第94話「治すのと、直すのは違う」
「一人だけ、いいですか」
「一人」
「一度に一人しか、できないんです」
「なんでだい」
「そういう手なんです」
「順番は」
「そこで寝てる子から、いきます」
「そりゃ、あたしの子だ」
「そうですか」
俺はその子の手を取った。手は小さかった。小さいのに、冷たい。
目を閉じて、壊れる前を思った。
思ったのは、走っている姿ではない。中の話だ。
喉から下の管が、薄く削れている。削れたところに、膜が張っていた。
膜は、器の底のものと同じだった。
膜が剥がれて、細かい粒になった。粒は外へは出ない。出ないまま、散って消えた。
削れた面が、内側から埋まった。埋まる音はしなかった。
唇の青が退いて、下から色が上がってきて、脈が深くなった。
速いのは変わらない。速いのは、疲れているからだ。
「はい、いいですよ」
子供が目を開けて、母親を見た。
母親は声を出さずに、口を押さえた。押さえた指の隙間から、息だけが出ていた。
「先生」
「なんだ」
「この子、水を飲ませてください」
「うちの水は」
「ロッタさんの樽から、もらってください」
「金がない」
「俺が払います」
「……あんた、いくら持っとる」
「銅貨が四十枚くらいです」
外に出たところで、足が止まった。人がいた。
医者の家の前から、坂の下まで続いている。
子供を抱いている人が半分だ。残りの半分は、子供ではない。
年寄りと、大人だった。
「一度に一人しか、できないんです」
「待つよ」
「待っていただいても」
「待つ」
「明日また、同じになります」
「……なんだって」
「同じ水を飲むと、同じことになります」
「じゃあ、毎日来る」
「毎日は、来られないです」
「なんでだい」
「一人に、一刻くらい掛かります」
「一刻」
「日が暮れるまでに、六人です」
誰かが数を言った。
「三百は並ぶよ」
「三百ですか」
「昼までにね」
「下町は、何人ですか」
「二千だ」
「二千」
「二千と、少し」
俺は坂を見た。列は曲がって、見えなくなっている。見えないところが、まだ続いている。
人が増えていた。減っていないのに、増えていた。一人直すあいだに、三人来る。これは、追いつかない。
「ルーク様」
「はい」
「列を、止めますか」
「止められますか」
「止めれば、押し合いになります」
「じゃあ、止めないでください」
「はい」
「シルフィさん」
「はい」
「重い人から、順にできますか」
「誰が重いか、どなたが決めます」
「……そうですね」
「決めた者が恨まれます」
「そうなりますね」
「わたくしが、決めましょうか」
「駄目です」
「なぜです」
「恨まれるからです」
ミオさんが列の端を見て、俺のところへ戻ってきた。
「後ろ、また伸びた」
「どのくらいですか」
「坂を、一つぶんニャ」
「すみません」
「なんだい」
「一つ、言っていいですか」
「言えよ」
「治すのは、お医者さんの仕事です」
「あんた、治したろう」
「治してないです」
「治したよ。うちの子を見た」
「戻しただけです」
「同じことだろう」
「違います」
列が少し静かになった。
「俺は、壊れる前に戻すだけなので」
「だから、治したんだろ」
「戻したあとに、また壊れます」
「……」
「明日も、同じ水を飲むので」
「じゃあ、どうすんだ」
「そうですね」
俺はそこで少し考えた。考えることはあまりない。
いつもは、目の前のものを見れば決まる。
このときは決まらなかった。決まらないのは、目の前のものが人だからだ。
人は、俺の仕事ではない。仕事ではないほうへ、列ができている。
「……水を、直します」
「水」
「はい」
「水は、壊れてないよ」
「壊れてます」
「どこがだい」
「来る道が、壊れてます」
広場に水盤があった。石を刳り抜いた大きな盤だ。
縁の高さは腰まである。
中は白かった。石灰が、層になって溜まっている。
層は、指を並べたくらいの厚みだ。一年に一枚ずつ、積んだ厚みだと思う。
水口は塞がっていた。
塞いだのではない。塞がったのだ。
俺は盤の底に触れた。石灰の層が剥がれた。
いちばん上の層から、順に浮いて、薄い板になって割れた。
割れた板は、粉になって散った。散ったあとに、石の目が出た。
石の目は細かかった。磨いてある石だった。
水口の奥に、陶管がある。管は、三箇所で割れていた。割れた破片が、土の中に散っている。
破片が動いた。浮いて、それぞれの場所へ戻った。
戻った縁が、噛み合った。噛み合ったところに、継ぎ目の線が残った。
線はすぐに消えた。
土が白かった。塩を吹いている。吹いた塩の粒が、浮いた。浮いて、風もないのに散った。
散ったあとの土は、黒かった。黒い土は、水を通す土だ。
下から、押し上がるものがあった。
「はい、いいですよ」
音がした。石の中を、何かが通る音だ。
水口から、水が出た。泥色だった。
二度目も、泥色だった。
三度目に、澄んだ。
澄んだ水が、盤に溜まっていく。溜まる音は高かった。
「出た」
「出たね」
「出たぞ!」
人が走った。
器を母親が落とした。拾って、また落とした。二度落として、三度目に持った。
持つ手が震えていた。
ロッタさんは動かなかった。
水盤の前に、立っていた。立ったまま、荷車を振り返らなかった。
「ロッタさん」
「……」
「あの、水が」
「聞こえてるよ」
「怒ってますか」
「怒ってない」
「そうですか」
「あんた、明日から誰が水を買うと思う」
「……あ」
「あ、じゃないよ」
「すみません」
「謝るんじゃない」
「はい」
「謝られると、もっと困る」
その人は、荷車の柄を持って、動かさなかった。
樽は四つとも満杯だった。満杯のまま、日が傾いていた。
俺は路地を見に行った。水は三本目の路地まで来ていた。
四本目には来ていない。四本目は坂の上だ。
「オズワルドさん」
「なんだ」
「上まで、行かないですね」
「行かん」
「なんでですか」
「押す高さが、足りん」
「足りないですか」
「そこの管は、この一町ぶんだ」
「一町」
「もとから、それだけの太さだ」
その人は坂の上を見て、しばらく黙っていた。黙ってから、こちらへ向き直った。
「わかったか」
「わかりました」
「一町では、足りん」
「足りないですね」
「大水道を通すしかないのだ」




