第十六話 三年後、三十年後
ドリアスがクナトを訪れてから、三年が経とうとしていたある日──。
「晴具! どうした、もうお終いか?」
「──ッ! まだ、まだぁ!」
麓の屋敷に、木刀の打ち合う乾いた音が響いていた。朝靄の残る庭先で、二人は日課となった稽古に向き合っている。
──あの日以来、ドリアスは具方に客分として迎えられた。
女人である彼女のため、具方は離れに座敷まで用意した。森を離れたはぐれエルフの剣士にとって、それはあまりに過ぎたもてなしだったが、彼女は多くを問わず受け入れた。
そしてそれと引き換えに、配下の者に剣を教えた──
木刀を中段に構え、晴具は呼吸を整えながら間合いを測り、一気に踏み込んだ。
迷いのない鋭い打ち込み──だが、ドリアスの剣は、その初動を寸分違わず押さえる。
ただ、軌道を逸らすだけの軽い突きが、晴具の勢いと相まって、その体に鈍い痛みと痣を残した。
「……何度も言っているだろう。剣ではなく重心を見ろ。そして、敵には悟られぬよう隠せ。お前はどちらもできていない」
衝撃に悶える晴具に、ドリアスは容赦なく言葉を浴びせた。
「そうは言いますが……剣から目を逸らせば、あなたは躊躇なく打ち込んで来るでしょう」
愚痴混じりの晴具の反論に、ドリアスは呆れて言葉を重ねる。 「……当たり前だろう」
その光景は、この三年間続く屋敷の日常となっていた──。
ドリアスがこの三年間、クナトに留まり続けたのは、誰に命じられたからでもなく、彼女自身が望んだことだった。
あの日に味わった敗北。それを乗り越えることは、プルサチラの行方を追う旅を後回しにするほど、彼女にとって大きな意味を持っていた。
だが本来であれば、名も身分も持たぬ異国の女人が、客人とはいえ、当主やその一族と親しく言葉を交わすなど、許されることではない。
それにもかかわらず、ドリアスが受け入れられているのには、いくつかの理由があった。
第一にドリアスは、この地に生きる人間の誰より長寿であった。
エルフの中ではむしろ若い年齢であり、世のすべてを知っているような博識というわけでもない。それでも、人の一生をはるかに越える歳月を生きる彼女の知識と経験は、彼らにとって他に代え難いものだった。
そして第二に、彼女の剣の腕前である。
この地でも、彼女に適う者はいなかった。初めは物珍しさから、あるいは女人であることから、幾人もの挑戦を受けたが、彼女はその悉くを退けた。
あの具方ですら、稽古の場ではあるものの、後れを取ることがあった。
そんなドリアスを誰一人として、蔑んだりなどしなかった。むしろその存在は、一種の崇拝にも似た感情を生み始めていた。
ドリアスにとっても、敗れてもなお、何度も挑もうとする彼らとの付き合いは新鮮に映った。
故郷の森では強さは彼女を孤独にしたが、この地では強さは人を惹きつけた。
そうして、異国の刀の重さに慣れた頃、気付けば三年という時間が経過していた──。
──「稽古のあと、御殿へ参られるようにと。父上からの言伝です」
朝稽古を終え、汗を拭いながら、晴具はそう告げた。
「そうか……珍しいな」 ドリアスは短く、ただそれだけ応じた。
だが、その胸にはわずかな違和感が残った。この三年、具方から稽古場ではない屋敷に呼び出されることなど、一度としてなかったからだ。
このクナトの地は、外の世界で戦乱が続いていることなど嘘のように、穏やかな日々を保っていた。
それは偏に、具方が内外に尽力した結果だったが、ドリアスが政に関わることはなかったし、また求められることもなかった。
その具方からの態々の呼び出し。それは、あの出会いの日の緊張を予感させる──だが、それが何を意味するのか、ドリアスにはまったく見当がつかなかった。
常御殿に通されると、ドリアスは目を疑った。
金と緑が目を引く初めて見る松の障壁画は、猛々しさと気品を感じさせる。だがそれは、とてもエルフの感性に合うものではなく、なんとも落ち着かない場所だった。
ただ、床の間に掲げられた飾り気のない一振りの刀だけは気に入った。
「ドリアス、よく参られた。ささ、こちらへ」
上座に腰を下ろしたまま、具方は対面の座を指し示す。ドリアスは促されるまま、音も立てずそこへ坐した。
他の者の気配はなく、室内に静寂が満ちる。二人きりとなった、その直後だった──。
具方は、何の前触れもなく深く頭を下げた。
「──あれから方々に手を尽くしてみたが、プルサチラなる人物はおろか、おぬしのようなエルフを見たという話すら掴めなかった。力になれず、済まぬ」
ドリアスは言葉を失った。その言葉にではなく、具方の下げた頭に。
そして納得した。それだけを伝えるために、この様な姿を他の誰にも見せぬために、ここへ呼んだのだと。
プルサチラの捜索を依頼していたわけではない。かつて、ここに来た理由について詳しく聞かれ、彼女の名を出しただけに過ぎなかった。具方がそれほどまで真剣に動いていたことすら、今の今までドリアスは知らなかった。
「気にするな」 ドリアスはわずかに肩の力を抜き、慰めるように呟いた。
「私がこうして生きているのだ。あいつが容易く死ぬはずがない。きっと、どこかで生きているのさ」
安堵から生まれた言葉が、自然に口をついて出た。
もし、三年前であったなら、こんなふうには受け止められなかっただろう。それが今は、具方の下げた頭の方が、重く感じられたのだった。
「そう言ってもらえると有難い」 具方の口元がわずかに緩む。
「──思えば、おぬしとこうして腹を割って語らうのは、あの日以来か……」
細められた眼差しは、目の前のドリアスではなく、三年前の光景を見ているようだった。
「あの時は、おぬしを間者と疑った。慌てて万全の警備を整えたが……読み違いだった」
そう自嘲気味に言うと、最後に少し笑った。
「それは初めて聞くぞ」 その笑いに、ドリアスは表情を変えぬまま応じた。
「そうか? 倅のせいで見破られたとばかり……晴具は芝居が下手よ」
そう言って、笑みを濃くした。そして、最後にこう付け加えた。
「だが、なんにせよ……よい勝負だった」
その言葉が落ちると、短い静寂が満ちた。
ドリアスには、あの敗北は未だ特別な意味があった。それは、稽古でいくら具方に勝とうとも、拭い切れるものではなかった。
その蟠りは、真剣勝負でなければ消えることはない。
やがて、具方が再び口を開く。 「──ドリアスよ。お前は、あれをどう思う?」
問いの意味を測るまでもなく、ドリアスは即座に答えた。
「覚えは悪いが、筋はいい。毎日飽きもせず向かってくる愚直さが、晴具の剣を磨くだろう」
そう言って、笑みを濃くした。そして、最後にこう付け加えた。
「だが、命を奪うには、剣先が甘い。戦場には向かない」 それは残酷だが、飾りのない評価だった。
「そうか……」 具方は短く、ただそれだけ応じた。
再び、静寂が落ちた。俯く具方を前に、ドリアスの視線は自然と、その背後にある一振りの刀へと向かった。
「……これか──?」 その視線に具方が気づき、顔を上げた。
「こればかりは、いくらおぬしが欲しいと申しても、やるわけにはいかんな」
冗談めかした口調の中に、どこか崇敬に似た硬さが混じる。具方は背後に視線を配りながら、言葉を続けた。
「この刀は、初代城主がこの城と共に造り上げたもの。人の立ち入りを赦さぬ神体山、岩戸山より切り出した鉄を鍛えた御神剣──銘を『伊須受霧山』という」
穏やかな語り口の響きには、長く受け継がれてきた重みが宿っていた。
それを聞き終えると、ドリアスはわずかに眉を動かした。
「──立ち入れない場所の鉄を切り出したとは。人間とは、よく分からんことをするな」
何の遠慮も、柵もない感想だった。
一瞬の間を置き、具方が吹き出す。
「はっ、はっ、はっ! いやまったく、確かにその通り。一体、何を考えておられたのやら……」
ひとしきり笑うと、改めて刀を見つめ、具方は言葉を連ねた。
「この刀にはな、銘と共に伝えられる言葉があるのだ。
──”そは、人を斬るには非ず、魔を斬るにも非ず”──
さて、おぬしは、この意味をどう取る?」
そして、ゆっくりとドリアスへ視線を戻し、禅問答のような問いをぶつけた。
「斬るな。それ以外に何がある」 即答だった。考える素振りすら微塵もなかった。
それは答えというより、問いそのもの、伝えられた言葉自体に、意味を見出していなかった。
家のためでも、民のためでも、子のためでもない。孤独で、純粋な剣。
それは、ドリアスだから、あるいはエルフだからか──人とは違う彼女が、具方には悲しかった。
決して並び立つことができぬ冷たい壁が、二人の沈黙を埋めていく。
何も言えぬ具方は、ただこの時だけは忘れまいと誓った。
それから、さらに三十年の月日が流れた──




