第二十四話 千年の魔法
白霧の谷の騒ぎは、次第に大きくなっていった。
何も知らない勇者たちでも、白霧の奥で何かが起きていることを、はっきりと感じ取った。
谷からの風を受けて、プルサチラの髪がなびく。
その風は、祭りを喜ぶ子供のようにパタパタと、嬉しそうに踊っているようだった。
その風を拒まず、彼女はゆっくりと杖を構えた。
まだ、敵は姿を見せない。だが、エルフの目は、その結末までも捉えていた。
”ᛁᚴ : ᚢᛁᛦᚦᛦ : ᚢᛁᚾᛏᛦ(私は風)”
プルサチラの呪文が風に乗る。
意志を持った言葉は、形を得たように彼女を包む。
部下たちはその彼女を支える。それは魔法を援護するのではなく、彼女が戻る目印とするためだった。
次の瞬間──白霧の谷から、追い立てられた翼魔たちが溢れ出した。
恐怖に駆られ、死から逃れる彼らには、プルサチラたちの姿など目に入らない。
その翼魔族の大軍を前に、プルサチラはただ曖昧なままだった。戦う意志を持たず、手に構えた杖だけが、風の中で敵を捉える。
迫る敵を前にしたその姿に、見届けると決めた勇者ですら、聖剣に手を伸ばした。
だが──それは無駄だった。
風は消え、空は静止していた。
白霧の谷を満たしていたはずの空気は、音もなく均されていた。
谷底から吹き上がる風も、峰から駆け下りてくる風も、谷を渡る風はすべて止まった。
その異変に、翼魔たちは気付くことすらなかった。
いや、気付けるわけもなかった。それは変わらず存在し、確かに”在る”のだから。
羽ばたく──。翼魔は鳥と同じく、風を読み、自然の変化に対応する。突風が吹こうが、嵐が起きようが、彼らが落ちることはない。
だが、これはその範疇にない。
風が起きない──。翼は確かに空気を捉える。なのに、風がない。彼らを空に支えるものが、どこにも存在しない。
それでもなお、彼らは羽ばたくことしかできなかった。本能のままに、必死に。
だが──本能はこの現象の解答を、持っていなかった。
翼魔の翼は、空に拒まれたように無残に落下した。どれだけ羽ばたいても、揚力を一切生み出すことができず、谷底に落ちていった。
その姿は、まるで水のない水面を泳ごうとするかのように哀れだった。
翼魔の大軍は、その悉くが抗う術もなく、次々と地へ落ちていった。
その光景は、勇者たちですら容易には信じがたい光景だった。
「すごすぎる……」 誰かの稚拙な呟きだったが、それ以外に形容のしようがなかった。
「こんなことが、本当にできるなんて……」
とりわけ魔法使いのリラは、この現実を受け入れられないほどの衝撃を受けていた。
目の前で起きた現象は、明らかに人間の術理の外にあった。恐らく、自分たちではどうあっても到達できない極致。
風を操るのではなく、風そのものと同化し、その意志に触れる──プルサチラの深淵を垣間見た彼女の瞳は、恐れと、そして抗えない感動に満たされていた。
しかし──戦いは、まだ終りではなかった。
配下を失い、地を這う身に堕とされながらも、この谷の主はまだ諦めていなかった。
群れの生き残りを、その銀翼の影にかき集め、最後の力を振り絞る。
彼らは魔力を集中させ、一斉に詠唱を開始した。
たとえ空を奪われようと、魔族の力までは奪えない。最後の足掻きに、それだけを証明するために、残る力のすべてを込めて、ただ一点──銀色の翼からプルサチラへと、歪んだ闇の波動が放たれた。
だが、それすらもプルサチラには届かなかった。
風と同化している彼女を守るため、控えていた者たちが前に出て、杖を構え銀翼の影へと向ける。
そして、彼らもまた一斉に詠唱を開始する。プルサチラが編み出し、そして教えられた究極魔法──あの魔王スヴァルトを、魔法兵の総力をもって仕留めた破壊の魔法を。
プルサチラを欠いたまま、詠唱は重なり、光の紋様が空間に浮かび上がる。幾重にも重ねられた魔力が、先頭のエルフの杖へと収束していく。
その先端に、すべてが集まる。──そして。
”ᚠᛁᛘᛒᚢᛚᚢᛁᛏᚱ(終焉の冬)”
杖から放たれた光は、この世の理に属するものとは思えなかった。
それは輝きというより、世界を削り取る刃だった。触れたものが何であろうがお構いなく、赦しはなく、ただ貪るように呑み込みながら、一直線に空間そのものを侵食する。
光の内と外は別世界──そう直感させる理屈を越えた凶兆があった。圧倒的な異質。その恐怖は、抗うという発想を押し潰す。
迫り来る敵の魔法は、その光に触れた瞬間、抵抗の間も無く砕け、凍てつき、跡形もなく消滅した。
ただ、一方的な否定。それはそのまま止める術なく、光は魔法を打ち抜いて、その先の銀色の翼を散らした。
時を待たず、プルサチラが戻ってくる。風に浮かぶ彼女の足が、ゆっくりと地に触れる。
その時にはもう、白霧の谷を飛ぶ翼は一つとして残っていなかった。
──黄金のトリネコの約束は果たされた。
プルサチラたちが見せたエルフの魔法は、魔王城へと至る道を切り開いた。
勇者たちにとって、この戦いは、単なる露払いと呼ぶにはあまりにも鮮烈だった。
その目に映った光景は、言葉では言い表せないような畏怖と、同時に感動をその胸に抱かせた。
あのプルサチラが、なぜここまで──と、その当然の疑問を巧妙に隠すほどに……。




