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第93話「水のせいだ」

 下町は坂の上にある。上なのに下町と呼ぶ。水が来ないほうだからだ。


 道は乾いていて、乾いた道に桶を持った人が並んでいる。


 並びは井戸まで続いていた。


 桶はどれも小さかった。小さいのは、汲める量が決まっているからだ。


 並んでいる人は喋らない。喋らないのは、順を数えているからだと思う。


 ミオさんが鼻を鳴らして、耳を一度だけ立てた。


「におうニャ」


「水がですか」


「土」


「土ですか」


「井戸の土じゃない」


「じゃあ、どこの土ですか」


「もっと、深いほうの土」


「わかりますか」


「わかる。冷たい土は、におう」


「見せていただけますか」


「見るだけかい」


「見るだけです」


「なら、いいよ」


 縄が短かった。短いのは、底が浅いからではない。水がそこまでしか無いからだ。


 桶を上げてもらった。


 水は澄んでいた。澄んでいるのに匂いがある。


 泥でも、鉄でもない匂いだ。


「これ、器に取っていいですか」


「取ってどうする」


「置いておきます」


「置くのかい」


「はい」


 器に移して床に置いた。しばらく置いた。


 底に膜が残った。細かくて、指では取れない。


「オズワルドさん」


「なんだ」


「これ、見えますか」


「見える」


「石灰ですか」


「石灰は、白い」


「白くないですね」


「白くない」


 灯りを井戸に下ろした。底に管が落ちていた。焼き物の管だ。


 管の太さは、腕一本ぶんある。


 継ぎ目が外れていた。外れた口から、別の水が出ている。


 出ているほうは、濁っていた。濁りは糸のように細い。


 細い糸が、井戸の水に混ざっていく。


 混ざったところは、すぐ見えなくなった。


 見えなくなっただけで、消えてはいない。


 管の中には、別の水が通っている。通っているのは、上からではない。下から押し上がってきていた。


「これ、井戸じゃないですね」


「井戸だ」


「井戸は、壊れてないです」


「では、なんだ」


「上から、管が落ちてます」


「管だと」


「水を通す管です。焼いてあります」


「……大水道のものか」


「わからないです」


「なぜ、井戸の底にある」


「井戸を管の上に掘ったんだと思います」


 オズワルドさんは縁に手をついて、下を覗いた。覗いたまま、しばらく黙っていた。


「このあたり、井戸をいくつ掘りましたか」


「四十本だ」


「出ましたか」


「一本も出とらん」


「じゃあ、掘る場所の話じゃないです」


「では、なんの話だ」


「水の道がこっちへ来てないんです」


「四十本、無駄か」


「無駄じゃないです」


「なぜだ」


「四十本ぶん、来てないことが分かりました」



 町医者の家は、戸が開けっ放しだった。閉めると、人が入れないからだ。


 土間に板が敷いてある。板の上に六人寝ていた。六人とも子供だった。


 板は机の天板だった。脚が外して、壁に立ててある。


 足りなくなってから、外したのだと思う。


 部屋の隅に、桶が置いてあった。


 桶の水は、下町のものだ。底にあの膜が張っていた。


「一人じゃないんですね」


「一人なら、走らん」


「六人ですか」


「昨日から、六人だ」


「昨日まではどうでした」


「三日で、九人」


 いちばん手前の子を、見た。唇の色が薄かった。


 白いのではない。青が少し混じっている。


 手首を町医者の人が押さえていた。脈を数えている。


「速いですか」


「速い」


「浅いですか」


「浅い」


「何ですか、これ」


「水だ」


「水ですか」


「水だ。分かっとる」


「分かってるんですね」


「二十年、同じだ」


「じゃあ、替えれば」


「替える水がない」


 その人はそこで手を離して、次の子の手首を取った。同じことを、六度した。


「薬は」


「効かん」


「効かないですか」


「飲ませたあとに、また水を飲む」


「そうですね」


「飲まんと死ぬ」


「はい」


「飲むとこうなる」


 シルフィさんがしゃがんで、子供の額に手を当てて、目を閉じた。


 それから、静かに手を離した。


「毒ではありません」


「毒ではないのか」


「体が覚え違いをしている形でもありません」


「……なんだそりゃ」


「ただ、弱っております」


「弱っとるだけか」


「はい」


「弱っとるだけで、死ぬ」


「存じております」


 シルフィさんは立たなかった。しゃがんだまま、次の子を見ていた。


 この人は、こういうとき数を数える。


 数えて、覚える。覚えたぶんだけ、あとで黙る。


「ルーク様」


「はい」


「六人、おられます」


「いますね」


「一度に、おいくつできますか」


「一つです」


「……はい」


「一人ずつに、なります」


「では、順を決めねばなりません」


「決められますか」


「決められません」


「そうですよね」



 外に荷車があった。樽が、四つ積んである。


 樽の箍が新しい。新しいのは、締め直した跡だ。


 側に、小さな婆さんが立っていた。


「うちの水は綺麗だよ」


「そうなんですか」


「飲んでごらん」


 柄杓で一口もらった。匂いが無かった。舌に、何も残らなかった。


 器に取って、置いてみた。膜は出なかった。


「どこの水ですか」


「西の湧きだよ」


「遠いですか」


「半日だ」


「往復でですか」


「片道だ」


「一日仕事ですね」


「遠いから、高いんだ」


 誰かが値のことを言いかけて、やめた。


 婆さんは何も言わずに、樽の栓を締めた。


 締める手が速かった。


「ロッタさん、でしたね」


「そうだよ」


「伯爵さまの水も、来てますよね」


「来てる」


「毎日ですか」


「三日に一度だ」


「足りますか」


「足りゃしないよ」


「そうですか」


「けど、あれが無かったら」


「無かったら」


「この町は、三代前に死んでる」


「三代」


「あたしの婆さんの代からだ」


「ずっと来てるんですね」


「一度も、止まったことがない」


 俺は樽の箍を見ていた。締め直した跡が、いくつもある。同じ樽を、何十年も使っている。


 この人は、水を運ぶ人だ。運ぶ人がいるから、届いている。



 医者の家から、人が出てきた。女の人だった。


 髪が片側だけほどけている。ほどけたことに、気づいていない顔だった。


 その人は、まっすぐ来た。


 途中で誰も止めなかった。止められる人が、そこにいなかった。


 ダグさんは動かなかった。動かないほうがいいと、判断したのだと思う。


 来て、俺の腕を掴んだ。掴む力が強かった。


「あんた」


「はい」


「あんた、何でも直せるんだろう」


「……修理屋です」


「聞いた。井戸を直したって」


「井戸は、まだです」


「この子を」


 その人は、そこで一度だけ息を吸った。


「この子を、治してくれ」

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