6.下知
穂波は午後遅くになってからやって来た。
参道の入り口に自転車を停めて鳥居をくぐる穂波を、玄也たちは並んで出迎えた。
「なんか不思議ねえ」
穂波は、並んでいた玄也たちを見るなり笑い出した。
「あなたたちって、なんか妙な取り合わせなのに……そうやって並んでると、ホントに不思議なほどしっくりしてるわ」
言われて、玄也はようやく気がついた。
うっわ、なんなんだよ、これって定位置じゃん。
神様を真ん中に、左に獅子、右に狛犬。無意識のうちに『定位置』に並んでいた自分に、玄也はなんだか腹が立ってしまった。
「それにしても、幸成くんと玄也くんはまだ歳が近そうだから、友だちになったっていうのもわからないでもないんだけど……晴くんってずいぶん歳も離れてるわよねえ?」
穂波の言葉に晴が口をとがらせた。
「俺、十五だぞ」
「えぇっ?」
穂波だけでなく幸成も声を上げた。
「って、なに、幸成くんも知らなかったの?」
「え、いや、てっきり十二、十三くらいだと……」
「どうせチビだよ、俺は」
晴が頬をふくらませる。「でも、この二年で背が14センチ伸びたんだぞ。いまも伸びてるぞ。しょうがねえだろ、封印の影響で成長が……」
二年で14センチって……どんだけ小さかったんだよ、と思わず玄也は突っ込みそうになった。が、穂波の何気ない言葉で別の突っ込みに変えた。
「十五歳かあ……あーちょうど十五年前よね、私と幸成くんが知り合ったのも」
「十五年前って……穂波さんと幸成さんって、どうやって知り合ったんですか?」
「あ、えっとね」
一瞬言葉に詰った穂波が、幸成を見上げる。
「ああ……話してあるから大丈夫です」
「そうなんだ」
穂波が安心したようにうなずいた。「うん、その、幸成くんのお母さんが亡くなられたときにね……現地警察から事故を引き継いで、幸成くんを引き取ってきたのが、ウチの父だったの。ほら、あなたたち病院で会ったでしょ?」
「ああ、はい」
玄也と一緒に晴もうなずく。
穂波はちょっとだけ困ったように笑った。
「父は、幸成くんをウチの子にしちゃいたかったらしいんだけど……ウチも母が亡くなったばかりだったからね……私も中学に上がる前だったし、里親にはなれなかったの」
「……そう、なんですか?」
幸成が、ぽかんと口を開けた。
「そうよぉ、知らなかった? まあ、お父さんってそういうこと、全然話さない人だからねえ」
そう言って穂波は笑い、幸成の肩を叩く。
「だからね、幸成くんが警察官になったこと、実はお父さんすっごく喜んでるのよ。跡を継いでもらえた気分になったんじゃないかな。私は全然違う方向へ進んじゃったし」
幸成は、本当に知らなかったようだ。呆然としている。
それでも、玄也は納得した。
この人たちが、幸成さんにとっての『家族』なんだな、と。幸成さん自身はよくわかってないみたいだけど……少なくとも、岩坂父娘はそのつもりなんだな、と。
「穂波は、どんな仕事してんだ?」
晴が無造作に訊いた。
「私? いまはフリーのプログラマーよ。ウェブデザインもなんかやってるけど。最近会社を退職してフリーになったばっかり」
穂波はからからと笑う。「もーこのご時勢、自分でもよくフリーになんかなったと思うわ。でもいまんとこ、なんとか仕事は来てるのよねえ。もちろん内容は全然選べないし、お声がかかったら24時間営業で受けなきゃダメなんだけど」
「ああ、お待たせしてしまったようで、申し訳ありません」
午後の予約分の祈祷を済ませた宮司が、装束姿でやってきた。
「いいえ、とんでもない」
穂波は明るく笑う。「でも私、巫女さんなんてしたことないんですけど、ホントにいいんですか? お作法とか全然わかんないですし」
「ええ、一般的な巫女とは違いますので大丈夫ですよ」
宮司がにこにこと応える。「詳しくは中でお話ししましょう。さ、幣殿へどうぞ」
幣殿は、一般参拝者の祈祷を行う拝殿のさらに奥にある、小さな建物だ。
まず晴が、相変わらず遠慮のかけらもなくさっさと中へ入っていく。
「あの、ここって普通の人は入れないとこじゃないんですか?」
宮司に案内された穂波が、なんだかおっかなびっくりという様子で板敷きの間に上がる。
「うん、普通の人間は入れねえな」
あっけらかんと晴が応えた。「でも、穂波は今日は依坐だし、じいちゃんはもちろん宮司だ。だから構わねえんだ」
「って、そういう晴くんは……」
呆気にとられている穂波の前で、晴はすとんっと上座の軾(座布団のような敷物)に腰を下ろす。
「穂波はそっちだ」
「えっ、あの」
晴と並ぶように敷かれた上座の軾を示され、穂波は驚く。
しかし宮司にも促され、穂波はおずおずと腰を下ろした。
宮司は、晴と穂波の間を遮るように衝立を置く。そして下座に腰を下ろし、玄也と幸成もその脇に控えた。
「あの、私、何をすればいいんですか?」
穂波は困惑顔で周囲を見回した。
「うん、ちっとの間、大白狐に身体を貸して欲しいんだ」
晴がまたあっけらかんと言った。「大白狐は俺と違ってヒトの身体を持たねえからな、俺たちと話をするには誰かヒトの身体を借りねえとダメなんだ」
「身体を貸すって……ええぇ?」
あんぐりと口を開けた穂波に、宮司がにこやかに説明する。
「大白狐さまとは、私どもの稲荷におわす神様です。大白狐さまが穂波さんをお気に召された場合、穂波さんのお身体に依られることになります」
「ヨラレルって、あの、どういう……」
困惑しきった様子で腰を浮かしかけた穂波の身体が、ビクンと跳ねた。
えっ、いきなり?
息を呑んだ玄也の目の前で、穂波の身体が正座したままピンと硬直し、その目が白くひっくり返った。そして硬直した身体がふうっとほぐれ、ゆらゆらと揺れ始める。
その身体の揺れがすうっと治まったとき、穂波の口からは全く別人の、しわがれた低い声が漏れた。
『……ようこそ、我が杜へおいでくだされた、莫奇どの……』
玄也の身体がぞくっと震えた。
「こちらこそ、先触れもなく訪れたのに快く迎えていただき、痛み入る」
衝立の反対側で、互いに姿を見ないまま姿勢を正した晴が、堂々とした口調で応えた。
その晴の声に、大白狐はにんまりと笑う。
『……なんの……獅子の養い親としては、当然のこと……』
玄也の身体にカーッと血が巡った。
まさか、大白狐さま、まさか……。
晴の方は、大白狐の言葉にぎゅっと顎を引いた。
「この際だから、単刀直入に言わせてもらう」
晴が一気に言う。「大白狐どの、玄也を俺に譲って欲しい」
「ちょっと待って!」
玄也は叫んでいた。「譲るって……僕はモノじゃないんだぞ!」
「これ、玄也」
慌てて制しようとする宮司の手を玄也は払いのける。
「僕は大白狐さま以外の誰にもお仕えする気なんかない!」
声を荒らげ肩で息をする玄也を、晴はぎゅっと口を引き結んで見つめた。
晴の顔も、玄也と同じくらい紅潮している。
大白狐が玄也に白目の視線を送り、ニッと口元をゆるめた。
『……くろ、や』
ぶわっと、玄也の胸が熱くなった。
くろ。
そうだ、僕は大白狐さまに、くろと呼ばれていた。
覚えているはずがない、本当にここへ来たばかりの、二つか三つの頃に何度か呼ばれたきりのはずだ……なのに、玄也の胸はたまらない懐かしさと嬉しさで震えていた。
『……くろ……我が養い子の、黒獅子よ……よくお聞き……』
大白狐の声は静かだった。
静かに玄也を見つめ、言葉を続けた。
『……狐の巣穴は、お前の終の棲み処ではない……お前は、お前の群に、還らねばならぬ……』
玄也の身体が、ぐらりと揺れた。
名を呼ばれた高揚感は一瞬で消え、まるで真っ暗な深い穴に突き落とされたかのように……玄也は自分の意識がすーっと遠のいていくのを感じた。
『……くろよ……獅子のお前は、サカイの者としてヒトの世に生れ落ちたときすでに、莫奇どのの眷属であったのだ……それは、誰にも、変えられぬ……』
ひどく遠くから、その声が響いてくる。突然なにもかもが、遠い世界の出来事に変わってしまったかのようだった。
『……思えば、お前が妾に託されたのも、因果なものよの……』
玄也は、大白狐が晴の方へ、衝立越しに向き直るのをぼんやりと見ていた。
『……莫奇どの……くろを、我が養い子を、よろしゅうお頼みいたす……』
そう言って、大白狐は静かに頭を下げた。
ぐっ、と晴の顔がさらに紅潮する。
「承った!」
晴は自分の両膝を掴み、叫ぶように応えた。
そして、いきなり立ち上がると衝立をどける。
「ありがとう、大白狐どの」
膝をそろえて座りなおした晴は、大白狐に向かってその額をぴたりと床につけた。
それは、宮司が驚愕のあまり腰を抜かしそうになるくらい、あり得ない光景だった。
狐を食う本能を抑え、息を止めてまで獏が霊狐の前に姿をさらすなどと……しかも同じ神獣とは言えはるかに格上の獏が霊狐に叩頭するなどと……けれど、顔を上げた大白狐は実に満足げに目を細めて笑った。
『……くろは、よき主どのに恵まれたようじゃ……』
晴が、顔を伏せたまま身じろぎする。
大白狐がまた、にんまりと笑った。
『……では、ご免』
ガクンと穂波の身体が揺れた。
「おお」
宮司が差し出す手の中に穂波の身体が倒れこんでくる。
幸成が腰を浮かす。
「あの、大丈夫なんですか、穂波さんは」
「大丈夫ですよ」
いつものにこやかな顔で宮司は応えた。「依坐をされた後は、しばらくこうして眠られていますが、すぐ目覚められます。私の姉もそうでしたよ」
その言葉に、幸成は安堵の息をついた。
宮司は敷物を敷いて穂波を横たえている。その穂波の様子を確認してから、玄也の方に向き直った。
「玄也」
呼ばれても、玄也は呆けたように座り込んでいる。
「玄也」
再び呼ばれ、わずかに顔を動かした玄也は、応えることもなくふらりと立ち上がった。
そしてそのまま、何も言わず、誰にも振り返ることなく、玄也は幣殿を出ていってしまった。
幣殿を出て、西日の差す境内で玄也は途方に暮れた。
どこにも、行く場所が……行ける場所が、ない。
もう、大白狐さまの岩屋に、逃げ込むことはできない。
なにひとつ、玄也の頭に浮かんでこない。
ざあっ……と、強い風が杜の中を抜けた。
玄也は反射的に走り出し、拝殿の奥の欅の木の上に、一気に駆け昇った。
その欅の木は、おそらくこの杜ができたときから生えていたと思われる大木で、いまも青々と高く枝葉を伸ばしている。その太い枝にまたがり、幹にもたれ、玄也は目を閉じた。
どこへも、行けない。
僕には、行ける場所がない。
なにがあっても……どれだけいじめられても……岩屋の中へ逃げ込んで、大白狐さまの温かい舌で顔を舐めてもらい、ふかふかの尻尾にくるまって眠れさえすれば……それだけで、よかったのに……。
喉元に競りあがってきた熱い塊が、こらえきれずあふれ出す。
僕は、また、捨てられたんだ……。
親からだけでなく、僕は、大白狐さまからも……。
胸の真ん中に、どかっと大きな穴が開いたようだった。その穴をふさごうとするかのように、胸がぎゅうぎゅうと締め付けられる。
上手く、息ができない。
痛みに耐えるように玄也は身体を丸め、歯を食いしばった。
なんだかもう、なにもかもがどうでもいい。
このまま世界が終わってしまえばいいのに。
どのくらいそうしていたかわからない。
気がつくと、辺りはもう真っ暗だった。
玄也は、妙に気分がざわつくのを感じていた。さっきまでの痛みとは違う、なにかひどく落ち着かない、なにか悪いことが起こりそうな……いてもたってもいられないような、そんな感じなのだ。
その気配に顔を上げると、少し離れた枝の上に眷属たちがふわりと降りてきた。
えっ?
って言うことは、晴がいないんだ?
そう思った玄也の前にやってきた二頭の白狐は、なんだか困ったように鼻を鳴らし、玄也になにかしきりに訴えかける。
どうしたんだろう?
この落ち着かない感じといい、なにか本当に起こったんだろうか。
それでも玄也はためらった。
大白狐さまからのお墨付きが出てしまったことで、もしかしたらおじいちゃんにまで言われてしまうかもしれない……すぐに、ここを出て晴と一緒に行け、と。
宮司は、さっきからこの木の下に居る。
そのことに、玄也は気がついていた。
「玄也」
その玄也の思いを見透かしたように、宮司の呼ぶ声が響いた。
「玄也、そこにいるんだろう? 下りてきなさい」
観念して、玄也は木を下りた。
宮司は、玄也のバックパックを手にしていた。
僕の荷物……?
玄也の心臓がずきっと音を立てたが、宮司の言葉は予想と全く違っていた。
「あの竹管を入れておいた。役に立つかどうかわからないが、持っていきなさい」
「えっ?」
一瞬、間が抜けたように見返す玄也に、宮司は諭すように言った。
「玄也、お前は感じているんじゃないのかね? 莫奇さまと幸成さんに、なにかが起こっていると」
あっ。
玄也は口を開いたまま固まった。
まさかこれ……このざわざわした感じっていうのは……。
「穂波さんが、護符を持たずに出て行かれてしまったんだよ。なんでも、急にお仕事の打ち合わせが入ったとかで……護符を用意するまで待つように言ってあったんだが、私と莫奇さまが目を離した間に出て行かれてしまって……幸成さんは、護符の意味がまだよくおわかりじゃなかったようでね」
宮司が眉をひそめる。「すぐに莫奇さまと幸成さんが後を追われたが、なんの連絡もなくいまだにお戻りではない。眷属さんたちも騒いでおられるし、なにかあったと思って間違いないだろう」
「でも……でも、穂波さんはもう大白狐さまの『お手つき』なんだし……」
通常、お狐さんが一度でも憑いた依坐には、他の狐は憑かないことになっている。
ためらいながらぼそぼそと言う玄也に、宮司は初めて厳しい声を出した。
「玄也、お前はまだわからないのかね?」
その語気の強さに、玄也はたじろいだ。
宮司が、玄也に対して言葉を荒らげたことなど一度もなかった。玄也はそこに、神使である自分に対する宮司の神職としての遠慮を、密かに感じていたのだが。
けれど宮司は、玄也の顔を見つめて厳しい口調を続ける。
「朱狐は、そんなお狐さん同士の決まりごとなど、全く通用しない相手なんだよ。それは、幼いお前を襲おうと、この大白狐さまの杜にまで忍び込もうとしたというだけで、充分わかることじゃないか」
宮司の手が、玄也の肩に乗った。
「お前は、そのことで大白狐さまがどれだけお心を痛めてこられたか、わからないのかね?」
「僕は……」
「玄也」
言い返そうとする玄也の言葉を、宮司はぴしゃりと遮った。
「大白狐さまのお心に背くようなことはするんじゃない」
玄也は唇を噛んだ。
宮司は、玄也の手にバックパックと車のキーを押し付ける。
ちくしょう……ああもう、わかったよ!
玄也は駆け出し、車に飛び乗った。




