第五十七話 瞳の予言
戦場には、デブラを傷つけることができる者はいなかった。
刃は通らず、魔法は弾き飛ばす。その外殻は、どんな鎧よりも強固だった。
獣魔の隊長クローネは、喜んでデブラを重用した。その特性を最大限活用し、デブラを単体で敵陣に突っ込ませた。
それは、戦いですらなかった。
誰も、たった独りの進軍を止められない。デブラだけの力で、敵の陣形は無残に引き裂かれた。
槍は曲がり、盾は拉げ、ただ前進するだけの孤軍を誰も止められなかった。
デブラは、その身に向けられた攻撃を一切意に介さず、最短距離で敵陣奥まで突進する。
その理不尽と言える攻撃に対し、人間の軍は陣形を捨て、肉の防壁を分厚くするしか術がなかった。
デブラの戦力を少しでも削るため。その足をわずかでも止めるため。その先にいる大将を守るため。それは彼らの、必死の抵抗だった。
だが、その必死の抵抗こそが、クローネの描いた筋書き通りであるなどとは、彼らには知る由もなかった──。
”──アオォーーーーン!!” と、殺気立つ戦場に一つの咆哮が響き渡った。
その正体は、クローネが発した遠吠え。デブラによって内部から崩壊する敵陣を狙い澄ました、獣魔たちへの合図だった。
次の瞬間、飢えた獣の群れが、一斉に雪崩れ込む。統制を失った敵に対し、波状の猛攻が叩き込まれた。
内側のデブラと、外側のクローネ隊。この二つを同時に相手しては、逃げることすらままならず、人間たちは一方的な蹂躙を受けた。
それは、もはや戦いですらなかった。
この戦法は、驚くほど容易く、多くの戦場で機能した。
デブラという一点がすべてを崩し、獣魔の群れがそれを横から喰らい尽くす。クローネ率いる部隊は、この戦法を用いて、破竹の勢いで戦線を押し上げていった。
だが──勝利を重ねるほどに、クローネだけはデブラに不信を募らせた。
それは、嫉妬ではない。劣等感でもない。気に食わないだけだった。デブラの戦い方が、クローネの神経を逆撫でした。
そして、それは遂に爆発する。
「てんめぇッ! どういう了見だ、ゴラァッ!!」
敵の一切を滅ぼし、立っているのは自分たちしか居ない完勝。その勝利したばかりの戦場で、クローネはデブラに掴みかかった。
その怒号の理由を、部下の誰一人として理解できなかった。
だが、デブラは一切、言葉を発しない。視線にも、呼吸にも、変化はなかった。それが、さらにクローネを激怒させる。
「このッ……!」 苛立ちを抑えきれず、その体を激しく叩く。
「この体にッ! なあッ!」 ガインッ──! 硬質な音が、鈍く響く。
「散々攻撃を受けるだけ受けてよォ!」 ガインッ、ガインッ!
「一度も反撃しねぇたぁ、どういうことだっ!!」
爪が外殻を打つたび、まるで鉄塊を叩くような反響が返る。だがその身には、クローネの爪であっても、傷一つ付けることは叶わなかった。
ガインッ──!! 最後に、怒号とともに叩きつける一撃が響く。
だが、デブラは、動かない。何も言葉を発しなかった。
「……ッ」 先に、限界を迎えたのはクローネの方だった。
荒く息を吐き、腕を下ろす。痺れた指先が、わずかに震えている。
だが、その胸中に渦巻くものは、収まるどころか、より濁りを増していた。
「……てめぇはよ。どうして、攻撃しねぇんだよ! クソボケがッ!」
吐き捨てるように叫び、クローネは踵を返した。
振り返ることなく、苛立ちを抱えたまま、戦場を踏み荒らすように去っていく。
部下たちは、その背を慌てて追った。
デブラに対し、これまでの功績から親近感を持つ者もいるにはいたが、それは彼女の機嫌に逆らう理由にはならなかった。
その立ち去る背中を、デブラは何も言わず、動くこともなく、ただ見送った。
◆
「──チッ、クソが……」
仲間と焚き火を囲む野営地で、クローネの気分は晴れないままだった。
だが、文句のつけようのない勝ち戦を祝い、あちらこちらから笑い声が上がる。
戦果は上々。敵は壊滅し、こちらの損耗は軽微。この勝利を喜ばない方が、おかしいことだった。
向かうところ敵なしの我らに、怖いものなど無い──誰もがそう信じていた。
だが、クローネだけは違った。炎を映す瞳は、別のものを見ていた。
──このままで済むわけがない。人間とは、そんなに甘い相手じゃない。
これまでの戦いが、そう教える。
──この勢いを、人間が放っておくはずがない。必ず、対抗策を打ってくる。
人間は、こちらの戦いに順応し、戦い方を変えてくる。
負けから学び、対抗するための作戦を講じてくる。
数多の戦いを乗り越え、その中で多くの仲間の死を見てきた彼女の認識は、冷徹だった。
だから、デブラを許さなかった。敵を攻撃しない兵士など、戦場で生き残ることなどないのだから。
──デブラは殺される。人間はそのためなら何でもやる。そういう奴らだ。
──その時、あれをどうする。見捨てるか。それとも……
炎を映す瞳に、デブラの背中が浮かぶ。
その瞳に映る予言は、ほどなくして現実となる。それは、あまりにも、あっけなく……。




