第三十九話 四姉妹
同じ頃、魔王不在の魔族の情勢もまた、混迷を極めていた。
ソルヴの裏切りは、すぐさまジレンとノーリュースにも知らされた。しかし、粛清する動きには至らなかった。
魔族の四勢力は、魔王という楔によって、繋ぎ止められていたに過ぎない。
その楔が失われた今、粛清を命ずる者はいない。ただ、形骸化した均衡だけが、かろうじて残されている。
この状況を打破するために、四魔将の一人が覇を唱え、新たな魔王となる。
魔族全体の繁栄を考えるなら、恐らくそれが理想的な統治となるだろう。
──だが、それはできない。一つの勢力に、他の三つを従える力はないのだ。それほど四魔将の勢力は拮抗していた。
そして、人間との戦いは終わらない。たとえ、魔王と勇者、そのどちらもがいなくとも。
魔族同士の争いなど、人間が利するだけ──その道理を、四魔将の誰もが理解する。ただそれだけが、嫌悪と不信が渦巻く均衡を維持していた。
──そして今。獣魔将軍、金色のジレンは、戦線の立て直しのため、自らの領地へと帰還する。
ジレンの支配するその土地は、かつては鬱蒼とした針葉樹に閉ざされた、暗く広大な森であった。
人間がその地に踏み入ったのは遥か昔。木々を切り開き、湖から水を引き、わずかな土を耕して、ようやく糧を得る農地へと変えた。
だが――千年前。魔の軍勢が大陸に雪崩れ込んだその時、この土地は人間が実らせた小麦ごと、魔族に根こそぎ奪われた。
以来、実りの奪い合いは、互いの血の奪い合いへと変わり、人魔の戦いの歴史と等しく、何世代にもわたり続いている──。
居城の門をくぐったその瞬間、彼の帰りを予測していたかのように、二人の獣魔が出迎えた。
「お父様、おかえりなさい」 「おかえりなさい」
二人の娘たちを前に、ジレンはわずかに目を細める。
「おう、お前たち。他の二人はどうした」
歩を進めながら、ただ一瞥だけをくれて、労いの言葉より先に短く問う。
「テュエトゥとフィヨルテは、狩りに出ています」 その片方が、どうしているのかを答える。
「あの子たちは、夢中になると、何を言っても聞かないものですから…‥」 もう片方が、何故いないのかを答えた。
その解答を、ジレンは咎めるでも、呆れるでもなかった。ただ一度、鼻を鳴らす。
「ふん、まあいい。──それで。不在の間、変わりはないか」
ほんの一瞬の喜色はすぐに消え、彼の眼差しは再び戦場のそれへと戻った。
「はい。何一つ。大掛かりな戦の準備をしている気配もありません」
淡々とした報告からは、二人の人間狩りなど、報告するまでもない小競り合いに過ぎないと切り捨てられている。
「そうか」 そう短く応じると、ジレンはわずかに顎を引いた。
変化がない──それ自体は気にすることではない。だが、均衡を保つ楔が互いに外れた今、それがいつ崩れてもおかしくはなかった。
そして、ジレンは玉座に着くと、二人を見据える。その視線には、子に向けるものではない冷たさが宿る。
「では、邪魔な二人がおらぬ間に、お前たちに一つ尋ねよう──」 わずかな間。
「魔王と勇者が消えた今、我らはどう動くべきと考える?」
その問いは単なる質問ではなく、二人を試すように、金色の双眸が娘たちを射抜いていた。
「勇者が死んだのですから、人間たちは守りを固めたいのでは。魔王がいつ攻めてくるかと、びくびく怯えながら」
片方が、間を置くことなく答える。
「であれば、魔王軍を装った簡単な陽動でも、十分な揺さぶりになるかと」
だが、もう一人が口を開いた。
「……ですが、エフィーレお姉さま。人間側が、すでに魔王の死を知っている可能性もあります」
「あのソルヴは人間とも通じていた──」 わずかに視線を伏せ、言葉を継ぐ。
「としたら、彼らは逆に、我々を誘い出すために隙を見せるでしょう。罠に掛かったふりをして」
冷静な指摘だった。先の意見を否定するのではなく、その先を見据えた可能性。
「でも、それなら」 エフィーレは、すぐさま問い返す。
「どうして人間たちは協力して、私たちを各個撃破しようと動かないのかしら……?」
短い沈黙が落ちる。互いに言葉を返さず、ただ思考だけが巡る。だが、その答えは容易には戻ってこない。
その二人の中心で、ジレンは、口を挟まずに二人を見つめていた。
”……我が子ながら、よく見えている。強いて言うなら……アッテの方が、半歩上か”
胸中で、低く呟く。最初から結論を求めていない、それはいずれ現実が与えてくれる。
ただ、その二人のやり取りにジレンはほくそ笑んだ。
そのとき──玉座の扉が、壊れんばかりの勢いで開け放たれた。
「は~~い。ボクの勝ちィ~~♪」 ひょい、と踏み込まれた一歩。
軽やかに覗いた足先とともに、場違いなほど明るい声が響く。
「くっそぅー……もう一回! もう一回!」
わずかに遅れて飛び込んできたもう一人が、悔しげに食い下がった。
「ダメ、ダメェ~~。この勝ちは譲らないよ~~」
勝者はくるりと振り返り、からかうように笑う。
その声音には、競り勝った余裕と、相手を弄ぶ楽しさが隠しきれず滲んでいた。
まるで、この場に誰がいるのかなど、最初から目に入っていないかのように。
二人はそのまま玉座の間へと踏み込み、勝敗を巡って子供じみた応酬を続ける。
「……そうだ。どうしてもって言うならさぁ~~」
勝者が、思いついたように言葉を引き延ばす。
そのまま一歩距離を詰め、“勝者の権利”を振りかざそうと敗者に詰め寄った、その瞬間。
ベシッ! ベシッ! 乾いた音が、二度。的確で、遠慮のない一撃だった。
「……二人とも。お父様の前ですよ」
いつの間にか背後へ回り込んでいたエフィーレが、低く言い放つ。抑えた声音の奥には、はっきりとした怒気が滲んでいた。
二人は揃って頭を押さえ、ぴたりと動きを止める。
その視線はようやく玉座と、そこに座る金色の姿を捉える。そして、数泊の遅れのあと──
「「……ごめんなさい」」 見事に揃った謝罪とともに、二人は並んで頭を下げた。
つい先ほどまでの喧騒が嘘のように、場に静寂が戻る。
頭を下げたまま、しかしその静けさに耐えきれぬのか。片方が、唇だけを動かすようにして隣を小突いた。
「……テュエトゥが、勝負しようって言ったからだぞー……」 すぐさま、くすりと弾む声が返る。
「え~~、ボクのせい? フィヨルテだって、喜んで乗ってきたじゃないか~~」
ひそやかな言い合い。その調子は、今この押し殺した状況すら楽しんで、反省の色はみえない。
──キッ! 鋭い殺気が、横のエフィーレから突き刺さる。
それだけで、二人はびくりと身を強ばらせ、今度こそ完全に口を閉ざした。
しずしずと、ただ従順に頭を垂れる。ようやく訪れた形だけの静寂。
その光景を、ジレンは鼻で笑った。
彼が四人に、この振る舞いを許しているのは、単なる血縁からだけではない。
獣魔将軍、金色のジレン。その血は広く、数え切れぬほどの子女が領地に散っている。
だが、この玉座の間に侍ることを許されているのは、長女エフィーレ、次女テュエトゥ、三女アッテ、四女フィヨルテ──の四姉妹のみ。
この待遇の差を、ジレンに連なる子の誰一人、異を唱える者はいない。
なぜなら、この四姉妹こそは、純粋に力を以てこの場にいる資格を得たのだから。
そしてその事実を、誰よりもよく理解しているのは、頭を垂れる彼女たち自身だった。




