない。今この場で、その言葉を吐く理由はどこにあるのか洞察する。
「貴様らと、同じ未来に立つなど有り得ぬ」
それは、彼の言葉であると同時に、ダークエルフの揺るぎない決意。問われるまでもない総意。
だが、彼はまだ、その口にするまでもない言葉を、言わせた理由が分からないでいた。
「では、お兄様は──私たちに勝てるとお思いですか?」
その一言は、この場にかろうじて残された均衡を破壊するものだった。
ペルガメントは猛然と立ち上がる。その顔は険しく歪み、シレネを睨みつける。玉座の静寂が軋むような視線には、抑えきれぬ激情が宿っている。
その言葉は、越えてはならない一線を踏み越えていた。誰もがそう理解した。
もはや、交渉だろうが、挑発だろうが、理由など関係ない。血の繋がりすら、すべてをぶち壊していた。
だが。ペルガメントは、その怒りを簡単には振り下ろさなかった。
これまでの冷たさとは正反対の激しい怒りをたぎらせながら、瞬きすら忘れたまま、ただシレネを見据える。
その数瞬は、彼に残されていた情を、完全に捨て去るために必要な時間だった。
やがて、彼は唐突に身を翻した。玉座に背を向け、何も言わずに歩き出す。
そのまま去るのか、と思われたそのとき、ヴィスネの前を通り過ぎる間際に──
「生きて帰すな──」 冷たく、押し殺した声が落ちた。
それだけで、十分だった。
次の瞬間。主を失った玉座の間で、ダークエルフたちは一斉に身構える。彼によって抑え込まれていた殺意が、形を持つ。
それに呼応し、シレネを守るように、ヒースも敵の攻撃に備えた。
逃げ場など無い、敵の懐の中での戦闘。
たとえ、ヒースとシレネの二人であってもこの不利を覆すのは難しい。
武器がわずかに軋み、足が砂を噛む。
この戦いは避けられない。もはや言葉は尽きた。
だが、そうさせた張本人であるシレネは、その中でまだ戦う姿勢を見せていなかった。
それでも、ダークエルフたちは有利を背に、じりじりと間合いを潰しにかかった。
獲物を確実に狩る彼らの隙の無い動きの前に、血は盾にはならず、刃は確実に喉元へと迫る。
二人は動かない。否、その見事な連携によって、動けない状況へと追い込まれた。
あと一歩、互いの刃が交わる間合いまで、ただそれだけの距離に縮まったとき──言葉が落ちた。
「──去りなさい」 刺すような囁き。
それは、ヴィスネの声だった。
その声が、ダークエルフの連携を狂わせた。この場の誰一人、予想していなかった言葉が、ほんの刹那、綻びを生んだ。
その瞬間を逃さず、ヒースはシレネの腕を掴み、強引に背後に引いた。
張り詰めていた両者の均衡が崩れる。
ダークエルフたちは動けない。王の命は絶対。なのに、ヴィスネは動かない。
そこに生まれた迷いに乗じ、二人はさらに間合いを遠くする。
殺すのか──逃がすのか──彼らを迷わせたのは、『血』だった。
その決断までのわずかな時間のうちに、ヒースはシレネを連れて逃げ去った。
追えば、まだ間に合う。だが、ダークエルフたちはその一歩を踏み出すことはなかった。
その決断に、互いの視線を交錯させる。その迷いを代弁するように、ヤルズがヴィスネに近寄った。
「……いいんですか。隊長」
それは、二人を逃がした責ではなく、王の命に背いた罪を問うていた。
ヴィスネは、すぐには答えられなかった。視線を落とし、ペルガメントが座っていた玉座を見つめる。
そして、すべてを受け入れ、口を開く。
「……いいのよ」 それだけ。言い訳も、弁明もない。
ただ、ペルガメントが捨てたものを、彼女は捨てられなかった。
その覚悟に、ヤルズはそれ以上何も言わなかった──。
◆
ダークエルフの城から逃れ、追手が来ないことを確認したところで、ヒースはようやく足を止めた。肩の力が、ゆっくりと抜けていく。
あの場は危うかった──振り返れば、まだ刺客が追ってきそうな気がした。
シレネのあの発言は、予定外だった。あの一線は越えてはならないものだった。
それでも、ヒースは何も言わなかった。責める言葉は、浮かびもしなかった。
シレネ自身も、理解していた。
あの言葉は、言うつもりはなかった。だが、ペルガメントを前にして、言わずにはいられなかった。
あの呼びかけと同時に、そのまま斬られるのなら、それでいいとさえ思った。終わりにしても構わない、と。その背に、ヒースがいることすら忘れて。
ペルガメントは、妹に挑発されたという理由だけで兵を動かすような男ではない。
そのことは、アルメリアの調査からも、なによりシレネ自身がよく知っている。
だからこそ、あの場でのシレネの偽りのない本心は、彼にとって致命的な猛毒となった。五感を麻痺させ、その毒が消えるまで、指一本動かせなくなるほどの。
だが、あの状況で二人が生き残れたのは、自分たちの力ではなく、敵側の事情だった。
偶然と必然の巡り合わせ。渡る必要のない綱渡りの果てに、最良の結果を得たに過ぎなかった。
「ヒース。ごめんなさい」
その声は、いつものように小さかった。そして、いつものように短かった。
この任務は、彼女にしかできない。シレネであるからこそ、『血』は意味を持ち、生きて帰ることもできる。
だが──成功したとしても、それと引き換えに失うものは、あまりにも大きい。
リンネにすら秘密にして、ヒースがついて来たのは、シレネのためだった。
謝るシレネは、この任務を任せたリンネにも、いつも隣にいるカシオペにも、決して見せることのない顔をしていた。
ヒースはそんな彼女を、そっと抱きしめた。




