第二十二話 火種の血エルテ
通告書に記された期日の日、神殿騎士団はエルテの引き渡しを求め、魔法評議会を訪れた。
だが、その姿はすでにどこにもなく、彼らの目的が達成されることはなかった。
当然、騎士団は議長のヨールバルを厳しく尋問した。しかし、いかなる問いにも彼は口を閉ざし、ついに何一つ有用な情報を引き出すことはできなかった。
とはいえ、神殿騎士団もまた、事をこれ以上大きくするわけにはいかなかった。
魔族との戦いが続く中で、魔法評議会と完全に敵対することは、自らの首を絞めるに等しい行為だった。
一方で王国もまた、神殿騎士団との衝突は避けたかった。
同時に、人間が手にした魔法の力を、容易く手放すことなどできるわけもなかった。
この危機を収めるため、両者は幾度もの折衝を重ね、やがて一つの妥結に至る。
魔法評議会は、議長ヨールバルと、行方不明となった二名を評議会より追放した。しかし表向きには、これは組織の刷新による新体制への移行とされ、すぐさま新たな議長が据えられた。
評議会は何事もなく存続し、創設者である三賢者の名は、その権威と共に残された。
以降、魔法評議会は、人間の手によって管理、運用されていくことになる。
こうして、すべての真実は覆い隠されたまま、幕は静かに下ろされた。
あるいは、この結末こそが、最初から描かれていたものだったのかもしれない。だがその真相は、今となっては誰にも分からない──。
◆
森の奥深く、木々の梢が幾重にも重なり合い、外界の光をやわらかく遮る場所があった。
風は穏やかにそよぎ、木の葉を優しく揺らす。そのリズムは枝に溶け、そしてまた、風に薫る。
朝になれば鳥の声が満ち、夜になれば虫の音が広がる。
そこには、争いの音は一つも届かない。
小さな小屋が一つ、木立に寄り添うように建っている。
その小屋の周りだけ、少しの手入れがされていて、人の温度が感じられた。
「ちょっと取り過ぎてしまったかしら」
エルテは、庭先のテーブルに森で取れた果実を並べた。
「ええ。でも、もうすぐ冬が来るわ。余ったものは保存しておきましょう」
プルサチラは笑いながら、その果実を手に取った。
涼やかな風が吹いた。小屋の脇に置かれた水桶に波紋が浮かぶ。水面には、木漏れ日が揺れていた。
神殿騎士団は、エルテの捜索をしなかった。
戦いの最中、彼らに人ひとりを探すために割く余計な兵などいなかった。それに、魔法評議会との関係を断ち、何者でもなくなったエルテは、彼らには何の価値も無かった。
むしろ、今となっては、エルテを見つけてしまう方が、彼らには都合が悪いことだった。
プルサチラはエルテに何も話さなかった。そして、エルテもプルサチラに何も聞かなかった。
──エルテは、小さな村に生まれた。
両親は貧しい農民で、暮らしは決して豊かではなかった。彼女自身も、特別に秀でた才を持っていたわけではない。それでも彼女は、日々の営みの中に確かな幸せを感じていた。
だが、そのささやかな幸福は、ある日、何の前触れもなく奪われる。
村は魔族による襲撃を受け、抵抗する術を持たぬ村人たちは、為す術もなく蹂躙され、そのほとんどが命を落とした。生き残ったわずかな者たちも、魔王城へと連行された。
その目的は、魔王ラーベンの魔法研究の実験体とすることだった。そこで繰り返された実験は、彼女の身体と精神を弄び、死することが生温いと感じるほどの苦痛を与え続けた。
だが──彼女は、失敗作だった。
その他の者たちと同じように、無価値な塵として廃棄される運命をたどった。
多くは、死してから捨てられる。だが、彼女だけは、まだ息のあるまま外へと放り出された。
そこに特別な意味はない。彼らにとっては、どちらでも同じことだった。不手際でもなければ、手違いでもない。無価値な塵として打ち捨てられた。
その他のものたちと同じように、死した塵として、その命は消える運命にあった。
だが──彼女は、救われた。
騎士団が、彼女を救い出したのではない。勇者が、助けに現れたのでもない。
残されたわずかな力で地を這い、血に濡れた体を引きずりながら水辺へと辿り着き、そのまま流れに身を任せた。
どこへ行くのかも分からぬまま、ただ遠くへと流されて、見知らぬ土地に流れ着いたのだった。
しかし、その地でも、エルテに幸せは戻らなかった。
身寄りのない彼女に、手を差し伸べる者もいた。だが、魔に侵されたその身体は、人々にとって恐怖の対象となり、忌み嫌われ『魔女』と呼ばれた。
救われたはずの命は、人から拒まれ、エルテはただ独り、哀れみと蔑みの目から耐えていた。
ある時、その『魔女』の噂を聞きつけて、一人の男が彼女の前に現れた。
その小人族は、ヨールバルと名乗った。彼は、エルテの内に宿るものに、強い関心を示した。
だが──彼女は、失敗作だった。
魔女と呼ばれながらも、エルテは魔法など扱うことはできない。その身体は魔族にもなりきれず、人へと戻ることも叶わない。何の役にも立たない無価値な塵だった。
それは、ヨールバルの求めるものではなかった。それでも、彼は、エルテに手を差し伸べた。
「一緒に旅をしませんか──?」
ただそれだけの誘いに、エルテは迷わなかった。
理由は、ひとつで十分だった。自分がまだ、誰かに必要とされている──ただそれだけのことが、嬉しかった。
その旅は、決して平坦なものではなかった。
ヨールバルは、魔王ラーベンの巨大な力に対抗する術を求めていた。
確かなあてもないまま、異種族の地を渡り歩き、断片的な伝承を拾い集め、危険な遺跡を巡った。幾度も命を落とすような目に遭いながら、それでも歩みを止めることはなかった。
そうした旅の途中、二人はエルフの地でプルサチラと出会う。
彼女の精霊魔法の力に魅せられたヨールバルは、エルフの長を説得し、彼女を旅に加えた。
三人となった旅は、さらに苦難の連続だった。
日に日に強まる魔族の脅威。思うように進まない探索。積み重なっていく失敗と、報われない成果。どうにもならない現実を前に、手に入れたものなど、ほとんど無いに等しかった。
だが──彼女は、救われていた──
やがて、森に冬が訪れた。木々は雪に覆われた。
森の静寂はより深く、雪の白色にすべて吸い込まれたように静まり返っていた。
小屋の煙突からは、細い煙がまっすぐに立ち上る。中では、炉にくべられた薪が、静かに火を揺らしている。
ぱちり、と小さく弾ける音だけが鳴った。
プルサチラは何も言わず、エルテの額にそっと手をかざす。伝わる熱を感じる。エルテは横になったまま、静かに目を開き、かすかに微笑んだ。
「おやすみなさい、エルテ──」 その笑顔に、彼女は母親のような愛情で応えた。
魔王ラーベンによる無理な施術は、エルテの身体を深く蝕んでいた。
その身で旅を続け、あげく人間に魔法を授けるために、彼女は自らの血を差し出した。とうに体は限界を超え、残された時間はもうわずかだった。
どんな術を尽くしても、手の施しようがない、エルテの灯火は尽きようとしていた。
外の景色は、白く停止していた。時間さえも凍りついてしまえばいいと、プルサチラは祈った。
やがて、エルテの呼吸は、わずかに揺らいで、静かに途切れた。
それはあまりにも穏やかで、終わりであることにすら気づかぬほどだった。
冬の終わりを待つことなく、エルテは逝った。
プルサチラは、しばらくのあいだ、その手を握ったまま動けなかった。
やがて、ゆっくりとその手を胸の上に戻すと、そっと目を伏せた。
ぱちり、と小さく弾ける音だけが鳴った。
そして、プルサチラのもとには、一振りの杖だけが残された。




