第二十八話 究極の魔法
エルフの目には、精霊が見えている。それは他の種族は持ち得ない、特異な感覚だった。だが、見えることと、従わせることは、等価ではない。
蛇を食む牡鹿は、エルフの魔法兵の中でもプルサチラにしか扱えない。
その力は、精霊との一体化。いや──違う。精霊と一体化できる者だけが、この杖を手にする資格を持つ。
”ᛋᛏᚢᚱᛘᛦ(嵐よ)”
次の瞬間、プルサチラの声に風が応えた。杖から凄まじい嵐が巻き起こる。
この杖は、本来必要とされる威力に応じた魔力の対価と、詠唱を要求しない。その力は、人間の魔法の術理から逸脱する。
プルサチラは風と共にあり、風はプルサチラと共にある──ただそれだけを、普遍の術理として実現していた。
二つは激突する。リラが生み出した爆風と、プルサチラの嵐が、真正面からぶつかり合う。
轟々と、低い唸り声が地面を揺らす。ぶつかり合う渦が、砕けた氷塊をさらに引き裂き、細かく砕く。
その威力はすさまじく、目に見えぬ粒となった氷塊は、白霧の谷の新たな霧となって舞い上がった。
二つの力は拮抗し、互いに一歩も譲らぬまま、両者の境を分けていた──。
しかし、その均衡も永遠には続かなかった。
常識外れのプルサチラの嵐が、徐々にリラの爆風を飲み込み出す。
じわじわと、ゆっくり押し込まれる境界は、一線を越えた途端、あとは雪崩のように押し流された。
拮抗が崩れ、嵐はリラへと迫る。
彼女が作ったいくつもの氷塊を砕き、すべてを呑み込み、濁流となって襲いかかった。
だが──残された氷塊の向こうには、彼女の姿はどこにもなかった。
”──Lancea telluris(土槍)”
その声は、嵐が過ぎた土中から響いた。
プルサチラの目の前の地面が隆起する。土槍が地を裂いて突き上がった。
しかし、彼女は動ずることなく、ひらりと身をひねり、それを紙一重で躱す。
だが、その躱した先を、土の中から影が飛びついた。
土中にまみれ、息を潜め、ただこの一瞬のためだけに潜んでいた影が──。
彼女は最初から、石礫なんかでプルサチラを仕留められるとは思ってなかった。
すべては、この為──プルサチラの精霊魔法を掻い潜り、その懐まで身を隠して近づくため。
泥まみれの彼女の執念は、その腕に、蛇を食む牡鹿を掴ませた。
──常識外れの精霊魔法。でも、だからこそ絶対に、精霊との意思疎通は、完璧でなければ成り立たない。
──なら、私がこの杖に魔力を流せば、妨害するのは簡単なこと。
それは間違っていなかった。
リラがほんの少しの魔力を流しただけで、風は乱れ、流れは歪み、嵐は音も無く霧散していく。
プルサチラの周囲から風は途絶え、精霊の気配が消えた。彼女の精霊魔法は、完全に封じられた──。
間髪入れず、リラは止めを刺すべく動いた。
手を伸ばせば届く距離。すぐそばに立つプルサチラは、もはや抵抗を諦めたかのように、静かに佇む。
──できる、私なら。左手で杖に魔力を流し込み、その制御を乱しながら、右手で攻撃魔法の同時詠唱。
──勝てるよ、ヴィート。
勝利の確信とともに、リラは最後の魔力を杖へと込めた。
その瞬間──プルサチラは、蛇を食む牡鹿を手放した。
あまりにもあっさりと。抵抗するでもなく、奪い返そうとするでもなく、リラに渡した。
リラの思考が、ほんの一瞬だけ遅れる。 ”なぜ──?”
その僅かな問いが形になるよりも早く、プルサチラは、空いた両手を静かに合わせた。
そして、一つの呪文を紡ぐ。
”ᚠᛁᛘᛒᚢᛚᚢᛁᛏᚱ(終焉の冬)──”
──それは、プルサチラが編み出した究極魔法。彼女が千年の研鑽の末辿り着いた、精霊魔法の終着点だった。
その一音が落ちた瞬間、世界がわずかに軋む。
風は止んでいる。精霊の気配は消えたまま、何も彼女を守っていない。むしろ、その彼女を世界から断ち切るように、光が走る。
それは輝きというより、世界を削り取る刃だった。触れたものが何であろうがお構いなく、赦しはなく、ただ貪るように呑み込みながら、一直線に空間そのものを侵食する。
完成された自然への干渉力は、世界そのものを侵食する終焉の刃。
精霊すらも殺してしまうこの魔法は、使うべきではない、究極の破壊魔法──
──リラは、右手から杖を手放した。カラカラと、それは地に落ち転がった。
身体は糸が切れたように崩れ、プルサチラに倒れかかった。
そのまま、その身と蛇を食む牡鹿を受け止める。
戦場には、何も残っていなかった。その代わり、あらゆる感情が支配していた。
プルサチラは、リラの頬に顔を寄せ、そして、最後に一つの言葉を紡いだ。
「おやすみなさい、リラ──」
──戦いが終わった戦場に、振り返ることもなく、プルサチラは背を向ける。
その後ろ姿を、残された戦士はどうすることもできず、ただ見送った。
まるでここで起きたことをすべてを覆い隠すように、ゆっくりと、白霧の谷に再び霧が降りてくる。
何事もなかったように静まり返る谷底に、戦士の無念の咆哮が一つ、響き渡った──。




