第十一話 733年前
──733年前
魔王スヴァルトより二代前の魔王ラーベンは、魔導の深奥に通じ、そして狡猾な魔王だった。
”冷然たる策士”として記録が残るこの魔王は、力を誇示するのを嫌い、人間を決して侮りもしなかった。
弱く短命である人間が初代魔王を討ち倒した──その事実に彼は恐怖し、そして人間を理解しようと努めたのである。
魔王ラーベンは、己の力に溺れることなく、魔族優位の体制を確立するための秩序の強化を、水面下で推し進めていた。
その中核となったのが、魔族の魔法そのものの再構築である。
居城には幾つもの研究塔が築かれ、既存の魔法理論を根底から見直す大規模な研究が開始された。
魔族が持つ魔力の個々の根源に依存した従来の魔法体系を、種族として恒常的に優位を保つための体系へと作り替える──それがラーベンの狙いだった。
だが、その実態については、今はもう詳細な記録は残されていない。
その研究が如何なるものであったか──後の戦乱と粛清によって多くは焼失し、わずかな断片のみが後世に伝わる。
そのわずかな資料が示すところによれば、研究は魔法理論の解析に留まらず、魔族の肉体そのものを改変する領域へ踏み込んでいたと記される。
魔力の根源そのものを作り替える試みとは、つまり、魔族という種族の進化を意味した。
その思想のもとに犠牲となったのは、魔族だけに止まらなかった。そこでは、人間やエルフまでも被験体とした、禁忌の実験が行われていたとされる。
そして、多くの犠牲を伴ったその試みは、失敗を繰り返した末に、ついに未踏の領域へと到達する。血の代償と引き換えに、魔族の魔法は飛躍的な発展を遂げた。
数十年に及ぶ歳月と、数え切れぬ犠牲を費やし、ラーベンの計画はついに結実したのである。
魔王ラーベンは時を逃さず、ついに人類への本格侵攻を再開する。
これこそ後世に第二次人魔戦争として語られる、虐殺と破壊の惨禍の始まりであった。
ラーベンの研究によって高度化した魔族の魔法は、各地で甚大なる被害をもたらした。大陸各地を焦土へと変え、多くの土地が生存不能地域となった。
それは──エルフの森も例外ではなかった。
◆
──「ほら、ドリアス、もう泣かないの」
旅装に身を包んだプルサチラは、膝を折り、まだ幼いドリアスの頭を優しく撫でた。朝露を含んだ森の風が、彼女の銀の髪を静かに揺らす。普段ならまだ寝ている時間に起きた幼子は、別れの気配を敏感に感じ取っているのか、彼女の衣の裾を強く握りしめ、嗚咽を止められずにいた。
「ごめんね。プルサチラを少しの間だけ、私に貸してね」
「私はエルテ。ドリアス、ほら、約束しましょう、プルサチラを必ず返すって」
そう言ってしゃがみ込んだ女性が、涙に濡れた頬をそっと拭う。柔らかな声には、子をあやす母のような温もりがあった。
その傍らで―― 「ヨールバル殿。プルサチラを、どうかよろしくお願いいたします」
この森を統べるエルフの長が、小人族の男へ深く頭を下げた。その所作は、エルフという種族が普段見せることのないものだった。
ヨールバルと呼ばれた小人族は、慌てるでもなく静かにその礼を受け、力強く頷いた。
「こちらこそ、ご協力に感謝します。今の魔族の力に対抗するには、我々も種族の垣根を越えて手を取り合わねばなりません」
彼は長の手を取り、その小さな掌に確かな力を込める。
「神殿騎士団がまだ持ちこたえていられる間に、なんとしても魔族の魔法に対抗し得る術を確立しなければならない。
エルフの中でも特に秀でた精霊魔法の使い手である彼女は、我々にとって、かけがえのない力となるでしょう」
魔族の侵攻に、エルフだけでは森は守れない──プルサチラは、ヨールバルの要請を受けた長の決断によって、森から離れることとなった。
だが、それは彼女の意に反していた訳ではない。森とともに眠り、森とともに目覚めるエルフの生き方は、プルサチラが持つ才能には窮屈だった。ヨールバルが現れ、彼の計画を聞いたとき、プルサチラの胸に芽生えたのは使命感だけではなかった。
未知の世界への好奇心。己の力を試せる場所への期待──彼女は、何よりも自分自身の意思で、彼に協力する道を選んだ。
森の奥では、エルフたちが静かに彼女を見送っていた。
それは、たった一人の旅立ちでありながら、同時に、種族の未来を託す送り出しでもあった。
それから間もなく、ヨールバルとエルテ、そしてプルサチラの三人は王国の後押しを受け、後に『魔法評議会』となる前身の組織を立ち上げ、魔族に対抗する魔法研究に着手した。
彼らの目標は、大きく分けて二つあった。
第一に、人間に魔法を与えること。
当時、人間はまだ、魔法を使うことができなかった。魔法とは、魔族と一部の種族のみが扱う特殊な力だった。
ゆえに彼らは、人間でも扱える新たな魔法体系を構築し、数において魔族に対抗する道を模索した。
第二に、魔王ラーベンが改良した魔族の魔法の解明。
敵の力を否定するのではなく、その術理を解析し、再編し、自らの魔法体系へと組み込む。魔族の魔法を人の理へと翻訳することこそが、現状の戦力差を最短で埋める方法だと彼らは考えた。
当時、このどちらもが、実現不可能な絵空事だと思われた。だが、それも無理もないことだった。三人の掲げた目標は、人類史に魔法文明を築こうとするに等しかったのである。
だが──この二つの試みこそが、無理難題を突破するために必要不可欠な、互いに噛み合う両輪だった。
魔力を持たない人間が如何にして魔法を扱えるようになったか──その理論はまさに、人間と、魔族と、そしてエルフの魔法の混成複合型と言えるものだった。
核となったのは、エルテの血である。
彼女は魔王ラーベンの手によって行われた実験の被検体だった。
改造された彼女の血液には魔力の根源が自然循環する性質があり、微量ながら魔力を生み出す触媒として機能した。その血を分け与えられた人間は、史上初めて魔力を宿すことができたのである。
だが、それだけでは人間の魔力は微弱だった。わずかな魔力では、到底魔族に対抗することは出来なかった。
そこでヨールバルは、魔法石の結晶を外部の魔力として活用するという構想を立ち上げた。
高純度の結晶を魔法使いの杖へ組み込み、術者自身の魔力を媒介として用いる構造──すなわち、人間の魔力を糧として魔法石の膨大な魔力を引き出す術式の構築を試みた。
しかし、ここで新たな問題が生じた。
人間に宿った小さな魔力では、魔法石の大きな魔力を制御できなかったのだ。
魔法石は術者の意思を増幅する前に、その精神と魔力を逆に呑み込み、暴走を引き起こした。
この難問に光明を与えたのが、プルサチラの精霊魔法だった。
エルフの精霊魔法は、自然界の意思の循環を司り、精霊とは、その運び手である。
この魔法理論を応用し、人間と魔法石を直接結びつけるのではなく、精霊を仲介し、魔力の自然な流れを循環させたのである。
すなわち──魔族を起源とした人間の微弱な魔力が精霊へと渡り、精霊が魔法石の魔力の流れを整え、再び術者へと還元する。
この三重構造によって、初めて人間は魔族に匹敵する魔法を行使できるようになったのである。
火種の血エルテ、杖の設計者ヨールバル、始祖の魔女プルサチラ──
その名は、人類に魔法を授けた三賢者として、魔法評議会の碑文に刻まれ、今もなお語り継がれている。




