5.依坐
浅い眠りから目覚めても、玄也は寝床から出ようとしなかった。
みんなは起きだして、朝のお務めを始めている。晴が拝殿の掃除をすると言い出し、宮司が恐縮している話し声も聞こえた。
本人がやるって言ってんだからやらせればいいんだ。
ふてくされたまま玄也は思う。ああもう、朝のお務めサボったのなんて、初めてかもしんない。
お務めが終わり、みんなが戻ってくると、何を話しているかまで全部聞こえる。それに朝食のメニューも匂いで全部わかる。
ホンット、こういうときは不便だよな。
玄也は布団にもぐり込み、うんざりとため息をついた。
それでもまたうとうとしてしまったのだろう、玄也が再び目を覚ましたときは、もう昼を過ぎていた。
「……だからな、その管狐ってのは、九尾の狐の尻尾から生まれるんだ。尾が裂けて生まれるから尾裂とも言うんだよな」
晴の声が聞こえる。幸成と、宮司の声も聞こえた。
「尻尾から? それに九尾って……狐に尻尾が九本もあるのか?」
「ええ、長く生きておられるお狐さんの中には、神格、つまり神様の位に上がられたときに尻尾が九本になる場合があるのですよ」
「そう言えば……晴の記憶の中のあの狐も確か尻尾が……」
「朱狐も、神格なんだ」
晴がいまいましげに言って、それから宮司に問いかけた。
「ここの大白狐は九尾じゃねえのか?」
「違うと思います。まあ私は実際にお目にかかったことはないので……」
玄也は舌打ちして、もそっと起きだした。
首を掻きながら玄也は居間へと歩く。
「一尾だよ」
腰を下ろしていた三人が一斉に振り向いた。
玄也は不機嫌さ丸出しの声で言う。
「大白狐さまはふっかふかの尻尾が一本。長さは、ちょうどいまの僕の身長くらい」
「大きいんだな」
幸成の目が丸くなる。
「だから大白狐さまって呼んでるんだってば」
玄也はぼそっと言葉を続ける。「で、なんの話? 管狐がどうしたって?」
「いや、莫奇さまのお話から、これが使えないかと思い立ってね」
宮司が長さ20センチほどの竹筒を玄也に見せる。
「管狐用の竹管? なに、誰か管狐に棲みつかれたの?」
「朱狐の大半は尾裂なんだ」
晴の言葉に、玄也は思わず目を見張った。
「オサキって……ええぇ管狐なの? アレが?」
「そうだ、朱狐は九尾と一尾がいるんだが、一尾の方は全部、九尾から生まれた尾裂だ」
玄也の脳裏には昨夜観た晴の『記憶』が再生されている。
確かに、九尾が一体、あとは全部一尾で……。
「いや、でもアレは、あの看護師さんに憑いてたのはどう見ても普通の霊狐だよ? 管狐……尾裂や飯綱って」
玄也は片手を広げた。「このくらいの大きさで赤裸で……匂いだって、管狐のあの饐えた匂いなんかしなかったし……だいいち、管狐は人の腹に棲むもんだろ? 僕も祓ったことがあるけど……憑き狐みたいに頭に取り憑く尾裂なんて聞いたこともないよ?」
「私もいま聞いて驚いたんだよ」
宮司が応える。「朱狐については、私たちも知らされていないことが多いから……」
霊狐は、稲荷の総本山である京都の伏見稲荷大社を頂点に、かなり密接なネットワークを持っている。だから宮司や玄也も、そのネットワークを通じて数多くの情報を得ている。狐の天敵である獏、つまり晴に関する情報さえも、そこから得てきた。
しかし、朱狐については、ある意味タブー視されているようなところがあるのだ。
「でもまさか……アレが尾裂……管狐の一種だなんて……」
「朱狐は特殊なんだ」
晴がまた口を開いた。「尾裂のクセに見た目だけじゃねえ、知能も普通の霊狐並みだ。しかも、他の管狐は人の腹に棲みついて欲をあおるだけだが、朱狐の尾裂は人の頭に憑く。そして、憑いた宿主に夢を見せる」
「朱狐が、人に夢を見せる狐だって話は聞いてたけど……」
玄也は呆気にとられたようにつぶやいた。
「そんでいま、幸成に管狐の説明をしてたんだがな」
「いや、狐の尻尾から生まれた別の狐が……人の腹に棲みついて欲をあおるだの、頭に取り憑いて夢を見せるだの、もうさっぱりわからんと言うか……」
首をかしげる幸成に、宮司がさらに驚くようなことを言う。
「一昔前までは、管狐を飼う家がこの辺りにもあったのですよ」
「へっ?」
「この竹管の中で管狐を飼育し、人から頼まれればそれを分けてあげていたのです」
「分けてあげるって……なんのために?」
驚いている幸成に、玄也は苦笑した。
「そりゃ、敵を陥れるためだよ」
「昔は立派な兵器として使われてたんだぞ、管狐は」
晴も当然というようにうなずく。「でも家康が極端に狐を恐れて、幕府が管飼いの家を潰していきやがったんだ」
「家康って……徳川家康?」
幸成はまたもやぽかんと口を開けてしまった。
玄也は苦笑したまま説明する。
「上杉謙信や武田信玄は有名だもんね、飯綱信仰で。あ、飯綱も管狐の別名だよ」
「管狐が腹に棲みつくと、その宿主は、財を得るが徳を失うといわれています」
宮司も説明してくれた。「戦国時代の武将は、敵方に管狐を送り込み、為政者が徳を失って人心が離れたところを攻める、という戦法を取っていたのですよ」
「はあ……」
「管狐があおるのは基本的に物欲だからね。いまならまあ、棲みつかれたら金の亡者になっちゃう、って考えればわかりやすいかな?」
呆気にとられている幸成に、玄也は片眉を上げた。
「んで、朱狐の尾裂なんだがな」
晴は長々とため息をついた。
「とにかく厄介なんだ。頭に憑いた尾裂は宿主とほとんど同化しちまって、一見狐憑きになってるなんて見えねえんだ。普通に生活できちまうしな。でも宿主は、いわばずっと夢の中にいる状態になっちまう」
「夢の中……?」
また首をかしげる幸成に、晴はうなずく。
「要するに、自分の願望が全部叶っちまう世界、ってことかな。俺は夢を見ねえんで具体的にはわからねえんだが」
「えっ?」
思わず玄也が声を上げた。「晴は夢を見ないの?」
「うん。俺は、つうか、獏は夢を見ねえ。そういうもんらしい」
「へえー……」
うなずく晴に、玄也だけでなく幸成も宮司も、目を見張った。
その様子に、晴の方が不思議そうな表情を浮かべる。
「だからホントに俺はわかんねえんだけどな、夢ん中って、自分がこうしたいとかって望んでることが、全部できちまったりするんだろ?」
「まあ、それだけじゃないけどねえ」
「あんまり……自分では見たくないようなものの方が、夢の中にはよく出てくるな」
玄也と幸成は顔を見合わせて苦笑した。
その二人に、晴は眉を寄せる。
「それは知ってるぞ。『裏返しの悪夢』だな」
「裏返しの悪夢?」
「うん、寝てるときに見る夢じゃなくて、人がこうしたいとかって思い描く夢があるだろ。あれの裏返しだな」
晴は首をかしげた。「人が何かを願ってるとき、その逆にはなってほしくないって恐れてるって場合が多いんだよな。それが無意識に出てきて悪夢になっちまうんだ。俺、その手の夢は結構食ってるから、なんとなくわかる」
「へえ……」
玄也たちはまた目を見開く。
「あと、自分がどうしても受け入れられないもの……それか、自分が忘れてるつもりなのにどうしても忘れられないものとかが悪夢になって出てくるってのが、割と多いな。まあでも、どんな悪夢も、本人の体験とか記憶がモトになってんのがほとんどだな」
「それって実感?」
玄也の問いに晴はまたうなずく。
「うん。俺、もうヒトの夢は結構食ってるからな」
「夢を食われた人は、そのモトになってる記憶も失くすの?」
「それは人によって違うみてえだ」
晴はまた首をかしげる。「どっちにしても『悪夢』は二度と見なくなるんだが……記憶の方は、完全に『無かったこと』にしなきゃ生きていけないヤツはばっさり忘れちまうし、受け入れて乗り越えなきゃならない状況に追い込まれてるヤツは逆に鮮明に思い出す……んだと、ウチのばあちゃんは言うんだが、俺は正直よくわからねえ」
「なんか頼りない神様だねえ」
思わずため息をもらした玄也に、晴は口をとがらせる。
「しょうがねえだろ、俺、莫奇になってまだ二年とちょっとなんだから」
言ってから、晴は気を取り直したように言葉を続けた。
「だからだな、俺が食うそうゆう夢と、朱狐が見せる夢ってのは一見、正反対らしいんだよな」
「あ、話が戻ったね」
口の端を上げる玄也を、晴がむすっと睨む。
「あのな、大事な話をしてんだ」
晴の顔が真剣になった。「俺は夢を見ねえから、朱狐の夢に捕まることはねえが、お前らは違うだろーが。神使のお前らに取り憑けねえ尾裂はともかく、九尾は神格だぞ。どんな手を使ってくっかわかんねえぞ? もし朱狐の夢に捕まっちまうと、ヘタしたらずっとそっから抜け出せなくなるんだぞ?」
「夢に、捕まる……?」
「そうだ、朱狐は、そいつが心の奥で願ってる望みを、夢の中で叶えさせてやる。望みが叶うんだからな、そいつはそこから、夢の中から出たくなくなるだろ?」
「いや、でも、宿主はずっと眠ってるんじゃないんだよね? 普通に生活して……それで望みが叶うって……」
首をかしげながら、玄也と幸成は顔を見合わせた。
「問題はそこだ」
晴は顔をしかめる。「朱狐は、宿主の夢を実現させちまうんだ。つまり、人を殺したいと願ってしまえば、その宿主は本当に人を殺しちまう」
ぎょっ、と玄也も幸成も目を見張った。
「しかも、本当に殺しちまったとしても、宿主は夢ん中だから罪の意識もなんにもねえ。朱狐は『悪夢』をもっかい裏返して、ただもう望みが叶う満足感だけの夢にしちまうんだ」
言って、晴はさらに顔をしかめた。
「朱狐は宿主のその満足感、つまり快感を食うんだ」
「いや、でも」
困惑した顔で幸成が声を上げた。
「でも、あの、俺に注射をしようとした看護師も……その、朱狐に……尾裂に取り憑かれていたんだよな……?」
「うん、お前も見ただろ、俺が尾裂の朱狐を引っ張り出して食うとこを」
幸成の顔が、いっそう困惑を深める。
「でも、あの看護師は人を……俺を、殺したいと望んでいたのか……?」
その言葉に、玄也もハッと目を見張った。
幸成は額に手を当てて考え込んでいる。
「とてもそんな風には……むしろ、俺に対して親身な感じだったし……一面識もない俺を殺したいと望むだなんて……」
「……悪意ではなかったのでは、ないでしょうかね」
ずっと黙っていた宮司が静かに口を開いた。
「病院には、生きながらえてしまったがために、余計に苦しむ患者さんもいらっしゃいますからね」
「え……?」
困惑したままの幸成の顔を見返しながら、宮司は穏やかに続ける。
「延命治療が本人に苦痛を与えてしまう場合もある、ということです」
「ああ……」
幸成だけでなく、晴も玄也もうなずいた。
「そういう患者さんと日々接していれば、看護師さんもいろいろと、葛藤を覚えてしまわれる場合もあるのではないでしょうか。それこそ、いっそ楽にしてあげられたら、と」
「じいちゃんの言ってることが、多分正解だ」
晴がうなずいた。「朱狐は、そういう付け込み方をしやがるからな。あの看護師は、夢の中で幸成のことをそういう患者だと思い込まされていた……だから、自分が注射をすることで、幸成を楽にさせてやれると」
「それは……」
幸成が絶句した。
その顔に、苦いものが広がって行く。
「それは、あまりに非道くないか……? そんな、人の気持ちを利用して……俺を殺させようとしただなんて……」
「でも、朱狐は、そういうことをするんだ。もしかしたら最初の交通事故だって、幸成を捕えるために朱孤が仕組んだのかもしれねえ」
ギリッと、晴が歯噛みした。
「一見、人の願いを叶えてやってるように見えて、実際やってることはまやかしどころか、人を罪に陥れる。そのために、事実はなんでも都合よく捻じ曲げる。俺は、そっちの方がよっぽど『悪夢』だと思うぞ」
宮司が、晴と幸成に竹管の使い方の説明を始めた。
「朱狐の尾裂を本当に封じられるかどうかは、実際に使ってみないとわかりませんが……少なくとも只人の私より、皆さんの方がお力は強いですから」
「あっ…と、失礼」
突然、幸成が腰を浮かせた。ジーンズのポケットから携帯を取り出す。
「穂波か?」
遠慮のかけらもなく着信画面をのぞき込む晴に、幸成は面食らいながらもうなずいた。
「あ、ああ……はい、もしもし?」
『幸成くん? 今朝の話だけど、ちょっと遅くなってもよければ今日行けるよ。仕事のめどがついたから』
思わず視線を送ってきた幸成に、晴がうなずく。
「うん、今日来れるなら来てもらってくれ」
うなずいた幸成が穂波に伝える。
「じゃ、お願いします」
『わかった。あと二~三時間はかかるから、行く前にまた電話するね』
「はい、お待ちしてます」
幸成が携帯を切ると、晴が嬉しそうに宮司に振り返った。
「上手くいくといいな」
「ええ、本当に」
にっこりと笑ってうなずく宮司から、晴はぱっと視線を移した。
「玄也、お前も楽しみだろ?」
「えっ?」
「なんだ、わかってねえのか? 穂波に依坐をやってもらうんだ。まあ、相性があるから百パーセントとはいえねえが、大丈夫そうじゃねえか?」
「あ、ああ、うん」
玄也は曖昧にうなずいた。
その玄也の様子に、晴が笑いながら言う。
「心配すんな、俺、大白狐を食ったりなんか、絶対しねえから」
「あ、当たり前だろ!」
思わず怒鳴ってしまった玄也は思う。
大白狐さまと直接、話ができるかもしれない……。
最初、穂波に依坐になってもらえないだろうかという話になったとき、玄也は正直に喜んだ。けれど……いまはなんだかひどく微妙な気分だった。
大白狐がこの杜に結界を張っている、という話を、晴から聞いたことが玄也の胸にひっかかっている。
大白狐さまは、朱狐を遠ざけるために結界を張っている。なのに、狐の天敵である獏はその結界にひっかからなかった。それどころか、結果的に朱狐から獏を守ってやってさえいる。
つまり、大白狐さまは晴を受け入れられたってことだ……。
それでなくても玄也は、自分が大白狐の眷属にしてもらえないことに、もうずっと不満を感じてきた。でもそれは、獣ではなくヒトとして、神職としてこの神社に残れということなのかもしれない、とも考えてきた。
いや、朱狐から僕を守るために結界を張ってくださってるんだ、まさか僕に、晴と一緒に行けなんてことは……まさか獏の眷属になれなんてことは…………。




