第95話「水利権」
呼ばれたのは、城ではなかった。技師局の二階だ。長い卓のある部屋だった。
窓が片側にしかない。その片側から、坂が見える。
坂の下に、水の出た広場があった。
広場にまだ人がいる。昨日から、減っていないらしい。
卓の上に、帳簿が並べてある。積んだのではない。三列に、分けて並べてあった。
「これは」
「配った水の記録だ」
「何年ぶんですか」
「三代ぶんにございます」
「三代」
「日と、量と、行き先が書いてございます」
「毎日ですか」
「毎日にございます」
俺はいちばん端の一冊を見た。
背が擦り切れている。擦り切れ方が揃っていた。
同じ手で、同じ場所を繰った跡だ。
クレイス伯は卓の向こうに座っていた。背筋がこの前と同じだった。
連れは二人しかいない。
どちらも、書き役だった。
剣を提げた者は、一人もいない。この人は、そういう来方をする。
イレーヌさんは壁際に立っていた。立ったまま、帳面を開いている。
開いた頁に、まだ何も書いていない。
「わたくしは、反対でございます」
「はい」
「前と、同じ理由ではございません」
「違うんですか」
「今度は、水利の話にございます」
「水利」
「水を、誰が配るかの話にございます」
「配るのは、伯爵さまですね」
「三代、そうしております」
「よく続きましたね」
「……続けました」
その人は箱を開けた。羊皮紙が一枚出てきた。
巻いた癖が、強く残っている。
下に封蝋が付いていた。蝋は、色が褪せている。縁が欠けていた。欠けたところが丸い。
何度も指で触られた、欠け方だった。
「先代の陛下が、わが家に水を託された」
「託した」
「証文がこれにございます」
「これ、欠けてますね」
「欠けております」
「直しましょうか」
「触るな」
「はい」
「触るな」
「触りません」
ジェラルド公が下を向いて、肩を震わせていた。この人は、こういうとき隠さない。
「ジェラルドさま」
「なんだ」
「これ、破れますか」
「破れる」
「じゃあ、破ってください」
「破らん」
「なんでですか」
「勅許は、王家が出したものだ」
「はい」
「王家が破れば、王家の言葉が軽くなる」
「軽くなると、どうなりますか」
「次に何を言っても、誰も信じん」
「……困りますね」
「困る」
「陛下でも、駄目ですか」
「陛下だから、駄目だ」
「そうですか」
「わしは、伯を止められん」
「止められないんですね」
「筋が、向こうにある」
俺は伯爵さまの手を見た。柔らかい手だった。
爪が割れていない。指の腹に、胼胝がない。
右手に指輪があった。波が、三本。鍵は無かった。
配る人の手だ。直す人の手では、なかった。
配る人がいなければ、下町は三代前に死んでいた。それは、たぶん本当のことだ。
シルフィさんが前へ出て、名乗った。
名乗るときの声が、いつもと違った。俺には使わない声だ。
「エルダの森より参りました、シルフィと申します」
「聖女さまと、伺っております」
「その名では、参っておりません」
「では、何として」
「見た者として」
「何を、ご覧になりましたか」
「六人の子と、器の底の膜を」
「……」
「三日で、九人と伺いました」
「存じております」
「ご存じで、配っておられるのですね」
「配っております」
「足りぬことも」
「足りませぬ」
「では、なぜ続けられます」
「足りぬなりに、三代続きましたゆえ」
伯爵さまは目を逸らさずに、受けていた。
この人は、逃げない人だ。逃げない人と話すのは、時間がかかる。
扉が開いた。荷を背負ったままの人が、入ってきた。埃を払ってもいない。
ベルタさんだった。街道を、四日で来たはずだ。
四日は、荷を積んで来る日数ではない。
靴の踵が、片方だけ減っていた。減った側が、荷を担ぐ側だ。
ミオさんが鼻を動かした。動かして、扉のほうを見た。この人は、いつも先に気づく。
「遅れたね」
「ベルタさん」
「話は聞いた。坂の下で、三回聞いたよ」
「早いですね」
「水の話は、いちばん早く回る」
その人は荷を下ろさずに座って、帳簿の背を見た。見て、指で三度叩いた。
「これ、全部そっちの持ち出しかい」
「持ち出しにございます」
「三代」
「三代」
「儲かってないね」
「儲けてはおりません」
「じゃあ、話が早い」
「早いと申されますか」
「これは喧嘩じゃないよ。取引だ」
「取引」
「あんたが守りたいのは、権かい。役目かい」
「……両方にございます」
「片方は残るよ」
「どちらが」
「役目だ。配る先が増えるだけだからね」
「権は」
「そこを、これから話す」
伯爵さまは答えずに、証文を巻き直した。
巻き直す指が丁寧だった。丁寧なのは、慣れているからだ。四十年、同じ紙を巻いてきた指だと思う。
「では、こうしよう」
「はい」
「大水道を、一区画だけ直してみせよ」
「一区画」
「十日で」
「十日」
「できねば、この話は以後なしだ」
部屋が静かになった。十日という数を、頭で置いてみた。
石蓋から下まで、百二十七段ある。降りるだけで、半刻はかかる。道具を運べば、もっとかかる。
十日のうち、半分は上り下りだ。
オズワルドさんが口を開きかけて、閉じた。閉じた口が、少し動いていた。数えているのだと思う。
「十日って、今日から数えるんですか」
「……なんと」
「今日を入れると、十日目は九日後です」
「入れよ」
「入れるんですね」
「入れる」
「わかりました」
「ルーク様」
「はい」
「そこは、争うところです」
「一日ですよ」
「一日です」
「一日あっても、たぶん同じです」
「……はい」
「どの区画ですか」
「決めております」
「言え」
オズワルドさんの声だった。いつもより太かった。
「七番の、閘門を」
「こうもん、ですか」
「門だ」
「門ですね」
「水を、切るところだ」
オズワルドさんが立ち上がった。椅子が後ろへ倒れた。倒れた音を、誰も拾わなかった。
その人は、伯爵さまを見たまま、何も言わなかった。言わないのは、初めてだった。
「オズワルドさん」
「……」
「七番って、どれですか」
「……」
「板に、ありましたよね」
「ある」
「壊れてる四つですか」
「違う」
「水が来ないほうですか」
「違う」
「じゃあ、動いてるやつですか」
「……違う」
俺は残りを数えた。残りは、一枚しかなかった。




