第十九話 陽動作戦
数日前──。
白霧の谷から離れた仮設の陣地で、作戦会議が開かれていた。
「──まず、この作戦は、プルサチラの前に翼魔将軍ソルヴをおびき寄せる陽動です」
リンネは、カシオペとシレネを挟んで、今回の作戦の概要を説明していた。
「ですが、敵とて愚かではありません。陽動だと悟られれば、こちらの誘いに乗ってくることはないでしょう」
一拍置いて、リンネは続ける。
「ですので、今作戦は『白霧の谷攻略作戦』として、ソルヴの命を狙っているように見せる欺瞞行動に徹しなければならない」
そこまで言って、リンネの視線はカシオペに向かう。
「……カシオペの斥候部隊にとって、最も危険な任務となるでしょう」
その声は、感情を削ぎ落としたように冷たく響いた。
「こちらが決死の覚悟を見せれば、敵は自分の優位を信じる。陽動はその油断に付け込むことで、初めて成功する」
「貴女たちは、少人数で敵の本隊と交戦することになります……」
そこまで告げると、リンネは口を閉ざした。
「──人選は貴女に任せます。こちらの流す血こそが、彼らをおびき寄せる餌になる」
再び開いた口からは、残酷な宣告が伝えられた。
だが、カシオペは顔色一つ変えなかった。
「分かったよ。任せときな」 ただ、それだけを答えた──。
◆
白霧の谷の侵入者に対し、翼魔たちは静かに動き出した。
”数は少ない。だが、強い。ならば、なにも正面から噛みつく必要はない”
先程の馬鹿が残したわずかな情報が、狩りの手順を改めさせる。
翼魔たちは散開すると、この翼魔の巣の天然の霧と岩の防壁、その優位性を最大限に活かした作戦に出た。
まず、手始めに仕掛けたのは、急降下と一撃離脱を繰り返す単純な波状攻撃。
侵入した小隊に合わせて小編隊を組み、複数方向から同時に襲いかかった。
”視界が効かぬはずの霧の中、それでも奴らは反撃してくるだろう”
”だが、相手にするのは、奴らの数十倍だ。どれほど強かろうが、無尽蔵の体力を持つ者などいない”
”いずれ反撃は鈍る。その時が来るまで、代わる代わる相手をしてやればいい”
翼魔たちは、この谷の支配者の意志を共有し、動いている。
霧の谷に、刃と爪がぶつかり合う鋭い音がいくつも響いた。
想定通り、侵入者たちは即座に反撃する。鋭い一撃が翼を裂き、何匹もの翼魔が霧の底へと墜ちていった。
だが、その数が増えるほど、状況が悪化するのは侵入者の方だった。
”細身の体に、音を殺した最小限の革鎧。フードで顔を隠しているが……”
”間違いない──奴らは、エルフだ”
戦いを重ねるほど、翼魔たちは侵入者の正体を剥がしていった。
”速度で我らを上回る。よく鍛錬を積んだエルフの斥候だ”
エルフの侵入者たちは、すべてを承知でこの巣へ踏み込んできている──それはもう明らかだった。
この白霧の谷では、翼魔こそが絶対の優位を持つ。ここから繰り出す攻撃は、未だ破られたことはない。その我らに、渡り合う──それほどの手練れであることは疑いようがなかった。
だからこそ翼魔たちは、軽率に勝負を急がない。
今ある数の優位を確実に活かし、波状攻撃に緩急を織り交ぜ、敵に主導権を握らせない。
確実に獲物を追い詰めていくために──やがて攻撃は、そのリズムを少しずつ加速させていった。
霧を裂く翼の唸り。急降下する影。刃と爪がぶつかり合う金属音。
容赦なく押し寄せる攻撃の中で、ついに一人、また一人と、エルフたちの中に不覚を取る者が現れ始めた。
だが、それでも──カシオペたちは、退かなかった。
彼女たちは、倒れた者すら、最初から理解していた。この戦いが、どれほど絶望的なものかを。
この白霧の谷は、翼魔の巣だ。数も、地の利も、すべてが敵にある。それでも彼女たちは、この戦いに身を投じた。
それはなぜか──この戦いは、他の誰でもない自分で始めたものだから。
そしてなにより──勝利に繋がる戦いだからに他ならない。
この霧の中で位置を見失わず、敵を捉えることができるのは──なにも翼魔族だけではない。
──エルフの目には、精霊が見えている。
それは、人間はもちろん、魔族の目にも映らないものだ。
エルフ以外の種族には、森の木々や草花は、一つ一つが同じものにしか見えない。だがエルフの目には、それぞれに宿る精霊たちが、異なる表情を持つ存在として映っている。
谷の岩、霧に濡れた草、静かな水の流れ──すべての場所に、小さな精霊が息づいている。
たとえ白霧が視界を覆い尽くしても、谷に眠る精霊たちは道を示す。
エルフたちに、色鮮やかな世界を描き知らせているのだ──
”その手にした双剣の刃が折れた時──それが貴様らの最後だ”
翼魔たちは最後の仕上げに取り掛かる。
止むことのない波状攻撃を続けながら、間合いを徐々に詰めていく。
周囲を包囲し、逃げ道を潰し、あとは、最後の抵抗が尽きるその瞬間を、翼魔たちは今か今かと見守った。
そして──それこそが、カシオペが待ちわびていた瞬間だった。
カシオペは短い合図を送る。それは瞬時に、散開していた仲間たちを、霧の中から集結させた。
しかし、その数は決して多くはなかった。戻らない仲間の方が、すでに多かった。
その動きに引き寄せられるように、翼魔たちも後を追って集まってくる。
”最後は、仲間と死にたいか……”
獲物の方から態々集まってくれたのだ。
圧倒的な数の完全な包囲に、もう打つ手は残っていない──そう思わせた、その時だった。
カシオペに、最後の一撃を加えようと急降下した翼魔が、突如、空中で撃ち堕とされた。
一匹や二匹ではない。カシオペへ殺到した一団ごと、まとめて攻撃を受けたのだった。
”──何が起きた! 攻撃を受けた?!”
翼魔たちの間に動揺が走る。だが、そんなはずはなかった。この白霧の谷に入り込んだ者を、こちらが察知できないはずがない。
何に撃たれたのか──それは、墜ちていく翼魔たちだけが知っていた。だが、それが何だったのか、まだ生きている者に、その確認は許されなかった。
カシオペたちは一斉に、翼魔にすかさず止めを刺していく。
そのあまりに正確な連携は、これが偶然や奇跡であるのなら、あり得ないものだった。
”これは、計画されたものだ” その迷いのない動きはそれを証明した。
”つまり、いるのだ。伏兵が” 翼魔たちは、その見えない敵を探した。
その確信を見透かすかのように、もはや隠すこともなく、翼魔を狙った攻撃が放たれる。
それは、谷を抜けた先からの、背後をついた一斉射撃だった。




