第十七話 三十年後、三百年後
その日、麓の屋敷には、多くの家臣が集められていた。
屋敷の広間には居並ぶ男たちの熱気と苛立ちが満ち、当主を囲むようにして、重苦しい空気が渦巻いている。
「殿。このような出鱈目な補任状に、従う必要などございませぬ。どうか断固たるご決断を下され」
家臣の一人が、広げられた書面を指し示し、当主へと直訴した。
「その通り! 将軍より賜りしこの地を明け渡せなど……。虚言、妄言の類にございます。言うことを聞かずとも、我らに何の咎がありましょう」
別の家臣が拳を握り締め、激しく床を叩く。
鈍い音とともに、震えが板の間を伝う。それに逆らい、異を唱える者は一人としていない。
広間にいる全ての視線が、上座の当主へと向けられていた。
その視線を受け止め、当主はゆっくりと皆を見渡すと、やがて重い口を開いた。
「……この晴具、皆の気持ちはよく分かった。私も、思いは同じだ」
その声音は低く抑えられていたが、底には確かな力が宿っていた。
「だが、敵方とて馬鹿ではあるまい。このような免状を持たせた使者を寄こしたのだ。すでに戦の支度は整えてあると見るべきだ」
広間に沈黙が落ちる中、晴具は淡々と言葉を続ける。
「ならば、我らも軽々に動くわけにはいかぬ」
「まずは、北の関所を固め時間を作り、領民を退避させよ。そして、それに紛れ兵糧を山城に運び入れ、籠城の備えを整えるのだ」
そして、迷いなく言い放った。
「時は待たぬ。今すぐ始めよ──!」
その一声で、広間の空気が震えた。家臣たちは一斉に立ち上がり、我先にと広間を後にする。
残された板の間には、つい先ほどまで渦巻いていた怒気の余韻だけが、なお重く沈んでいた。
だが、その場にドリアスの姿はなかった。
彼女はこの三十年、具方亡きあともこの地を去ることなく、この家に関わり続けてきた。この間、剣を教える客分として許され続けたのは、彼女の異端性と、三十年間の平穏からだった。
曖昧なままである彼女に正式な役職はない。ゆえに、この軍議に加わる資格はなかった。
もっとも、ドリアス自身、その扱いに不満はなかった。
これから始まる戦いは、人間と魔族の戦いではない。このクナトに生きる者たちの、そして晴具の家の、人間同士の戦いである。
そこに踏み入る道理を、ドリアスは持っていなかった。
広間から人の声が去り、日常の静けさを取り戻した頃、屋敷の離れに、ひとりの男の影が現れた。
「──ドリアス殿。お待たせした」
その声に、軒下に控えていたドリアスが顔を向ける。視線の先には、戦議を終えたばかりの姿のまま、晴具が立っていた。
彼は、次の言葉を探るように躊躇し、意を決して声を発した。
「……我らは本日より、戦の備えに入ります。しばらくは、稽古もできぬでしょう。ですので──」
そこまで言いかけて、言葉が途切れた。
晴具は、肩にのしかかる当主としての重みに潰されるように一度視線を落とし、そして静かに顔を上げる。
その時、彼がドリアスに向けた表情は、当主のものとは言えなかった。
「……一刻で結構。私に、時間をいただけませんか」
それは当主としての命ではなく、男としての懇願だった。
ドリアスはしばらく黙って晴具を見つめ、やがて小さく頷いた。
そのまま、二人は連れ立ち、山城へと向かった。
その道は、三十年前と何も変わっていなかった。ただ一つ違っていたのは──ペラペラと喋り続ける晴具の姿はなかったことだった。
すでに山城では、戦支度が始まっていた。
警備を務める番衆たちは、これから運び込まれる兵糧を収める米蔵を整え、槍や弓の手入れを急ぐ。城のあちこちで鉄と木を叩く乾いた音が響き、静まり返っていた山野に、久しく忘れられていた活気が帰ってくる。
この城が本来持っていた役目──これまで一度として使われることのなかった戦場に、ついに火が入ろうとしていた。
晴具は当主として、あるいはその首謀者として、鉄火場の中心地、山頂の本丸まで歩を進めた。
「──三十年間、父上とあなたの勝負を、私は忘れたことがありません」
その言葉は、風の中へ落ちた。
晴具はあの時と同じ場所に立っている。そして、その横には、やはり同じようにドリアスが立っていた。
「それは、私も同じだ」 それに偽りはなかった。
唯一の剣の敗北は、ドリアスの胸の底に、いまも澱のように沈んでいる。
「具教を、あなたはどう見ますか?」
続けて、晴具は息子、具教の剣を尋ねた。問いの意味を測るまでもなく、ドリアスは即座に答えた。
「あいつは、天に名を残す剣豪となるだろう」 それに偽りはなかった。
だが、その飾りのない評価は、晴具には残酷だった。
わずかな沈黙。その最後に、三十年のすべての想いを、ただ一言に託す。
「よろしければ……。一手、付き合ってくれませんか」 晴具は、ぬるりと刀を抜き構えた。
ドリアスには、その行いの意味は分からなかった。
三十年前の父親の再現。晴具がそれをする、その理由は全く分からなかった。
だが、ドリアスにはそんなことはどうでもよかった。
晴具の、誰よりも美しい刀。ただそれだけが、ドリアスが剣を抜く理由になった──。
晴具の構えは、具方とまるで同じだった。切先に気負いはなく、ドリアスの心臓を指したまま微動だにしない。
対してドリアスは、細身の剣を片手に半身で構えた。しかし、その剣先は同じく、微動だにしない。
この三十年、誰一人エルフの剣に打ち勝つ者などいなかった。
いや、それ以上に、ドリアスの方が彼らの剣を吸収していた。
白雷のドリアス──その二つ名はもはや、比喩ではなくなっていた。
一歩踏み出す間も無く、剣先は喉を押さえる。晴具は何もできず、決着を聞いた。
数瞬の静止と静寂。
──もし、彼女に勝てたなら……
三十年のすべてを掛けた晴具の夢は終わった。
肩から力が抜け、徐々に構えが解かれる。刀が下りると、声を絞り出した。
「もはや未練はない──」
その言葉になにも応えず、ドリアスは剣を収めた。
しかし、この勝利は彼女の胸の蟠りを拭うことはなかった。
たとえ、具方だったとしても、具教であったとしても、それは変わらなかっただろう。
だが、晴具はそうは思わなかった。
「ドリアス殿。最後にどうか、これを預かって頂きたい」
晴具は、ドリアスに一振りの刀を差し出した。
それは、具方がやれぬと語った伊須受霧山だった。
「この首は敵に渡せても、この御神剣を渡す訳にはいかない」
「あなたになら、安心して預けておける」
それは、ドリアスを惑わせた。
その刀の価値、それが分からぬわけではない。だが、それを受け取る理由が、ドリアスには無かった。
受け取らぬドリアスに、晴具は言葉を押した。
「預かって頂くだけです。必ず、返していただく」
それは、とても下手な芝居だった。
”必ずやこの地は守る、私は生きて帰れずとも”
その晴具の覚悟、それに情を持たぬわけではない。
だが、決して口に出さぬ思いの丈を聞けぬことが、ドリアスには悲しかった。
決して並び立つことができぬ冷たい壁が、二人の沈黙を埋めていく。
何も言えぬドリアスは、ただこの時だけは忘れまいと誓った。
それから、さらに三百年の月日が流れた──
ついぞ、ドリアスの元に、伊須受霧山を取りに来る者はなかった。
しかし、それと引き換えにするように、ドリアスはプルサチラとの再会をはたした。




