第98話「二十年前の記録」
上るのに、下りの倍かかった。段は同じ百二十七だ。同じなのに長い。
長いのは、途中で誰も喋らないからだと思う。
石蓋を閉めるとき、風がまた出た。出た風は行きと同じ匂いだった。閉めてしまうと、匂いは消えた。
オズワルドさんは鍵を掛けずに、鍵束を握っていた。握ったまま、しばらく立っていた。
「掛けないんですか」
「掛ける」
「掛けてないですよ」
「……掛ける」
その人はそこでやっと屈んで、鍵を差した。
差してから、二度回さずに一度で止めた。止めたことに、気づいていない顔だった。
記録庫は一階のいちばん奥にあった。
窓が、無い。棚が、天井まである。
梯子が棚に立てかけてあった。梯子の足に、布が巻いてある。
床を傷めないためだ。
綴じの紐の色が、段ごとに違っていた。上の段は白い。下の段は茶色い。
「これ、年ですか」
「年だ」
「紐で分かるんですね」
「分かる」
「便利ですね」
「便利ではない」
「なんでですか」
「紐を替えると、年が飛ぶ」
「飛ぶんですか」
「替えた者がおる」
「困りますね」
「困った」
オズワルドさんが梯子に登って、一冊抜いた。
埃は落ちてこなかった。落ちないのは、誰かが拭いているからだ。拭いている人は、たぶんこの人だ。
「その帳、何ですか」
「出入りの帳だ」
「何を書くんですか」
「日と、名と、用だ」
「三つですね」
「三つだ」
「書かないと、どうなりますか」
「入れん」
「厳しいですね」
「厳しくした」
「誰がですか」
「わしだ」
その人は別の帳も一冊抜いた。抜いて、開いて、こちらへ向けた。
名が縦に並んでいる。数えると、二十七あった。
どの名も、下に日付が二つ付いている。
入った日と、出た日だ。
出た日のあとに、線が引いてある。線の先に、何も書いていない。
「これ、みなさんですか」
「二十七人だ」
「全員、名前がありますね」
「ある」
「書かせたんですね」
「書かせた」
「線は、なんですか」
「もう来ん、という線だ」
「引いたのは」
「わしだ」
その人は卓に帳を置いて、頁を繰りはじめた。繰る速さが一定だった。探しているのではない。場所を、知っている手だ。
途中で手が止まった。止めた頁を、こちらへ向けた。
日付が、三つ並んでいる。三日、続けて入っている。
用の欄に、同じ字が三度書いてあった。名の欄だけが、空いていた。
「名前が無いですね」
「無い」
「書き忘れですか」
「書いておらん」
「三日ともですか」
「三日ともだ」
「誰が書かなかったんですか」
「……わしだ」
俺はその頁をもう一度見た。
空いた欄の下に、線が引いてある。
線はあとから足したものだった。インクの色が、少し違う。
書けるように、線だけ引いてある。引いてから、二十年そのままだ。
「二十年前に、三日だけ入った男がおる」
「三日」
「無登録だ」
「登録、いるんですよね」
「いる」
「無いと、入れないんですよね」
「入れん」
「入れたんですね」
「入れた」
「なんでですか」
「見ると言われた」
「見せてくれ、じゃなくてですか」
「見せろ、でもない」
「どっちですか」
「見るぞ、と言われた」
「断らなかったんですね」
「断れなんだ」
「怖かったですか」
「怖くはない」
「じゃあ、なんですか」
「断る理由が、無かった」
その人はそこで一度息を吸った。吸って、ゆっくり吐いた。
「当時の担当は、わしだ」
「はい」
「名は、書いておらん」
「はい」
「書かせなかったのは、わしだ」
「怒られませんでしたか」
「誰も、見とらん」
「二十年ですか」
「二十年だ」
その人は卓の抽斗を開けた。いちばん下の抽斗だった。
鍵は掛かっていない。掛けていないのに、誰も開けなかった抽斗だ。
中に布が畳んであった。布の下に、紙が一枚ある。
紙は四つに折った跡がついていた。
折り目が、擦り切れかけている。
擦り切れるのは、開いた回数のぶんだ。
その人は紙片を持ち上げた。持ち上げて、一度手を止めた。
止めた時間が、長かった。それから、卓の上を滑らせて寄越した。
「あの男が置いていった」
「置いていったんですか」
「机の上にあった」
「渡されたんじゃないんですね」
「渡されておらん」
「何も言わずにですか」
「三日目の朝に、おらんかった」
「帰ったんですね」
「帰ったのだろう」
「どこへですか」
「知らん」
「何のために置いたんですか」
「わからん」
「二十年、わからないんですか」
「わからん」
「見せた人は」
「おらん」
「一人もですか」
「一人もだ」
「奥さんにもですか」
「妻は、おらん」
「すみません」
「謝るな」
紙を灯りの下に置いた。図面が描いてあった。門の断面だ。
線が、細い。
定規を当てていない線だった。当てていないのに、まっすぐだ。
枠の内側に歯が描いてある。歯の数が、合っていた。
余白に、寸法が並んでいる。
数字は小さかった。小さいのに、迷いがない。書き直した跡が、一つも無い。
「これ、下書きですか」
「下書きだろう」
「下書きで、これですか」
「そうだ」
「本番は、どこですか」
「無い」
「無いんですか」
「これ一枚だ」
図面の下の隅に、印が無かった。名も、屋号も、入っていない。
紙の端は切り放しだった。鋏ではなく、爪で裂いてある。
裂いた縁が、繊維のまま残っていた。
この紙は、渡すつもりで書いたものではない。置いていくつもりで、書いてある。
シルフィさんが横から覗いた。覗いて、そのまま止まった。
顔を、上げなかった。上げないまま、紙の端に指を置いた。
置いただけで、動かさない。
「シルフィさん」
「……」
「灯り、そっちに寄せますね」
「……はい」
「見えますか」
「見えております」
「読めますか」
「数だけは」
「数だけですか」
「はい」
ミオさんが卓の下から顔を出した。出して、紙をひと目見た。
「字が小さいニャ」
「小さいですね」
「読まないのか」
「読みます」
「読めるのか」
「寸法なら、読めます」
「じゃあ、読め」
「はい」
ミオさんは卓の縁に肘をついて、待つ構えになった。
この人は、待つのがうまい。斥候だったころの癖だと思う。
ダグさんが扉のところに立っていた。立って、廊下を見ている。誰も来ないのに、見ている。
俺は紙片を覗き込んだ。
覗き込んで、動きを止めた。




