第二十三話 蛇を食む牡鹿
プルサチラは、神殿騎士団も、王国も恨んではいなかった。魔法評議会を追われたことになど、何の未練もなかった。
──あの時、あの選択をしなければ、エルテにこの安らぎを与えることはできなかった。
その事実だけが、彼女にとって、ただ一つの真実だった。たとえ他のすべてと引き換えにしても、それだけはもう覆ることはなかった。
彼女は、独りになった後も、この地を離れようとはしなかった。
まだ彼女には、ヨールバルから託された仕事が残っていた。
『蛇を食む牡鹿』──これもまた、彼が生涯をかけて辿り着いた到達点だった。
ヨールバルの最高傑作であるこの杖は、人の手に余る領域にあった。その力は、あまりにも精緻に過ぎた。
四匹の牡鹿の角に魔力を宿らせ、その目のように配された八つの曹灰長石へ、寸分の狂いなく魔力を巡らせる。それらすべてを統御するには、精霊と意識を一体化するほどの境地に至らねば不可能だった。
エルテにも、そしてプルサチラですら、人魔の他の誰であれ、そんなことができる者はいなかった。
プルサチラは、この誰も扱えないヨールバルの最高傑作の力を、証明せねばならなかった。
雪に閉ざされた森の中で、ただ独り、その力と向き合い続ける。
それは、誰がためか──ヨールバルか、エルテか、それとも自分か。
理由は、もはや言葉にはならない。彼女にとってただ一つの真実が、残された最後の役目だった。
プルサチラは、己の精霊魔法を、その根底から見つめ直した。
エルフの目には、精霊が見えている。それは他の種族は持ち得ない、特異な感覚だった。だが、見えることと、従わせることは、等価ではない。
森の中で長い時を過ごし、木々と語らい、風や水に耳を澄ませて、ようやく一つの想いが届く。彼らとの距離はそれほどに遠く、気まぐれで、繊細な存在だった。
プルサチラは、その才能に恵まれていた。だが、だからこそ、その日々を疎かにしていた。
精霊は応えてくれるもの。それが当たり前になっていた慢心に、ヨールバルの杖は気づかせた。
彼女は、最初からやり直すことを選んだ。
何もかもを失くし、時が止まったようなこの森の中で、まるで赤子が初めて立ち上がり歩き始めるように、精霊との関係を築き直していった。
精霊とは、気まぐれな自然そのものである。森に生きる木々だけでなく、満ちる風にも、水にも、土にも、そして光にも、必ず精霊は宿っている。
そこには確かな意志があり、術者の都合では動かない。心が濁れば、精霊は離れる。自然を損なう意志には、決して力は貸さない。
精霊が好む清浄な魔力を捧げ、循環の中に身を置き続けるならば、精霊はやがて、その声に耳を傾ける。
プルサチラは、精霊との在り方を改めて学び直していった。
森と共に目覚め、古木に宿る精霊に挨拶し、新しい朝を迎えた。
梢に残る朝露を、掌で受け止め、喉を潤す。風が木の葉を鳴らす音と戯れ、歌を返した。
柔らかな苔の上に足を置くたび、歩調は森の鼓動と重なる。目を閉じれば、森の隅々まで見渡せるようだった。
森の恵みに感謝し、また自分もその一部となり、森と共に眠りにつく。
そしてまた、森とともに目覚め、森とともに眠る。
そして、森とともに年を重ね、森とともに老いていく。
季節は幾度となく繰り返され、長い時間が穏やかに流れていった。
──そして百年の時が流れた。
森は形を変えてしまっても、プルサチラは変わらずに、そこに在り続けた。
ただし、変化がただ一つ。その月日を経て、彼女は蛇を食む牡鹿と向き合うことを決めた。
四匹の牡鹿の角。八つの曹灰長石。
かつては、ただ精緻なだけの器にしか見えなかったそれらが、今はもう違っていた。それぞれに宿るものが、確かな意志として、彼女の内へと流れ込んでくる。
プルサチラは、静かに杖に手を伸ばし、目を閉じた。
──ダインとドヴァリン。ええ、あなたたちはそよ風……ずっと、そばにいたのね。
──ドゥネイアとデュラスロール。お待たせしてごめんなさい。二人は嵐……退屈だったでしょう。
かすかな気配が、頬を撫でる。応えるように、空気が震える。
そして、杖に触れた瞬間──風が逆巻いた。
森の静寂は破られ、鳥たちまでも一斉に騒ぎ出した。荒ぶる風は、祝福のようでもあり、拒絶のようでもあった。
風は増々猛り、プルサチラの身体を包み込むと、ついにその足を浮き上がらせる。
プルサチラは抵抗もなく、すべてを受け入れ、風に身を委ねる。
心地よい揺り籠に揺られているような、嵐の中に呑まれているような、曖昧な中に溶けてゆく。己と精霊の境界が消えてゆく。
やがて、風はゆるやかに収まっていった。
彼女の足が再び地に触れた時、森は何事もなかったかのように静まり返っていた。だが、その形は、かつてのものとはまるで違っていた。
プルサチラは、杖を握った。杖は、そう在ることを望んだ。それだけだった。
こうして彼女は、唯一の蛇を食む牡鹿と共に在る者となった。
◆
そして今──
プルサチラは、蛇を食む牡鹿をその手に携え、立っていた。
杖の先が指し示すのは、白霧の谷。脇には、数名の部下たちが控える。さらにそれを遠巻きに、勇者たちが見守っていた。
黄金のトリネコで交わされた約束。彼らはそれを信じ、プルサチラに手を貸すことはしない。
彼らは、ただ黙って見届ける。これから彼女が為すことを、決して邪魔をしないようにしていた。
やがて、谷がざわめき始める。
だが、カシオペたちは戻らない。それは、初めから織り込み済み。彼女たちはその犠牲に眉一つ動かさず、ただ見つめていた。
谷から鳥の群れが空高く飛び立っていく。
しかし、翼魔たちに同じことはできない。シレネの弓兵たちから狙われている彼らには、空に姿を晒すなど、射殺してくれと死を選ぶに等しかった。
行き場を失った翼魔たちは、統制を失い、本能のまま白霧の谷を一心不乱に下りていく。
かつて狩り立てた人間たちと、その立場は逆転し、死の恐怖からひたすら逃げる。
かつて狩り立てた人間たちと、その運命を真似するだけだと、分からずに。




