第六十二話 純白の砂漠
「本当に、二人だけでいいのかい?」
支度を整えたシレネとヒースを前に、カシオペは不安げに声を掛けた。
「出来ることなら、私も同行したいところだけど……」
言葉は最後まで続かず、その迷いが滲んでいた。そんな彼女に、ヒースは穏やかに言った。
「たぶん、私がついて行くと知ったら、リンネは怒るわ」 小さく、微笑む。
「だから、あなたにはここで、上手く誤魔化してほしいの」
それは、千の葉の命令ではない。ただ一人の友としてのお願いだった。
カシオペは、ヒースの覚悟に返す言葉を見つけられず、息を飲み込む。
シレネは、何も言わなかった。そんな彼女をこそ、カシオペはなおさら心配していた──。
圧倒的に数で劣るエルフにとって、人間と魔族の動向を探ることは不可欠だった。
ただ、今の千の葉は、それだけでは済まない状況にある。
人間と魔族が手を組み、エルフを滅ぼす――
その最悪の選択だけは、未然に防ぐ必要があった。
そして、リンネがそのために選んだ策は、ダークエルフとの和平交渉。
その狙いは、人間たちがトルキを使ってエルフに仕掛けてきた事と、期せずしてまったく同じだった。
だが、異なるところもある。
ダークエルフは、エルフに対し並々ならぬ憎悪を抱いている。そもそも、話し合いができる余地が、最初から無いのだ。
それでも、この策を推したリンネには確信があった。シレネであれば、間違いはない、と──。
二人は、ダークエルフの城を目指し、砂漠を進む。
冷たい死の灰を思わせる、雪が解けたような白い砂。所どころに生える背の低い針葉樹と、小さな湿地。
たったそれだけの純白の景色が、二人の前には永遠と広がっていた。
「シレネ、この方角で合ってる?」
向かう先に、目印になるようなものが無い空白を指さし、ヒースは問いかける。
「うん、合ってる」 その答えは短い。
彼女には、向かうダークエルフの城の位置が、正確に分かっていた。
その短さは、彼女のほんのささやかな抵抗だった。
焼けつく風を遮るものがない砂漠は、森を住処としてきた二人にとって過酷な道だった。
だが──その単調だった苦行は、唐突に断ち切られる。
「──お嬢さん方。一体、何をしにこんなところへ?」 不意に、耳元に響く声。
背後を振り向くと、声の主は確かにいた。一人のダークエルフの男が、そこに立っていた。
人の気配などまったく無かった砂漠の真ん中に、奇術のように、その男は武器も持たずに、突然姿を現した。
二人を見据えるその目は、外套に身を包み、顔も体も隠している二人を女と見抜いている。
というのに――振り向いたシレネとヒースを前にしても、男の表情は微動だにしない。
エルフが自分たちの領地に侵入するなど、ダークエルフは到底赦せるはずがないというのに。
ヒースは、一歩も退かずに応じた。
「私たちが砂漠を越える理由は一つ。あなた方の王に、会うためです」 一切、包み隠さない真実。
男は、顎を軽く持ち上げ、射抜くような視線を向けた。ほんの少しの沈黙。のち、突如横を向く。
「ルスケ! お前は先に帰ってろ!」
張り上げられた声が、静寂を引き裂いた。その視線の先、少し離れた砂丘の陰に、もう一人の男がいた。
こちらに弓を引き絞り、構えていたダークエルフ。
だがそれも、命じられるまま下ろすと、ルスケと呼ばれた男は、砂漠の向こうへと去っていった。
その背中が砂煙に消えるのを見届けて、男は改めて二人に向き直る。
「俺の名は、ヤルズ。お嬢さん方を、エスコートさせて頂きます」 その口元は、わずかに緩む。
「どうぞ――後を付いて来てください」
そう言うと、男は無防備に背中を晒して、先頭を歩き出した。
それは、敵意や罠が無いことを示唆していたが、体のいい監視に違いなかった。
シレネとヒースは、互いに一瞬だけ視線を交わす。そして、何も言わずに、その背中を追った。
この砂漠に足を踏み入れた時点で、彼らの網にかかることなど、分かりきっていたことだった。
……「四魔将のうち、人間と手を組んでまで、我々を滅ぼしたいと考えるとすれば……」
……「それは、今回利用したオークたちを束ねる、妖魔将軍ペルガメントのダークエルフ軍団」
……「彼らの我々への恨みは、消えることはない。しかし──」
砂を踏む足音の中で、リンネの言葉が何度も脳裏に反芻される。シレネはこの任務の意味を、繰り返し問い直していた。
戦わずに済むのなら、それに越したことはない。今さら、過去を変えられるわけでもない。
それでも――リンネが最後に残した答えは、胸の奥に沈んでいる。シレネにはまだ、その決断に踏み切れない迷いがあった。
やがて、長い移動の果てに、ダークエルフの城がその姿を現す。
砂漠の只中に隠れるように築かれたそれは、陽炎に揺れる白い砂と、灼熱の太陽が作る深い影の、たった二色で作られた城だった。
ヤルズの案内のもと、二人は静かで、重い気配に満ちる城内へと通された。
ヒースたちに攻撃を仕掛けるダークエルフは城内におらず、進入はあまりにも容易く達成された。
それは、あの時先に戻った者のおかげか、それとも、これ自体が罠か。
そのどちらであっても、もはや意味は同じだった。すでに敵の掌の内にあった。
二人は何事もなく謁見室に通される。しかし、玉座には、まだ誰もいない。
その左右に控えるダークエルフたちの視線だけが、二人に注がれる。
それは敵意──よりも、もっと粘つく、憎悪と嫉妬。
それを行動に起こさないのが不思議なほどの嫌悪を浴びながら、シレネとヒースは、一歩も退かず立っていた。
両者を繋ぐのは静寂。その間には、いかなる言葉も意味は無かった。
そのとき、一人のダークエルフが、視線の先に深く頭を垂れた。それを合図にするかのように、周囲の者たちも一斉に動く。
先ほどまでの険悪な空気が、わずかに変わる。
すると、彼らの視線の先から、一人の男が姿を現した。男は、シレネたち二人を一瞥する。
一瞬の停止──しかし、何を言うでもなく、ただ、そのまま玉座へと歩み、静かに腰を下ろした。
「──さて。では聞こうか。この場に、エルフが紛れ込んでいる理由を」
声は低く、冷ややかに石室へと広がった。まるで、砂漠から熱を奪い去るような冷気を持っていた。
誰へ向けられたとも知れぬその一言に、玉座の傍らに控えていた女が、その身を向ける。
「はい、ペルガメント様。砂漠を移動中のところを、ヤルズが発見し、連れて参りました。あの男は、あれで気が回ります故……」
簡潔な報告。だが、その言葉は核心をぼかしていた。
「ヴィスネ。それが、この者たちを殺さなかった理由だと?」
その含みのある言い方に、ペルガメントの声音が鋭さを増す。
「いつから我が斥候隊は、それほど甘くなった──?」
温度を持たぬ冷たい叱責。感情を切り捨てた、容赦のない一言。本来それは、エルフへ向けるべき言葉だった。
ヴィスネは、何も言い返さない。ただ静かに目を伏せ、その言葉を受け入れた。
場の空気が、さらに一段沈む。次に発せられるのは、処罰か、あるいは、侵入者の処刑か。
いずれにせよ、もう猶予はない。
その間際── 「今日は、訳あって参りました──」 声が割り込む。
その声の持ち主は、シレネだった。普段の彼女からは、想像もつかないほど声に強さがある。
そして、続く言葉は、命知らずにもペルガメントの邪魔をした理由を、ここにいる者全員に納得させた。
「……お兄様」
玉座の視線が、ゆっくりと彼女へ向く。その目からシレネは逃げない。
ダークエルフの王ペルガメント、実の兄を目にして、彼女は覚悟を決めた。
……「彼らの我々への恨みは、消えることはない。しかし──利用することは出来る」
リンネが求めた自分の役割。仲間のために、この任務を遂行する、と。




