第二十五話 勇者死す
彼女の弓は、心に血のように赤みがかった深い色を宿し、辺はその肌のように滑らかに白く輝いている。
それはイチイの木から削り出された長弓だった。
イチイは森の中でも特別な木だ。成長は非常に遅く、毒を含む。長い年月を耐え抜いたイチイは、強固な心と、しなやかな辺、名弓に求められる二つを兼ね備える。
よく手入れされたその弓は、未だ生き続けているように瑞々しく、底知れぬ強さを秘めていた。
白霧の谷の翼魔が一掃されたのを見届けたのち、シレネはわずかな部下を伴い、峰を下りていった。
カシオペと合流したとき、彼女は自分が負った傷など気にも留めず、生き残った仲間の手当てに尽力していた。
失った命の方が多かった。それでも、血に濡れた手で、目の前の命を繋ぎ止める。
それが、この戦いを生き残った彼女の贖罪だった。
シレネたちが近づき、その役目を引き継ぐと、カシオペはようやく手を止めた。
そこでやっと、自分自身もまた、満身創痍であることに気づいたようだった。
「……まだ、死ぬ運命にはなかったみたいね」
ようやく視界に捉えたシレネへと、彼女は笑みを向ける。それは、安心がもたらした強がりだった。
「分かってた」 シレネは、いつものように短く、ただそれだけを返した。
これが戦いの終わりであるなら、そんな彼女を、カシオペは抱きしめるぐらいはしたかもしれない。
だが──シレネの仕事は、まだ終わっていない。
カシオペは、自らの傷に応急処置を施しながら、彼女に告げる。
「……できることなら、殺さないこと」
「瀕死の重傷を負わせて、望みを繋がせること。できる──?」
シレネは何も応えず、静かに背に負った弓を解いた。矢筒から一本の矢を抜き取る。
羽根が空気を撫で、指がそっと弦に触れる。矢を番える。
その瞬間、谷全体が息を止めたように停止した。
そのまま弦を引くと、弓は軋まず、ただ深く、しなる。
まるでこの白霧の谷が、新たな主を認め、その力を差し出しているかのように──限界まで引き絞られた弓には、力が満ちていく。
揺らがず、迷わず、シレネの呼吸は、弓と重なり、ひとつになる。
ただ──約束された次の瞬間を待っていた。
◆
勇者たちは、プルサチラのもとへと駆け寄った。感謝と、勝利の祝福を伝えるために。
誰より早く駆けだしたリラは、抑えきれぬ感情のまま、今にも抱きつかんばかりの勢いで声を弾ませる。
彼女の精霊魔法への驚嘆と、憧れと、感動を、子供のようにはしゃいで、そのまま言葉にしていた。
そのときだった──
”ᛁᚴ : ᛒᛁᛦ : ᚢᛦᚦ(運命の矢)”
──その一瞬は、あまりに唐突に訪れた。
音はなく、風も揺れず、殺気すら存在しない。込めた魔法の気配すら隠した、完璧なる一射だった。
それがローザを貫いた。プルサチラを囲む勇者たちの背後から、不可避の運命を巡り──ローザの胸を、正確に射抜いた。
誰にも、その瞬間を捉えることなど不可能だった。
ローザの身体が、わずかに揺れる。次いで、糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。
そのすべては、もう既に終わっていた。
「────!! ローザ……?」
その異変に、誰よりも早く動いたのはグレンだった。考えるより早く、身体が反応していた。
勇者を守護する盾である彼の任務も、この状況の確認も、すべて後回しにされた。
ただ、倒れた彼女のもとへ。彼の視界はその姿だけを映し、駆け寄った。
次いで、ヴィートもまた、異変に気付いた。
だが──
その一歩を踏み出すより早く、彼の行動を止める者が、目の前に立っていた。
そのエルフの剣士は、先に剣を抜き構えた。
その剣は、異様だった。エルフの細剣とは明らかに異なる、分厚く、わずかに反りを持つ片刃の刀身。見たことのない形状でありながら、刃に浮かぶ刃文に目を吸い寄せられる。
エルフは剣を両手で取り、中段に構える。切先に気負いはなく、ヴィートの心臓を指したまま微動だにしない。
瞬間──勇者も聖剣グラムを抜き構える。
状況の判断も追いつかぬまま、未知の武器を構える敵を前に、ヴィートは迷いを捨てた。
この一瞬、勇者はその力を解放せず、ただ剣技のみに委ねた。
加護も、奇跡も、何ひとつ──そうせねば、この一瞬を掴むことはできなかった。
それをさせぬ刹那──それを許さぬ間合い──それができぬ心の在り様──。
すべてが──この一瞬へと収束する。
無限の静寂。そののち、両者は踏み込む。
──”そは、人を斬るには非ず、魔を斬るにも非ず”──
剣と剣は交差し、火花を散らした。
──”神を殺す也”──
神剣伊須受霧山は、聖剣グラムを断ち斬った──
両断された刀身が、キィン、キィンと、乾いた音を立て、谷の岩肌に転がった。
手元から、有るべきはずの重みを奪われ、ヴィートは自然と、その音の行方を追った。
もうすでに勝負は決している。勝者と敗者が、もう覆ることはない。
なのに──その敗者が見せた空白への振り向きざま、無防備に晒された喉元に、白雷のドリアスの剣は突き込まれる。
もう誰からも、その二つ名を呼ばれなくなったその剣は、深く、速く、正確に、その命を散らした。
──かくして、千の葉の『勇者暗殺作戦』は、一切の滞りなく、ここに完遂された。




