第五十三話 扉の向こう
その後、トルキたちは無事にエルフの森へと辿り着いた。
森の入口には、乱雑に切り倒されたままの倒木が折り重なり、ここが確かに戦場であったことを無言のまま語っている。
馬車は、その中をゆっくりと進んだ。踏み荒らされた草花の上に残る幾重もの足跡が、真っ直ぐに奥へと続く。その足先が、向かう方向を指していた。
森を進んでも、人の気配はまったくない。
残されているのは戦いの傷跡ばかり。血と、刃と、火の痕跡があるだけだった。だが、それを作った者たちの姿は、ひとつとして残ってはいなかった。
その不自然な静けさは、ひとつの事実をはっきりと示していた。
──エルフたちは、自分たちの侵入にとっくに気付いている。
だが、接触もなく、攻撃されるでもなく、この侵入は黙認されていた。
「……緊張、しますね」 フィオレットの手綱を握る指に、わずかに力が入る。
「いる──ねぇ。まったく見えないけどね」
フュールは、ただ森の奥に潜む気配だけを感じ取り、敵の姿を察知していた。
「何もして来ない以上、こちらも手の出しようがないな」
ベルムーエもそれに同調しつつ、武器に手を掛けたまま動かなかった。
トルキは何も言わなかった。弱気な言葉は、諦めたせいか、すでに影を潜めている。
フィオレットの隣でただ静かに、周囲を具に見回していた。
そうして、ついに彼らは、黄金のトリネコを目にした。
未だ乾ききらぬ血の匂い、草木は踏み荒らされ、周囲の自然は無残に破壊されている。ここが、最も苛烈な戦闘が行われた、激戦地であったことは疑いようもない。
だが、その中心に立つ大樹だけは違っていた。
淡く黄金の光を宿すその幹は、荒廃した景色の只中にありながら、すべてを包み込むような静かな安らぎを湛えている。
まるで、この場所に刻まれた幾つもの死を受け入れ、なお在り続ける母なる意思そのもののように。
──これが、エルフが命を賭して守ろうとしたもの。
それは言葉にしなくとも、誰の目にも映る事実だった。
馬車を大樹の麓へと進ませると、そこで初めて、エルフが姿を現した。
だが彼らは、侵入者に対し、咎めることも、排除することもなかった。
ただ一つ── 「馬車と武器はここに置け」 と、それだけを告げる。
しかし、エルフの当然の要求に、傭兵の二人は難色を示した。もっとも、それは反発したのではない。
「武器とは離れられない。だから、アタイらもここに残る」
という、傭兵の業を通しただけだった。
仕方なく、傭兵たちは馬車と共にその場に残り、トルキとフィオレットの二人だけが、黄金のトリネコの扉の前へと案内された。
大樹そのものを住処とした幻想的な造り。二人は揃って息を呑む。
胸の内で、不安と、わずかな期待が混じり合っていた。そして、トルキはその扉に手をかけた。
◆
その数日前──
扉の向こう側では、リンネとアルメリア、そして珍しくシレネを加えた三名が、静かに向かい合っていた。
先の戦いによる死者の弔いは、ようやく終わりを迎えていた。森を満たしていた戦の空気も、落ち着きを取り戻しつつある。
だが、それはあくまで表層に過ぎない。彼女たちの戦いが終わったわけではない。
黄金のトリネコは守られたものの、周囲の荒廃は深く、とても数日で癒えるようなものではなかった。失ったものは、どれほど手を尽くしても、元には戻らない。
ただ、この地に刻まれた傷跡は、確かにここで起こったことを記憶していた。
しかし、思い出となるのを、時は待ってくれない。
千の葉の兵たちは、癒えぬ傷を抱えたまま、再び部隊を分割し、それぞれ別の森へと散っていった。
今、再びここを攻められたら、迎え撃つ余力は無い。
だからこそ、徹底的な隠蔽工作が必要不可欠だった。千の葉の保有する戦力を隠し、その目的を隠し、存在そのものを隠す。
これらはすべて、次の作戦に備えるための欺瞞行動だった。
リンネたちは、本隊の指揮をヒースに託し、この不作為の嘘によって、黄金のトリネコを守っていた──。
リンネはアルメリアに問いかける。
「──アルメリア。人間たちは、次にどんな行動を取ると考えますか?」
そこには、彼女の能力への確かな信頼が込められている。
アルメリアは思考を整えるように息を落としたのち、ゆっくりと口を開いた。
「はい──まず、私たちが備えるべきは、更なる大軍を率いての再侵攻です」
それは、死闘を生き抜いたばかりの戦士たちには、到底聞かせられないような想定。
「ですがそれは、可能性としては低いと考えられます」 だが、否定。
「なぜなら、人間側にそんな余裕はないからです」 そして、自信をもって断定した。
「今回、動員された一万五千の兵──これは、私の想定していた上限に相当します」
「その数を投入してきたということは、今回の侵攻が、彼らにとっての“必殺の一撃”であったということです」
アルメリアは淡々と事実を積み上げていく。
「それがはね返された今、これ以上の戦力をこの森へ投入すれば、魔族との戦線に必ず穴を開けます。それを許容する理由は、彼らにはありません」
静かな説明だった。その根拠は、彼女が積み重ねてきた情報と観測に裏打ちされている。
「そして、次に考えられるのは、和平交渉──」 アルメリアはそこで一拍、言葉を切った。
その意味を、どう受け取るべきかを、あえて聞き手に委ねるように。
「そう──“和平”といっても、その目的は休戦ではないと考えるべきです」
「敵の狙いは情報収集。先の戦いも含め、徹底した情報の隠蔽を行っていますから、私たちの情報はどんな些細な事でも欲しいはずです」
その意味をなぞるように、リンネが口を開く。
「つまり、和平交渉の体裁を整えた、再侵攻への布石。──ということですね」
アルメリアは即座に頷く。 「はい。その通りです」
「ですが、それは私たちにも利用価値があります」 続く言葉には、僅かに熱がこもった。
「意図が読めている以上、こちらからあえて情報を流すことで、相手の判断を誘導できる。必要であれば、誤った情報を与えることも……」
そして、こう付け加えた。
「──それに、いまの私たちには時間が必要です。交渉を引き延ばすことで、その時間を確保することも可能になります」
視線が、二人の間を静かに巡る。
「そうね。恐らく、これが私たちにとって理想的な展開でしょう」
その結論に、リンネは実務的な評価を与えた。しかし──
「……それで、他には?」 間を置かず、さらに問いを重ねる。
その一言で、十分だった。視線を向けられたアルメリアは、逃げ場を失う。
その一言は、彼女の視線を捉えて分かった、”隠し事”を見透かしたものだった。
わずかな沈黙。アルメリアは珍しく言いよどむ。
「……。これは、実現性は極めて低く、考慮に値しない可能性もあります」 慎重な前置きだった。
「ですが、私たちが絶対に避けなければいけない、最悪の一手があります」
息を整え、それから、覚悟を決めるように告げた。
「それは──人間が魔族と共闘し、攻めてくることです」
その言葉を、リンネは冷たく受け止めた。
確かにそれは、有り得ない。しかし──もし現実となった時、対処の余地は残されない。打たれてからでは、遅い。
まさしくそれは最悪の、必至の一手だった。




