第十八話 白霧の谷
霧に沈む深い谷を、冷たい風が通り抜けていく。
魔王城へと続くこの谷の麓には、かつていくつもの集落が点在していた。
小さな村には、村人全員を収容できるほどの、似つかわしくない大きな教会が建っていた。
それは厳しい冬を凌ぐための防壁であり、祈りを捧げる祭壇であり、祝福の時を分かち合う場だった。
村人たちはそこに集い、同じ灯りの下で生きていた。
しかし、その教会も、今はもう無い。
魔族の襲撃を受け壁は砕かれ、屋根は崩れ、柱は焼け落ちた。残るのは、黒く焦げた石垣と、墓だけ。
その墓は、魔族に殺された者たちのものではない。捨て置かれた墓標の下には、それ以前に死んだ者が眠っている。
その谷の彼らの鎮魂を切り裂いて、黒い翼が超えていく。
一つではない。幾千にも連なるその翼が、霧を呑み込みながら、ひとつの意思を持つ群れのように谷を越えていく。
今や、この霧の谷は、翼魔将軍ソルヴが支配する要衝となっていた。
翼魔族の最大の強みは、他の種族には届かぬ空を自由に飛翔できることにある。だが、同時にそれは弱点でもある。
もし敵に名うての弓兵部隊でもいれば、身を隠す場所のない空に晒した体は、格好の的となるだろう。
だが、この谷はまさに、翼魔にとって理想的な天然の要害だった。
連続する狭い岩棚が射線を遮り、外からの攻撃を容易には許さない。さらに、翼魔の優れた方向感覚は、この濃い白霧の中でも狂うことはなかった。
この翼魔の巣で、彼らと戦うのは自殺行為だ──それが、長年の戦いで導き出した、人間たちの結論だった。
勇者といえど、策もなくこの谷を進むのは危険だった。
空で戦った時とは違い、この白霧の谷では敵を視認することすら困難を極める。かといって、彼らを守る天然の岩壁を破壊しながら進むわけにもいかない。
迂回するにしても、ソルヴをこの谷に残したままでは、魔王城へ進んだ後、背後を突かれる恐れがあった。
勇者たちの目的地は、ここではなく、あくまで魔王城である。この谷の攻略で、無用な消耗を重ねるわけにはいかなかった。
そう考えれば、この白霧の谷を突破することは、決して容易なことではなかった。
今──その谷を、幾つもの影が風のように走り抜けていく。
彼らは陣形を保ちながらも、いくつかの小隊に分かれ、白霧の中を突き進んでいた。
その侵入者を翼魔たちが見逃がすはずもない。
その動きは霧に隠れることを許されず、彼らは瞬く間に発見され、逐一監視された。
翼魔たちは、久方ぶりに現れた命知らずの挑戦者を、むしろ笑って迎え入れていた。
敵の進入を許しても、翼魔たちはすぐに迎撃に移りはしない。
できる限り谷の奥へと誘い込み、周囲を完全に固めて逃げ道を断つ。そして、一斉に襲いかかる。
それが、この白霧の谷における翼魔たちの狩りのやり方だった。
翼魔は、こんな遊びも好きだった。
侵入者たちをあえて全滅させず、生き残りがどんな行動を取るのかを観察するのだ。
大抵の者は恐怖に駆られ、一目散に逃げ出そうとする。
だが、この白霧の谷はそれを許さない。霧は方向感覚を奪い、恐怖と焦燥は判断を狂わせる。少しでも早くと選んだ道は、進んできた道からも外れ、出口からは遠くなる。
そして最後には、歩は止まり、せっかく拾った命を無駄に捨てることとなる。
だが、ごく稀に、そうならない者もいる。
ただ運が良かっただけなのか、あるいはこの過酷な自然に適応する術を持っていたのか。白霧の谷を抜け、出口へと辿り着く者もいた。
しかし、翼魔にはその理由など、どうでもよかった。
ただ、稀である、というそれだけで、そういう者こそ、彼らは好んで殺した──。
侵入者たちは、谷の奥へと進んでいく。
多くの翼魔は、目先の敵より、包囲をするため背後に動いた。
しかし、どんな組織にも仲間との連携を蔑ろにする馬鹿はいる。
久しぶりの餌を前にして、血気にはやった翼魔が一匹、衝動のまま霧を切り裂いて急降下した。
しかし、その愚かな暴走を、咎める者はいなかった。むしろ周囲の翼魔たちは、面白がるように笑っていた。
視界を奪われた状態で、頭上からの急襲に対処できる者などそう多くはない。多少の反撃は受けるだろうが、一人や二人は血祭りにあげるだろう──そう高を括っていた。
だが、その馬鹿は戻ることはなかった。それどころか、騒ぎの一つも起こさなかった。
敵の悲鳴も、馬鹿の断末魔も、そのどちらもないまま、その姿だけ忽然と霧の中に掻き消えた。
”────!!” その瞬間、翼魔たちの空気が変わる。
その犠牲は、彼らに十分な情報を与えた──侵入者は、警戒に足る戦力を保有する、と。
敵の数は少ない。自分たちの群れに比べれば、百分の一にも満たない。だが、個々の力は侮れない。
もし、この少数で白霧の谷に踏み込んできたのだとすれば──その狙いはただ一つ。
この谷を支配するソルヴの命のみを奪いに来たに違いなかった。
”──面白い” 同時に、この谷の支配者は察知する。
そして、その意志が伝わったかのように、翼魔たちは一斉に動き出した。




