第六十一話 因果の元凶
魔王城の兵たちの足音が、石床を震わせる。沈黙が支配していた魔王城が、慌ただしく動き出していた。
ペルガメントは外へ出た。すると、その視界の先、研究塔の方角から、ゆらりと黒い煙が立ち昇っていた。
つい先ほどまで、自分がいた場所、魔王ラーベンの居所。
──デブラの狙いは、ラーベン……なぜ?
疑念が、胸の奥をざわつかせる。理由は分からない。だが、悠長に考えている暇もなかった。
それを確かめるため、ペルガメントは塔へと向かった。
だが、足を向けたその瞬間。二度目の轟音──
一度目よりも凄まじい、地面を激しく揺らす振動に、ペルガメントは地に伏した。
石と鉄が音を立ててひび割れ、その形が保てない。支えを失った塊が、理に従って更にそれらを押し潰す。
彼の目の前で、目指すべき塔は崩れ落ちた。
だが、最悪はここからだった。
崩落の余波が、砂塵となって押し寄せる。
それの到達よりいち早く、身を潜めたペルガメントは、その目に確かにそれを見た。
散乱する瓦礫の下から、地を突き破るように、突如として新たな塔が突き上がっていた。
いや──塔のように見えたそれは、巨大な腕だった。
呼吸するように輪郭が揺れ、その表面は湿っている。間違いなく、それは命を持っていた。
だが、それも違う……。
塔を貫いた腕は広がり、城壁へ、門塔へと、無造作に伸びる。その力はすさまじく、触れたものは形を保てず、裂け、拉げる。
それは──巨大な触手だった。
瓦礫から生まれ、花弁のように埋め尽くす触手から、ペルガメントは間一髪のところで、逃れることしかできなかった。
その彼を嘲笑うかのように、逃げ行く背中を見下ろして、魔王ラーベンが姿を現す。その足元、周囲を蹂躙する触手の中心から、さらに細長い触手が伸び上がった。
まるで雄しべのように、天高く伸び上がるそれらが、ひとつ、またひとつと増える。その”雄しべ”は脈打ち、鞭のようにしなる。そして、まとめて一点に向かって撃ち降ろされた。
天から地へ降ろす。ただそれだけの単純な動作が、空を裂く。
それが大地に到達すればどうなるか──その光景を目にする誰しもが、それを容易に想像できた。
そしてそれは、現実となる。
巨大な”雄しべ”が地上を穿つ。烈風が唸りを上げ、衝撃が地を走る。
だが──それを受け止めたのは大地ではなかった。
蠢く巨腕の一撃は、ただ一点の黒い影が、受け止めていた。弾ける衝撃が、周囲の瓦礫を吹き飛はしながらも、黒い外殻を纏う影は、その中心で耐えていた。
「我ながら、体だけは頑丈に作ったものだ……」
圧倒的大質量の一撃を止められ、呆れ気味にラーベンは呟いた。その言葉に呼応するように、触手は足元に引き戻される。
だが、デブラは、動こうとはしなかった。いや、動けなかった。
骨が歪み、肉が潰れる。魔法を拒むその装甲も、物理的な暴力に対しては、完全ではない。塔そのものを肉塊としたラーベンの攻撃は、まさにその限度を超えていた。
だが、体の悲鳴に耐えながら、デブラはこの戦いを止めようとはしなかった。
膝を折ることもなく、立ち続け、前を向く。ただ、純粋に魔王ラーベンに立ち向かう。
まるでそれは勇者スノウルのように、その瞳は燃えていた。
ペルガメントはただ、この戦いを見守るしかできなかった。
圧倒的な力の行使に、割って入る余地など無い。巨大な触手がうねる戦場など、地獄以外の何物でもない。
デブラは、手放すには惜しい駒──だったが、諦めざる負えない。それ以外の選択があるはずもなかった。
動けぬデブラを見下ろし、ラーベンはさらなる一撃を用意する。
立っていることすらままならないデブラ。対する魔王は、いまだ傷ひとつ負っていない。この戦いの結末は、誰の目にも明らかだった。
この時点までは──
神に逆らったものを断罪するべく、再び振り下ろされる鉄槌は、この戦いに終焉を下す。
だが、その神罰に、ただ一人だけが逆らう。
デブラを支えるもの──それは、その幼さ、その不完全さ故に持つ、純粋さ。
それは、命令ではない。理屈でもない。正否でもなければ、善悪でもない。
これまで戦った者たちの、遺志をすべて呑み込んで、ただ──前へ。
──すべての因果の元凶へ、足が一歩、動いた。
巨大な触手が地面を抉る。その衝撃に城壁が砕け散る。崩落に紛れ、黒い影がラーベンへと忍び寄った。
だが、ラーベンとて赦しはしない。触手をうならせ、飛散した瓦礫ごと、周囲すべてを消し飛ばす。
回避の余地などないはずの軌道。触手同士が交錯する刹那の隙間。
デブラはその瞬間を読み切り躱す。動物的な勘の良さで、鞭のような触手の動きを予見する。
その視線の先にあるのは、ただ一つ──魔王ラーベン。
言葉はない。叫びもない。そのどちらにも。ただ──
──創造主が創造物に負けるなど、あってはならない。
神は、同じ地平に立つ者を赦さない。まして、それは失敗作と断じた塵。
魔王の誇りは転じて、嫉妬となる。しかし、眼前に迫る敵には、なにも無い。
その歪みは、手を鈍らせた。その一瞬が、すべてを決する。
デブラの爪は、魔王を裂いた。その手応えに、デブラは確かに鳴いた。
刹那、無数の触手が、重なる二つの影に降り注いだ。
圧倒する衝撃は、大地の悲鳴となって響き渡る。
衝撃は地を貫き、岩盤を砕き、支えを失った城は崩壊を始めた。
土台が割れ、城壁が傾く。均衡を失った順に、大地の裂け目に落ちてゆく。
その中心で。
デブラとラーベンは、触手に呑まれたまま、ゆっくりと闇へ沈んでいった──。
◆
ペルガメントは、大崩壊の残骸に残された。
他に生き残った者たちと、世界に置き去りにされたかのように、ただしばらく、目の前の光景を眺めることしかできなかった。
次第に、それぞれの現実を思い出し、生き残りの捜索や、被害の確認に追われていく。
戻る騒音の中で、ペルガメントはただ一人。すべてを呑み込んだ闇の辺りに、足を向けていた。
戦いが夢であったかのように、全てが無くなっていた。その残骸だけが無残に散らばる。
──望まぬ野心を叶えてくれたデブラに、手向けでも送ってやるか。
その静寂に、彼は哀れみと、賛辞を送った。
その時だった。闇の奥から、ガラン、と沈黙を破る音が鳴った。間を置いて、もう一つ。その音は徐々に数を増した。
ペルガメントは警戒しつつ、その音が鳴る方へと近づく。
そして、瓦礫の陰に、横たわる影を見つけた。血に塗れ、呼吸は浅い。
その姿は変わり果てようが、見誤りようがない。
「ペルガメント、か……」
肺から絞り出すような声は弱々しく、威厳などどこにも無い。ただ、自分が未だ王であるという、痛々しい自負だけを纏う”魔王だったもの”の姿があった。
ペルガメントはただ、誰にでもなく、こう言った。 「手向けはいらぬな──」
誰も知らない。誰に語ることもない。すべては闇に葬られた。
刃に滲んだ仇の血の色だけが、この真実を映していた。




