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elf:1000 ─千年戦記─  作者: 世葉
第二章 勇者暗殺作戦
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第二十三話 蛇を食む牡鹿

 プルサチラは、神殿騎士団も、王国も恨んではいなかった。魔法評議会を追われたことになど、何の未練もなかった。

 ──あの時、あの選択をしなければ、エルテにこの安らぎを与えることはできなかった。

 その事実だけが、彼女にとって、ただ一つの真実だった。たとえ他のすべてと引き換えにしても、それだけはもう覆ることはなかった。

 

 彼女は、独りになった後も、この地を離れようとはしなかった。

 まだ彼女には、ヨールバルから託された仕事が残っていた。


 『蛇を食む牡鹿(オルメテール・ヨルト)』──これもまた、彼が生涯をかけて辿り着いた到達点だった。


 ヨールバルの最高傑作であるこの杖は、人の手に余る領域にあった。その力は、あまりにも精緻に過ぎた。

 四匹の牡鹿の角に魔力を宿らせ、その目のように配された八つの曹灰長石(ラブラドライト)へ、寸分の狂いなく魔力を巡らせる。それらすべてを統御するには、精霊と意識を一体化するほどの境地に至らねば不可能だった。

 エルテにも、そしてプルサチラですら、人魔の他の誰であれ、そんなことができる者はいなかった。


 プルサチラは、この誰も扱えないヨールバルの最高傑作の力を、証明せねばならなかった。


 雪に閉ざされた森の中で、ただ独り、その力と向き合い続ける。

 それは、誰がためか──ヨールバルか、エルテか、それとも自分か。

 理由は、もはや言葉にはならない。彼女にとってただ一つの真実が、残された最後の役目だった。


 プルサチラは、己の精霊魔法を、その根底から見つめ直した。

 エルフの目には、精霊が見えている。それは他の種族は持ち得ない、特異な感覚だった。だが、見えることと、従わせることは、等価ではない。

 森の中で長い時を過ごし、木々と語らい、風や水に耳を澄ませて、ようやく一つの想いが届く。彼らとの距離はそれほどに遠く、気まぐれで、繊細な存在だった。


 プルサチラは、その才能に恵まれていた。だが、だからこそ、その日々を疎かにしていた。

 精霊は応えてくれるもの。それが当たり前になっていた慢心に、ヨールバルの杖は気づかせた。


 彼女は、最初からやり直すことを選んだ。

 何もかもを失くし、時が止まったようなこの森の中で、まるで赤子が初めて立ち上がり歩き始めるように、精霊との関係を築き直していった。


 精霊とは、気まぐれな自然そのものである。森に生きる木々だけでなく、満ちる風にも、水にも、土にも、そして光にも、必ず精霊は宿っている。

 そこには確かな意志があり、術者の都合では動かない。心が濁れば、精霊は離れる。自然を損なう意志には、決して力は貸さない。

 精霊が好む清浄な魔力を捧げ、循環の中に身を置き続けるならば、精霊はやがて、その声に耳を傾ける。


 プルサチラは、精霊との在り方を改めて学び直していった。

 森と共に目覚め、古木に宿る精霊に挨拶し、新しい朝を迎えた。

 梢に残る朝露を、掌で受け止め、喉を潤す。風が木の葉を鳴らす音と戯れ、歌を返した。

 柔らかな苔の上に足を置くたび、歩調は森の鼓動と重なる。目を閉じれば、森の隅々まで見渡せるようだった。

 森の恵みに感謝し、また自分もその一部となり、森と共に眠りにつく。


 そしてまた、森とともに目覚め、森とともに眠る。

 そして、森とともに年を重ね、森とともに老いていく。

 季節は幾度となく繰り返され、長い時間が穏やかに流れていった。


 ──そして百年の時が流れた。

 森は形を変えてしまっても、プルサチラは変わらずに、そこに在り続けた。

 ただし、変化がただ一つ。その月日を経て、彼女は蛇を食む牡鹿と向き合うことを決めた。

 

 四匹の牡鹿の角。八つの曹灰長石。

 かつては、ただ精緻なだけの器にしか見えなかったそれらが、今はもう違っていた。それぞれに宿るものが、確かな意志として、彼女の内へと流れ込んでくる。

 プルサチラは、静かに杖に手を伸ばし、目を閉じた。


 ──ダインとドヴァリン。ええ、あなたたちはそよ風……ずっと、そばにいたのね。

 ──ドゥネイアとデュラスロール。お待たせしてごめんなさい。二人は嵐……退屈だったでしょう。


 かすかな気配が、頬を撫でる。応えるように、空気が震える。

 そして、杖に触れた瞬間──風が逆巻いた。


 森の静寂は破られ、鳥たちまでも一斉に騒ぎ出した。荒ぶる風は、祝福のようでもあり、拒絶のようでもあった。

 風は増々猛り、プルサチラの身体を包み込むと、ついにその足を浮き上がらせる。


 プルサチラは抵抗もなく、すべてを受け入れ、風に身を委ねる。

 心地よい揺り籠に揺られているような、嵐の中に呑まれているような、曖昧な中に溶けてゆく。己と精霊の境界が消えてゆく。


 やがて、風はゆるやかに収まっていった。

 彼女の足が再び地に触れた時、森は何事もなかったかのように静まり返っていた。だが、その形は、かつてのものとはまるで違っていた。


 プルサチラは、杖を握った。杖は、そう在ることを望んだ。それだけだった。

 こうして彼女は、唯一の蛇を食む牡鹿と共に在る者となった。



 そして今──

 プルサチラは、蛇を食む牡鹿をその手に携え、立っていた。


 杖の先が指し示すのは、白霧の谷。脇には、数名の部下たちが控える。さらにそれを遠巻きに、勇者たちが見守っていた。

 黄金のトリネコ(ギルデン・アスク)で交わされた約束。彼らはそれを信じ、プルサチラに手を貸すことはしない。

 彼らは、ただ黙って見届ける。これから彼女が為すことを、決して邪魔をしないようにしていた。


 やがて、谷がざわめき始める。

 だが、カシオペたちは戻らない。それは、初めから織り込み済み。彼女たちはその犠牲に眉一つ動かさず、ただ見つめていた。


 谷から鳥の群れが空高く飛び立っていく。

 しかし、翼魔たちに同じことはできない。シレネの弓兵たちから狙われている彼らには、空に姿を晒すなど、射殺してくれと死を選ぶに等しかった。


 行き場を失った翼魔たちは、統制を失い、本能のまま白霧の谷を一心不乱に下りていく。

 かつて狩り立てた人間たちと、その立場は逆転し、死の恐怖からひたすら逃げる。

 かつて狩り立てた人間たちと、その運命を真似するだけだと、分からずに。


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