第三十一話 1000年前
まだ人間が、世界のかたちを知らなかった時代。
地の果てには、巨人の大地があった。氷と岩だけの巨人の住処。人々はその地を恐れ、誰も近づこうとはしなかった。
その誰も足を踏み入れたことのない大地には、まだ名前が無かった。
王国に、ある男がいた。その男は、何者でもなかった。王国のある村に生まれ、ただ漠然と日々を過ごしていた。
その誰も知らない男の名前に、まだ意味は無かった。
ある日、男はいつものように、遠くに連なる白く凍りついた山々を眺めていた。
空を拒むようにそびえ立ち、氷河に覆われ、草木ひとつ育たぬその頂は、ほんとうに巨人の住処のように見えた。
男は立ち上がると、その山に向かって歩き始めた。
大きな理由も、決意もなく、何の準備もしないまま、男は山を登っていった──。
◆
……──「あーー……やっぱり、やめときゃよかった……」
俺はひとりで、ぶつぶつ言いながら山を登っていた。
麓ではそうでもなかったのに、ここは寒い。とにかく寒い。
風も強くなってきて、立ってるだけでもしんどい。足場も悪いし、風にあおられて倒れようもんなら、そのまま麓まで転がって行っちまいそうだ。
……なんで来たんだ、こんなとこ。
登れる気がしてたわけでもない。準備してきたわけでもない。
ただ、なんとなく来ただけだ。
──で、このありさまだ。俺は自分の決断を、今さら呪った。
上を見上げる。
山頂は、まだずっと先にある。というか、さっきから全然近づいてる気がしない。
「……あー、もう無理」
そう言って吐き出した息は、白くなった。指先も、なんかもう、よくわからない。
「……あの岩で休んで……いいや、もう帰ろう」
少し先に、ちょうどよさそうな岩の出っ張りが見えた。
もう、そこに行って休むことしか考えられなかった。そう考えたら考えたで、岩が遥か先にあるみたいに、逆に足が重くなる。
俺はほとんど這うみたいにして、その岩までなんとか辿り着いた。
──で、それが俺の運の尽きだった。
雪の上に突き出た岩の頭だと思ってたのは、実は、ただ雪の上に乗っかってただけの、薄っぺらい岩だった。
俺が軽くもないが重すぎるわけでもない腰を下ろした瞬間、その重みで、岩は橇みたいに雪の坂を滑り出した。
すぐに降りれば、転んで擦りむくだけで済んだんだろうが、咄嗟の時は人間正しい判断なんてできないもんだ。
やばいと思ったのと同時に、俺は必死にその岩にしがみついた。
──で、もっとまずいことになった。
岩はどんどん速度を上げていく。止まる気配なんて、まるでない。
「~~~~~~~~!!」
風が顔に叩きつけてくる。目も開けていられない。声を上げる余裕すらない。上げたところで、誰かが助けに来るわけもない。
今さら手を離したところで、どうなるかなんて、考えなくてもわかる。ただじゃ済まない。
そんな窮地に陥ると人間不思議なもので、逆に頭の中に、どうでもいいことばっかり浮かんできた。
──なんであんなとこに、こんな岩があるんだよ。誰だよ置いた奴。 とか
──良かれと思ったことは、だいたい裏目に出る。俺の人生、そんなことばっか。 とか
──このまま滑って、家まで帰れたりしないか。……無理か。 とか
──教会にいたあの娘。名前聞いときゃよかったな。 とか……
その最後に、ふと思ったのは、
──これで死ぬならもう、それでもいいか。 だった。
と、その時。ガツン、とでかい衝撃がきた。
乗ってきた岩橇は、俺が本当はそっちを御所望していた突き出た岩に、すごい勢いのまま、鈍い音を立ててぶつかった。岩の方はちょっとコブが出来ただけで済んだんだろうが、こっちはそうはいかない。
俺の体は、そのまま弾き飛ばされ、宙を舞った。覚えちゃいないが、多分、その瞬間は最高だったと思う。
でもわかる。次の瞬間、体が地面に着いた瞬間には、きっと最悪の気分になる。
俺は最後の最後になって、ようやく神に祈った。
──どうか、痛みなくあなたの御許にお召ください。 って。
──で、どういうわけだが、神は俺の願いを聞き入れて下さった。
痛みを覚悟したその時、体は柔らかい雪に突っ込んだ。
そりゃちょっとは痛みはあったが、でも、思ってたほどじゃない。神様だって慌てたんだろう。
体は動く。指も、足も、ちゃんとついてる。息を吐くと、白くなる。しっかりと、この冷たさをちゃんと感じる。
――生きてる。
しばらく、そのまま動けなかった。というか、動きたくなかった。
もうこれ以上、何も起きなくていい。なんなら、ここに一生埋まってても別にいい気がした。
でも、そのうち寒さも、だんだん苦痛に変わってきた。
このままじっとしてたら、本当に御許に召されちまう。それに、体が濡れたらもっと面倒だ。
仕方なく、雪の中で体を起こす。よいしょ、と足を踏ん張った。
──で、もっとまずいことになった。
足が、地面につかない。うん、雪の下には、何もなかったんだ。完全な空洞。誰かの頭の中と同じ、空っぽ。
それに気づいた時には、もう遅かった。
……こんなとき、どうすりゃ良かったんだろう。
仮に、何かよい対処法があって、俺がそれを知っていたとしても、咄嗟の時は人間正しい判断なんてできないもんだ。
体が、すっと軽くなる。
俺は何もできず、ただ下に向かって引かれていく。
御心の思し召しに従って、ただ流されるまま、雪の下のクレパスに落ちていった──。
◆
……──「ほぅ、これはこれは、珍しい。人間のお客人とは、いつ以来かの」
声がして、俺は目を覚ました。
いや、醒めたかどうかすら曖昧だった。確か──そう、落ちたはずだ。それも結構な高さから。
なのに、目の前には、毛むくじゃらの小柄な生き物が立っていた。
ああ、なるほど──。この生き物は、地獄の番人か何かで、今から俺をどの地獄に送るか決めるのだろう。
その証拠に、さっきまで雪山にいたはずが、ここはやけに暖かい。その上、なんか、旨そうないい匂いまでする。
ん? 旨そう──?
その匂いに、俺は目を覚ました。
「……あんた、誰?」 つい、思いついたことを口にした。
目の前の生き物は、ぱちぱちと瞬きをしてから、やがて、楽しそうに笑い出した。
「ほっ、ほっ、ほっ。人間というのは、面白いもんじゃな。初めての出会いに言うことは、だいたい皆同じじゃ」
そんなにおかしなことを言ったか? まあ、いいか。
改めて見ると、その生き物は、背は低いががっしりしていて、顔の半分が髭で埋まっている。
「山のトロール……。やっぱり、俺は死んだのか──?」
どうにもまだ頭がぼんやりしていて、思ったことがそのまま口に出る。
すると、そいつは肩を揺らして、また笑った。
「トロールか。ほっ、ほっ、ほっ。儂もまだ見たことはないな。儂はドワーフじゃ」
──なんでこんなとこに居るんだよ。 とか
──俺はどうしてここにいるんだ。 とか
──そもそもここはどこなんだよ。 とか
──その髭はいいブラシになりそうだな。 とか……
頭の中に、いろいろ浮かんでは消える。
だが、そんな事はどうでもいいと言わんばかりに、俺の腹からぐぅ~~、と結構でかい音が鳴った。
「ほっ、ほっ、ほっ。腹が減ったか。そうじゃろう、そうじゃろう。人間の足でここまで来るのは、大変じゃったじゃろう」
ドワーフはそう言って、湯気の立つ飯を差し出してきた。
「ほれ、食べなされ。他に食べる者などおらんから、遠慮することはない」
湯気が匂いを形にしてるみたいだった。──さっきからずっとしてた匂いは、これか。
俺は、深く考えずにそれを受け取り、食べた。
──なんだこれ、やたらうまい。
こんなとこで何を材料にして作ったのか、そういうのが、どうでもよくなるくらいには美味かった。
で、気づいたら、全部食ってた。
「……ありがとう。うまかった」
ひと息ついて、ようやく頭が回り出す。
とりあえず、腹を満たしてわかったことが一つ。――俺はたぶん、まだ死んでない。
一つの欲求が満たされると、人間とは現金なもんで、他の欲求も満たしたくなる。
じゃあここは、あの山の下か──落ちて、そのまま、どうにかして、ここに来たってことか。この男の地下の家に……。
目の前の男。ドワーフ、か……。
そういうのがいるって話は聞いたことはあるけど、実際に会うのは初めてだ。
「あんたはそれで、ここで独りで何をしてるんだ?」
俺は、このドワーフがたった一人で、この地下で暮らしている理由が知りたくなった。




