第四十七話 戦斧のウルバン
ドリアスを先頭に、剣兵隊は戦場を駆ける。
目標は、ただ一点。敵の中心、必ずそこにいる大将ウルバン、ただ独り。
踏み込みの一歩ごとに、速度を上げる。迷いはない。躊躇いもない。圧倒的な軍勢を前にして、さらに加速をかける。
敵との間合いの一歩外、ついにその動きは最高速度に到達した。
必然、人間の軍勢は、ドリアスたちを無視できない。できるはずがない。
その速さに、兵たちは集中する。少数でありながら、真正面から突き破ろうと加速する剣兵隊に、意識が引き寄せられる。わずかに。だが確実に、戦列の中心へと視線は流れた。
その時だった──。
森が鳴いた。無数の鳥が、一斉に飛び立つような風切り音が鳴り響いた。
だがその鳥は、空には飛ばず、直線的な軌跡を描いて、戦場の直中に獲物を定めて降り注ぐ。
鉄の嘴と、三枚の尾羽を持つその鳥は、兵士たちの甲冑を貫き、突き刺さった。
迫る敵との衝突に集中した一瞬──その時を狙い澄ました一斉射。軍勢の側面は、盾を構える暇もなく、矢の雨をまともに受けた。
だが、次々と崩れ落ちる隣の兵を、視界の隅に捉えながら、兵たちはそれでも、正面から眼を逸らす訳にはいかなかった。
もうすぐそこまで、手の届くところまで──我らを、殺すため、我らに、殺されるために……敵は、来る。
殺意と殺意は、交錯し、剣を握る手に、力がこもる。逸る心は、敵との距離を縮めるために、さらに一歩を踏み出させる。
この瞬間、剣先は確かに、火花を散らした。
刹那──ドリアスの姿は、敵の群れの中に消え失せた。
前にいる兵の喉元へ、刃を走らせる──。
その感触が伝わる前に、もう次の刃が迫る──。
剣を抜くと同時に、躱す。そして、斬る──。
止まらない。止まれば、死ぬ。刃はまだ無数に伸びる。
横薙ぎ。突き。逆袈裟。斬り下ろし。だが──全てが遅い。
凝縮した時の中で、ドリアスの視界には、その閃の隙間が見えていた。
次の瞬間へ、次の次の瞬間へ。躱す、踏み込む、斬る。その繰り返し。そして、前へ。さらに前へ。
──なぁーんだ、たった、それだけか。
身体は、自由だった。だが、頭だけが、不自由だった。思考が、剣の邪魔をした。
鉄の壁に血風が舞う。その飛沫さえも、避けることすら出来そうに、鮮明だった。それは敵の血、そして恐らく……仲間の血。
ドリアスは、この地獄に身を置いて、まだ一太刀も浴びてはいなかった。
これは、ほんの一瞬の出来事──ここまでが、瞬きほどの刹那の時間。
その永遠の時間を乗り超えて、彼女の剣は、ウルバンを捉えた。
だが、その前に壁が立ちはだかった。主を守るための鎧の壁が、彼女の行く手を遮った。
エルフの剣は速い。だが軽い。その刃では、この分厚い壁を打ち破ることは叶わない。
それでも、ドリアスは加速した。
──ウルバン。あれだ、あいつが大将。あれだけを、斬ればいい。
彼女の思考は、それだけだった。まるで、壁など見ていなかった。
側近の重装兵たちは、その突進に備え、身構える。
盾を寄せ、足を固め、全身を締め、鉄の壁は難攻不落の要塞となった。
だが、ドリアスだけには見えていた。
それは鉄の壁ではない。まして、要塞などでは決してない。鎧を着こんだ人である。
こちらの動きに合わせた、踏み込み。攻撃に備えた、重心の変化。体格の差。癖。
人でなければ、決して生まれることのない、その”こなし”──。
ただ、ひと突き。彼女は、見えた急所へ剣を突き刺す。
その攻撃は、鉄の壁には通らない。剣は、鉄壁に弾かれる。
だが──動くはずのない壁は動いた。
攻撃を受け盾を動かし、それを補うために横が連動する。急所を庇うための、その”こなし”は、壁に別の急所を生んでいた。
それは、”隙”というには微細な隙間。だが、ドリアスは、その見えない要塞の死角へと、猫のように、その体を流れ込ませた。
刹那──難攻不落の要塞から抜け出た敵に、ウルバンは歓喜した。
眼前に突如として出現した、敵の姿を目にした瞬間、直感した。
──この剣士だ。勇者ヴィートを殺したのは、このエルフだ。
天啓を受けたが如く、洞察した。
仇敵を前に迷いなく、両刃の戦斧は、左右の違い隔てなく、ただ思い切り、振り下ろされる。
ドリアスは、止まらない。
魔術のように壁をすり抜けてみせてもまだ、その足は更に前へと、一歩を踏み出す。
戦斧は降りる。上から下へと、真っ直ぐに──その瞬間、力は一点へと収束する。
巨躯を駆使した全力の一撃は、地を裂き、空気を震わせた。
その反動が、ウルバンの身体を軋ませる。許容を超えた肉体は、悲鳴を上げる。
伸び切った関節。引き裂かれそうな筋肉。その異常な負荷に、脳はひたすら警告を発した。
だが──もう彼は、それに耐える必要は無くなっていた。
ドリアスの歩みは、ウルバンの必殺の領域に入っていた。それは、間違いがない。しかし──
彼女は、その彼方へと、とうに過ぎ去ったあとだった──。
ウルバンの視界が、ゆっくりと傾く。膝が折れ、己の戦斧の前に跪く。
いくつもの鉄靴が通り過ぎた。兵士たちの雄叫びが、遠くに響いていた。
そのすべてを、一人、指揮しておきながら。そのすべてから、一人、置き去りにされていった……
それでも、ウルバンの兵は止まらなかった。主を失ってなお、前へ。
止める者はもういない。命じる声はもうない。だがその足は、新たな仇を果たすため、ひたすらに突き進む。
再び、森が鳴く。弓兵たちが、一斉に矢を放つ。
しかし、矢の雨を受けてもなお、彼らの足を止めるには至らない。
どれほどの仲間が倒れようと、その心にある、神殿騎士団の誓いを破ることは叶わない。
前へ、前へ。あと、わずか。標的である黄金のトリネコまで、もう目前。
もはや、止める者はもういない。
しかし、魔法兵たちは、杖を構える。
残された魔力は少ない。視界は揺らぎ、立っていることすらやっとの者もいる。
それでも、黄金のトリネコを守るため、退くことなど考えられない。
詠唱が、紡がれる。
残された力で、迫る敵に放つ魔法など、たかが知れている。無駄な足掻きに過ぎない。
究極魔法は、もう撃てない──はずだった。
杖から放たれたのは、残された魔力を掻き集め、絞り出した無理矢理の、撃てぬはずの、第四射──
限界を超えた一撃に、倒れる者が現れる。だが、庇う余裕のある者はいない。プルサチラであっても例外ではない。
これは、存在そのものを燃やした正真正銘、最後の一撃。
もうこれ以上は、何もできない。もしこれで、まだ敵兵が残っていたなら、抗う術はなにもない。
戦場を、白光が覆う。視界が閃光に埋め尽くされ、意識は霞む。敵も味方も、己の手さえもが見えなくなる。
己の命がまだ繋がっているのかさえ曖昧で、運命の天秤が揺れる音だけが、魂の奥底で鳴っていた。
やがて、光の残像を残して、戦場が戻ってくる。誰もが、肺から空気が漏れる音さえ惜しむように、息を止める。
あとはもう祈ることだけが残されて、ただ結果の残骸を見つめた。
白の幕が引かれたそのあとには──誰一人、立っている者はいなかった。
勝利者には、笑みはない。死力を尽くした戦いに、身体は震え、視界は霞む。
その視線の先には──燃えることなく、黄金のトリネコが立っていた。
聖地を血に染めて、武器を構える者は、もういない。生き残った者たちは、ただ呆然と、息を繰り返しているだけだった。




