第五十六話 438年前
──438年前
三百年に及ぶ第二次人魔戦争は、いずれの陣営も一歩も譲らず、膠着状態に陥っていた。
だがこの年、魔王ラーベンは、長きにわたり積み重ねてきた魔法研究の果てに、ついに一つの到達点へと辿り着く。
彼が夢見たのは、完璧なる魔族──絶対の力と、冷酷な知性を併せ持ち、万物の頂点に立つ新たな種。
数え切れぬ命と、積み上げた屍の歳月を引き換えに、その狂気の執念は今、現実のものとして姿を得ようとしていた。
「美しい……」 ラーベンの口から、その言葉が零れ出た。
魔王城にそびえ立つ研究塔の一角。そこでは、生物の体内を思わせる異様な装置が脈動していた。
壁面から垂れ下がる血管状の管が、ドクドクと一定の律動で液体を循環させている。その脈動が生み出す熱が、液体と共に装置の隅々まで行き渡り、その中心で、一つの卵を育んでいた。
およそ美しいとは形容できぬその前に、ラーベンは立つ。
「お前の誕生をもって、世界はようやく置き換わる。旧き種は、その役を終え、塵芥と消えるだろう」
まるで、我が子に祝福を与える祈りのような予言を唱えた。
その彼の確信に応えるように、卵は微細に収縮する。
「さあ……今こそ誕生の時だ」 ラーベンはゆっくりと手を掲げ、装置に魔力を収束させた。
装置を介し、彼が眼差しを向ける一つの卵へと、魔王の魔力が流れ込む。
「──立ち上がれ、デブラ!!」 名を呼んだその瞬間、卵は脈動を増し、内部で何かが激しく打ち付けた。
”ガキンッ!” それは、生命の誕生とは思えぬ音だった。
まるで分厚い鉄扉が叩き破られるような、鈍く、重い衝撃。卵の殻に亀裂が走る。同時に、白濁した羊水が粘り気を伴って溢れ出した。
ガキンッ、ガキンッ! と、何度も繰り返される破砕音。
そして、内側から突き出された腕が、殻を掴み引き裂く。完全に砕かれる卵。流れ落ちる羊水。
そして──それは姿を現した。
それは、これまで存在したあらゆる魔族の特性を、継ぎ合わせた姿をしていた。
二本の脚で立ち、腕の先には獣のような鉤爪が伸びる。背には折り畳まれた翼。その胴体は、筋肉ではなく、昆虫を思わせる硬質な外殻に覆われ、関節ごとに軋ませながら組み上がっている。
どれでもあり、どれとも言えない歪な体。その歪さの正体は、生命から逸脱した調和の無さだった。
ゆっくりと顔を上げる。眼と呼ぶべき器官が、ラーベンを捉える。
その視線を受け、およそ言語を解するかどうかも定かでない存在へ、魔王はただ一言を命ずる。
「──動くな」 命令と同時に、ラーベンは右手を向けた。
魔王の掌に魔力が迸り、周囲の空間がわずかに歪む。そして次の瞬間、魔力の波動がデブラを襲った。
──この程度で死ぬなら、不要。
躊躇いなく放たれた非情なる一撃は、生まれたばかりの、我が子と言える存在を選別する試験だった。
攻撃が衝突する。衝撃波が周囲に飛び散る。
足元に散らばっていた殻の破片は弾け飛び、培養装置全体が大きく軋んだ。壁面の肉が波打ち、脈動が乱れる。
だが──その爆心地にデブラは立ったままだった。一歩たりとも動いていなかった。体を覆う強固な外殻は、魔王の一撃すら寄せ付けなかった。
その光景に、抑えきれぬ愉悦が滲む。その歓喜を、深く、低く抑えつけ、魔王ラーベンは静かに嗤った。
己の夢の達成に、その野望が果たされる確信を得て──。
デブラは、それからすぐに前線へと投入された。
配属されたのは、純粋な身体能力を武器とする獣魔の部隊。力こそがすべてを決める、最も単純で、最も苛烈な戦場だった。
「なんだぁ、コイツは」 一番最初の挨拶は、獣魔の隊長の侮蔑だった。
隊長は、デブラを一瞥し、露骨に眉をしかめる。
「戦えんのか? こんなんで」
デブラに直接ではなく、隣に立つ魔王の配下へ、隠そうともしない不満を投げつけた。
デブラは何も言わなかった。そもそも、誰もまだ、その声を聴いたことはなかった。
代わりに、配下の魔族がデブラの素性を明かした。
だが── 「……あぁ、もういい」
長々と続く説明を、隊長は、途中で手を振って遮った。
「強ぇーなら、文句はねぇよ」 吐き捨てるように言い、口の端を歪める。そして、その口から覗く巨大な犬歯を光らせた。
「でもなぁ、このクローネ隊に入りてぇってんなら、どんな奴でも“儀式”はやってもらう」
「──オイ」 と、顎で合図を送る。呼応するように、周囲の獣魔たちが動く。
あっという間に、獣魔たちがデブラを四方から囲んだ。
爪を剥き、息を殺して、獣特有の瞬発力を高める低い姿勢をとり、ジリジリと、間合いを詰めていく。
クローネは冗談めかしていたが、これは遊びではない、”狩り”だ。そう確信させるほどの、緊迫した空気が両者を挟んだ。
そして、その緊張が頂点に達した瞬間──獣たちは一斉に、飛びかかった。
刹那。 ”──ギャリンッ!!” と、甲高い金属音がただ一音。周囲に鳴り響く。
それは、四方の攻撃が寸分違わず、同時に叩き込まれた証だった。
そして、もう一つの証。爪はどれ一つとして、デブラを貫くことはなく、その硬質な外殻に弾かれた音だった。
次の瞬間、獣魔たちの身体がはね返される。それに対し、デブラは揺らぎもしなかった。
その光景に、誰もが言葉を失った。辺りには静寂と、火薬に似た匂いが立ち込めていた。
「……ハッ!」 その静寂を、クローネが破る。
「アッハッハッハッ──!」 途端、腹の底から湧き上がるような、陽気な笑い声が周囲を埋め尽くした。
腕を痺れさせ、顔を歪める部下を足蹴に、彼女はずかずかとデブラへ歩み寄る。
「いいじゃないか。アタシは、強ぇー奴は大好きだ」 そして、その肩を気安く叩いた。
それでも、デブラは何一つしゃべらなかった。だが、そんなことはもう、クローネにはどうでもよかった。
「気に入ったぜ。今日からお前は、うちの特攻隊長だ」
そう言って、デブラに屈託のない笑顔を見せた。




