↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
95/109

第95話「水利権」

 呼ばれたのは、城ではなかった。技師局の二階だ。長い卓のある部屋だった。


 窓が片側にしかない。その片側から、坂が見える。


 坂の下に、水の出た広場があった。


 広場にまだ人がいる。昨日から、減っていないらしい。


 卓の上に、帳簿が並べてある。積んだのではない。三列に、分けて並べてあった。


「これは」


「配った水の記録だ」


「何年ぶんですか」


「三代ぶんにございます」


「三代」


「日と、量と、行き先が書いてございます」


「毎日ですか」


「毎日にございます」


 俺はいちばん端の一冊を見た。


 背が擦り切れている。擦り切れ方が揃っていた。


 同じ手で、同じ場所を繰った跡だ。


 クレイス伯は卓の向こうに座っていた。背筋がこの前と同じだった。


 連れは二人しかいない。


 どちらも、書き役だった。


 剣を提げた者は、一人もいない。この人は、そういう来方をする。


 イレーヌさんは壁際に立っていた。立ったまま、帳面を開いている。


 開いた頁に、まだ何も書いていない。


「わたくしは、反対でございます」


「はい」


「前と、同じ理由ではございません」


「違うんですか」


「今度は、水利の話にございます」


「水利」


「水を、誰が配るかの話にございます」


「配るのは、伯爵さまですね」


「三代、そうしております」


「よく続きましたね」


「……続けました」


 その人は箱を開けた。羊皮紙が一枚出てきた。


 巻いた癖が、強く残っている。


 下に封蝋が付いていた。蝋は、色が褪せている。縁が欠けていた。欠けたところが丸い。


 何度も指で触られた、欠け方だった。


「先代の陛下が、わが家に水を託された」


「託した」


「証文がこれにございます」


「これ、欠けてますね」


「欠けております」


「直しましょうか」


「触るな」


「はい」


「触るな」


「触りません」


 ジェラルド公が下を向いて、肩を震わせていた。この人は、こういうとき隠さない。



「ジェラルドさま」


「なんだ」


「これ、破れますか」


「破れる」


「じゃあ、破ってください」


「破らん」


「なんでですか」


「勅許は、王家が出したものだ」


「はい」


「王家が破れば、王家の言葉が軽くなる」


「軽くなると、どうなりますか」


「次に何を言っても、誰も信じん」


「……困りますね」


「困る」


「陛下でも、駄目ですか」


「陛下だから、駄目だ」


「そうですか」


「わしは、伯を止められん」


「止められないんですね」


「筋が、向こうにある」


 俺は伯爵さまの手を見た。柔らかい手だった。


 爪が割れていない。指の腹に、胼胝がない。


 右手に指輪があった。波が、三本。鍵は無かった。


 配る人の手だ。直す人の手では、なかった。


 配る人がいなければ、下町は三代前に死んでいた。それは、たぶん本当のことだ。


 シルフィさんが前へ出て、名乗った。


 名乗るときの声が、いつもと違った。俺には使わない声だ。


「エルダの森より参りました、シルフィと申します」


「聖女さまと、伺っております」


「その名では、参っておりません」


「では、何として」


「見た者として」


「何を、ご覧になりましたか」


「六人の子と、器の底の膜を」


「……」


「三日で、九人と伺いました」


「存じております」


「ご存じで、配っておられるのですね」


「配っております」


「足りぬことも」


「足りませぬ」


「では、なぜ続けられます」


「足りぬなりに、三代続きましたゆえ」


 伯爵さまは目を逸らさずに、受けていた。


 この人は、逃げない人だ。逃げない人と話すのは、時間がかかる。



 扉が開いた。荷を背負ったままの人が、入ってきた。埃を払ってもいない。


 ベルタさんだった。街道を、四日で来たはずだ。


 四日は、荷を積んで来る日数ではない。


 靴の踵が、片方だけ減っていた。減った側が、荷を担ぐ側だ。


 ミオさんが鼻を動かした。動かして、扉のほうを見た。この人は、いつも先に気づく。


「遅れたね」


「ベルタさん」


「話は聞いた。坂の下で、三回聞いたよ」


「早いですね」


「水の話は、いちばん早く回る」


 その人は荷を下ろさずに座って、帳簿の背を見た。見て、指で三度叩いた。


「これ、全部そっちの持ち出しかい」


「持ち出しにございます」


「三代」


「三代」


「儲かってないね」


「儲けてはおりません」


「じゃあ、話が早い」


「早いと申されますか」


「これは喧嘩じゃないよ。取引だ」


「取引」


「あんたが守りたいのは、権かい。役目かい」


「……両方にございます」


「片方は残るよ」


「どちらが」


「役目だ。配る先が増えるだけだからね」


「権は」


「そこを、これから話す」


 伯爵さまは答えずに、証文を巻き直した。


 巻き直す指が丁寧だった。丁寧なのは、慣れているからだ。四十年、同じ紙を巻いてきた指だと思う。



「では、こうしよう」


「はい」


「大水道を、一区画だけ直してみせよ」


「一区画」


「十日で」


「十日」


「できねば、この話は以後なしだ」


 部屋が静かになった。十日という数を、頭で置いてみた。


 石蓋から下まで、百二十七段ある。降りるだけで、半刻はかかる。道具を運べば、もっとかかる。


 十日のうち、半分は上り下りだ。


 オズワルドさんが口を開きかけて、閉じた。閉じた口が、少し動いていた。数えているのだと思う。


「十日って、今日から数えるんですか」


「……なんと」


「今日を入れると、十日目は九日後です」


「入れよ」


「入れるんですね」


「入れる」


「わかりました」


「ルーク様」


「はい」


「そこは、争うところです」


「一日ですよ」


「一日です」


「一日あっても、たぶん同じです」


「……はい」


「どの区画ですか」


「決めております」


「言え」


 オズワルドさんの声だった。いつもより太かった。


「七番の、閘門を」


「こうもん、ですか」


「門だ」


「門ですね」


「水を、切るところだ」


 オズワルドさんが立ち上がった。椅子が後ろへ倒れた。倒れた音を、誰も拾わなかった。


 その人は、伯爵さまを見たまま、何も言わなかった。言わないのは、初めてだった。


「オズワルドさん」


「……」


「七番って、どれですか」


「……」


「板に、ありましたよね」


「ある」


「壊れてる四つですか」


「違う」


「水が来ないほうですか」


「違う」


「じゃあ、動いてるやつですか」


「……違う」


 俺は残りを数えた。残りは、一枚しかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。